第11話 あの人が描くなら
8月17日(月)の昼。
くじら座の仕事場は、中野の古いマンションの3階にあった。
チャイムを鳴らすと、ドアを開けたのは、夏コミで売り子をしていた女の子だった。今日はTシャツに、絵の具の跡がついたエプロンをしている。明るい茶色の短い髪の、前髪の一房だけが、ぴょんと跳ねていた。
「あ、黒鉄さんのとこで固まってた人だ!」
悪気のない声だった。ここねは僕の手首を掴んで、そのまま玄関の中へ引っぱり込んだ。
「先生ー、お客さん!」
通されたのは、机が4つ並んだ部屋だった。壁一面に、資料の写真と、色見本と、付箋だらけの原稿の束。いちばん大きな壁には、『スターリー・ホエール』の最終巻の表紙が、額に入れて掛けてあった。今年の春に完結したばかりの作品だ。
窓際の机で、くじら座がペンタブレットに向かっていた。画面に映っているのは、原稿ではなく、何本も線を引いては消した落書きだった。
その机の横の本棚に、手の届く高さで、1列だけ別の背表紙が並んでいた。
『アッシュ・バラッド』。42冊。どの背も、白く擦り切れていた。
くじら座は、手を止めずに言った。
「何しに来たの?」
「はい。教えに来ました」
くじら座のペンが、止まった。
「黒鉄先生が描くと言ったので、教えに来ました」
◇
くじら座は、ゆっくりと椅子を回して、こちらを向いた。
「嘘でしょ」
「昨日の夜、先生の仕事場で」
僕はスマホを取り出した。昨夜、帰り道で黒鉄から届いた短いメッセージを見せようとした。
くじら座は、画面を見なかった。
代わりに、自分のスマホを手に取った。連絡先を探す指が、迷わなかった。スピーカーにして、机の上に置く。
呼び出し音が、3回鳴った。
『……なんだ?』
黒鉄の声だった。寝起きみたいに、不機嫌な声。
「あんた、描くって本当?」
くじら座は、前置きも挨拶もなく言った。
少しの間があった。
『……ああ、VTuberの件か。お前に関係あるか?』
「大ありよ」
くじら座は、身を乗り出した。
「私も描く」
電話の向こうが、静かになった。
ほんの2秒くらいだった。それから、黒鉄の平らな声がした。
『……勝手にしろ、くじら座』
通話が切れた。
くじら座は、切れたスマホの画面を、しばらく見下ろしていた。黒鉄の声には、何の色もなかった。驚きも、苛立ちも、喜びも。くじら座だけが、机の端を指で強く押さえていた。
それから、くじら座は笑った。
声を出して、肩を揺らして、笑った。
「あの人が描くなら、私も描く」
笑いながら、目だけが燃えていた。
「勝ち逃げは、許さない」
◇
ここだ、と思った。
この人の連載は春に終わった。次の連載はまだ動いていないようだ。勝負の相手はとっくに商業から去っている。決着をつけたくても、つける場所が無い。
なら、場所を作ればいい。
「同じ事務所で、同じ日にデビューさせます」
くじら座の笑いが、止まった。
「黒鉄先生の子と、くじら座先生の子。2人並べて、同じ日に。登録者数、同時接続数、再生数、全て数字が出ます」
僕は、くじら座の目を見た。
「読者アンケートより、正直です」
くじら座は、黙って僕を見ていた。それから、口の端を上げた。
「あなた、性格悪いって言われない?」
「数字で嘘をつかないだけです」
「最悪ね」
くじら座は、楽しそうに言った。椅子ごと僕のほうへ寄ってきて、ペンの尻で、僕の胸を軽く突いた。
「でも最高。そういう子、嫌いじゃないわ」
突かれたところだけが、しばらく熱かった。くじら座の目は、もう机の上の、通話の切れたスマホに戻っていた。
「いいわ。ただし、条件が1つ」
「はい」
「私の子の中身は、私が選ぶ」
「え」
くじら座は、振り返らずに、部屋の奥へ声をかけた。
「ここね」
「はーい?」
エプロンの女の子が、隣の机から顔を出した。
◇
「この子よ」
くじら座が、言った。
葉月ここね。19歳。漫画の専門学校を途中でやめて、くじら座のアシスタントをしている。背景の担当だと、夏コミのブースの裏で、くじら座から聞いていた。
ここねは、きょとんとした顔で、僕とくじら座を交互に見た。
それから、ぱっと笑った。
「えー、無理無理! あたし、そういうの向いてないです」
明るい声だった。両手を顔の前で振って、くるくると表情を変える。
「VTuberでしょ? 無理ですって。あたし、喋るのは好きだけど、画面の向こうに人がいると思うと、なんか、だめなんですよー」
「……前に、やってたでしょ」
くじら座の静かな声に、ここねの手が、止まった。
笑った顔のまま、ここねは固まった。夏コミのブースで見た、あの一瞬と同じだった。
「ぴよ田ここ」
くじら座が、その名前を言った。
ここねの笑顔が、ゆっくりと崩れていった。
「……なんで、先生が?」
「見てたから」
くじら座は、ペンを指で回した。
「180日間、1日も休まずに配信してた子がいた。平均の同時接続は4人。最後の日まで、誰が来ても、1人1人のコメントを拾ってた」
ここねは、何も言わなかった。
「コメントは、1回も打たなかった。私だって知ったら、ここねは私に気を遣うでしょ。だから、見てただけ」
ここねは、俯いた。
「やめたんじゃない。折れたのよね」
長い沈黙のあと、ここねは顔を上げた。
また、笑っていた。さっきと同じ、明るい笑顔だった。
「昔の話ですって。もう、終わったことなんで」
それから、僕のほうを向いて、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。せっかく来てもらったのに」
ここねは、そのまま部屋の奥へ戻っていった。
くじら座は、ここねの背中を見送ってから、僕を見た。
「あの子、背景を描くのが速いの。速くて、丁寧で、1枚も手を抜かない。締め切りの前の晩でも、文句ひとつ言わない」
部屋の奥で、紙の束が崩れる音がした。
「わっ、ごめんなさい! 先生の資料!」
くじら座は、そちらを見なかった。
「……あの配信を見てたころから、ずっと思ってたの。あの子に、ちゃんとした体を描いてやれたらって」
「どうして、言わなかったんですか?」
「1人じゃ、もたないもの。あの子」
くじら座は、ペン先で、机の端を軽く叩いた。
「自分を売り込むってことを、知らないのよ。知らない人から変なメッセージが来ても、親切な人だと思って、丁寧に返事しちゃう。私が絵だけ描いて渡しても、あの子はまた1人で、画面の前に座るだけ」
机を叩いていたペン先が、浮いた。
「やるなら、ちゃんと面倒を見られる人のところで。そう決めてたの」
くじら座は、僕の顔を、正面から見た。下描きの線を確かめるときの目だった。
「あなたのところが、そうなのかは、まだ知らないけど」
それから、机の上の落書きに目を落とした。
「でも、あの子じゃなきゃ、描かないから」
それだけ言って、ペンタブレットに向き直った。
◇
駅に向かう道で、スマホを開いた。
「ぴよ田ここ」と検索する。
チャンネルは、まだ残っていた。小さなひよこのアバター。最後の投稿は、2年前。登録者は、38人。
再生リストが、1つだけあった。
「毎日配信」。
動画の数を見た。
180本。




