第10話 知らない奴じゃなくなるまで
8月16日(日)。夜の19時。
練馬の外れの駅の改札を出たところで、篠宮澪は、一度立ち止まった。
「……やっぱり、帰る」
「篠宮さん」
「無理。知らない大人の家で、知らない大人の前で喋るなんて。いちばん無理なやつ」
昨夜、電話で全部を話した。ちゃんとしたママを連れてくるはずが、相手のほうが先に、篠宮の声を聴きたいと言っていること。断るなら、それでいいこと。
篠宮は、電話口で長いあいだ黙っていた。それから、「行く」とだけ言って切った。
その「行く」を言った人が、今、改札の前で立ち止まっている。
「僕は、無理に連れていきません」
篠宮は、僕を睨んだ。
「ずるい言い方」
「本心です」
篠宮は、しばらく足もとを見ていた。それから、黙って歩き出した。
住宅街の坂の途中で、篠宮はもう一度立ち止まった。今度は、何も言わなかった。電柱に片手をついて、長く息を吐いて、また歩き出した。
僕は、何も言わずに隣を歩いた。
「その人、怖い?」
坂の上の方を見たまま、篠宮が聞いた。
「怖いです」
嘘はつかなかった。
「僕は、1回目は一言も言い返せませんでした」
篠宮は、少しだけこちらを見た。何か言いかけて、やめた。歩く速さは、変わらなかった。
◇
黒鉄鋼一の仕事場は、古い一軒家だった。
呼び鈴を押すと、家の奥から、声だけが返ってきた。
「開いてる」
玄関の引き戸を開けると、煙草と、インクと、古い紙の匂いがした。廊下の壁に、額に入った原画が並んでいる。『アッシュ・バラッド』の、見開きのページ。焼け落ちた街の中に、主人公が1人で立っている。
奥の部屋に通された。机が2つ。描きかけの原稿。床から天井まである本棚。灰皿には、吸い殻が山になっている。
黒鉄は、仕事机の椅子に座ったまま、こちらを振り返った。
「そいつか」
篠宮が、僕の半歩後ろで固まった。
「篠宮澪さんです」
黒鉄は煙草をくわえて、火をつけた。煙をひとつ吐いてから、篠宮を見た。
「喋れ」
それだけだった。
篠宮の喉が、動いた。
声は、出なかった。
◇
壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
篠宮の指が、スカートの布を握りしめている。唇は少しだけ開いていて、何かを言おうとした形のまま、止まっている。顔から、血の気が引いていくのが見えた。
ゼミの教室と、同じだった。
黒鉄は、何も言わなかった。急かしもしなかった。煙草の灰が、長くなっていく。
ただ、目を逸らさなかった。ブースで客の顔を見なかったあの人が、固まった篠宮の顔を、じっと見ていた。値踏みをしているのか、待っているのか、僕にはわからなかった。
僕は、口を開きかけた。
篠宮の代わりに説明すれば、この沈黙は終わる。声の良さも、朗読のうまさも、僕なら言葉にできる。
でも、閉じた。
僕が喋ったら、黒鉄にとって、篠宮は「知らない奴」のままだ。
秒針が、1周した。
2周目の途中で、篠宮が動いた。
喉からではなかった。足だった。篠宮は、ふらりと本棚の前に歩いていった。何かに引かれるみたいに、背表紙の並びに指を伸ばす。
『アッシュ・バラッド』、1巻。
篠宮は、それを抜き取った。ページをめくる指が、震えていた。迷わずに、真ん中より少し後ろのページを開いた。
そこには、焼け野原の街で、ヒロインが主人公に背を向けて立っているコマがあった。
僕が子どものころ、意味もわからないまま、何十回も読み返したページだった。
篠宮は、息を吸った。
「──燃え残ったものを、灰と呼ぶな」
声が、部屋に満ちた。
「あたしは、まだ、燃えてる」
黒鉄の指から、煙草の灰が落ちた。
◇
澄んだ声だった。冷たい水みたいに体の奥まで届いて、届いたところで、熱に変わる声。
アニメで聞いた声とは、違った。紙の上のヒロインが、黒鉄の目の前で、黒鉄の知らない声で喋っていた。
篠宮は、本を閉じた。両手で胸の前に抱えたまま、黒鉄のほうを向いた。声は、もう震えていなかった。
「私は、オーディションに、3回落ちました」
黒鉄は、黙って聞いていた。
「3回とも、最後の面接で、声が出ませんでした。声を、聴いてもらう前に、終わりました。誰もいない部屋で、毎晩、喋ってました。同接は、2人でした」
篠宮の指が、本の表紙を強く押さえている。
「先生は、知らない奴が、自分の絵の中で喋るのが嫌なんだって、聞きました」
篠宮は、一度だけ、目を閉じた。
開いた。
「知らない奴が喋るのが気色悪いなら、私を知ってください」
まっすぐな声だった。
「知らない奴じゃなくなるまで、私が喋ります」
言い切った瞬間、篠宮の膝から力が抜けた。本を抱えたまま、畳の上に座り込む。肩で息をしていた。
黒鉄は、部屋の隅に積んであった座布団を1枚掴んで、篠宮のほうへ放った。
「座るなら、それに座れ。ガキが」
それ以上は、何も言わなかった。
篠宮は、座布団を引き寄せて、その上に座り直した。それから、首だけで僕を振り返った。黒鉄からは、見えない角度だった。
「……あんた、本当に何も言わなかった」
息だけの声だった。睨んだ目は、すぐに逸れた。逸れる直前の一瞬だけ、少し笑っていた。
◇
長い沈黙だった。
黒鉄は、灰皿に煙草を押しつけた。新しいのに手を伸ばしかけて、やめた。
篠宮の抱えている1巻を、じっと見ていた。それから、篠宮の顔を見た。
「……さっきは、一言も出なかったな」
「はい」
「今は、出た」
「はい」
「なんでだ?」
篠宮は、少し考えてから答えた。
「先生の描いた子が、先に喋ってくれたので」
黒鉄の目が、わずかに細くなった。それが、この人の笑い方なのかもしれなかった。
黒鉄は、椅子を回して、仕事机に向き直った。描きかけの原稿の上に、真っ白な紙を1枚、置いた。鉛筆を取る。
背中を向けたまま、言った。
「描いてやる」
篠宮が、息を呑んだ。
黒鉄の鉛筆が、紙の上で、最初の線を引いた。
「ただし、ママとは呼ぶな」




