第12話 また明日ね
全部を見る時間は、無かった。
ぴよ田ここ──ここねの配信は、1本がだいたい1時間から2時間。180本で、200時間以上。寝ずに見ても、1週間以上かかる。
だから、最後の10分だけを見ることにした。
180本かける10分で、1,800分。30時間。
8月17日の夜、アパートの6畳で、僕は1本目の再生ボタンを押した。
「──はい、ということで! 今日はここまで! 来てくれた人、ありがとー!」
画面の中で、小さなひよこが跳ねていた。線の少ない、手作りの絵だった。声が高い。テンポが速い。「今日は5人も来てくれた!」 アーカイブに、その夜の同接は残らない。けれど、この子は毎晩、最後に来てくれた人数を自分で数えて言っていた。
「また明日ね!」
僕はノートを開いて、線を1本引いた。
◇
2本目。「今日は3人!」
「また明日ね!」
線を1本。
10本目。「6人! 新記録!」 ひよこは、その日来た人の名前を、1人ずつ全部呼んでから、手を振った。
「また明日ね!」
30本目あたりから、声が少しかすれはじめた。それでも、テンポは落ちなかった。コメントが1件流れるたびに、拾って、笑って、返す。誰も喋らない時間には、自分で話題を作って、自分で笑った。
60本目。
「えー、今日はね、2人も来てくれた! すごくない?」
その声を聞いていると、すごいことのような気がしてきた。
「また明日ね!」
夜が明けた。カーテンの隙間が白くなって、また暗くなった。コンビニのおにぎりを2つ食べた。目の奥が、ずっと熱かった。
100本目。4人。
120本目。3人。
150本目。1人。
画面の向こうに、1人しかいない夜。ひよこは、その1人に向かって、最後の1秒まで喋っていた。
「また明日ね!」
線を、引く。
ノートの上に、正の字が並んでいく。
179本目を見終えたとき、窓の外は、2度目の朝になっていた。
正の字が35個と、線が4本。
179回。
1回も欠かさずに、あの子は「また明日ね」と言っていた。
僕は、180本目を開いた。
最後の10分を、再生する。
「……はい。今日は、ここまで。来てくれて、ありがとね」
ひよこは、手を振った。
画面が、止まった。
僕は、もう一度、最後の30秒を巻き戻した。
言っていなかった。
180本目だけ、「また明日ね」が無かった。
◇
180本目だけは、頭から見ることにした。
倍速にはしなかった。この1本だけは、あの子が喋ったのと同じ速さで聞かなければいけない気がした。
いつもと同じ、高い声だった。いつもと同じように、コメントを1件ずつ拾っていた。チャットに名前が出たのは、3人。
36分を過ぎたころ、チャットのリプレイに、1件のコメントが流れた。
〈180日、おめでとうございます〉
ひよこが、一瞬止まった。
「え、数えてくれてたの? うそ、ありがとー!」
すぐに、いつもの声に戻った。けれど、僕はそのコメントのアイコンから、目を離せなかった。
欠けた月。
見覚えがあった。7月の夜、篠宮の配信で、「ちゃんと、届いてますよ」と一度だけコメントを残した、あのアイコンだ。名前も、同じだった。
僕は、アイコンを押した。
開いたチャンネルには、何も無かった。動画も、再生リストも、自己紹介も。概要の欄に、登録日だけが表示されていた。
4年半前の、2月。
ひなたんごが、いなくなった月だ。
指が、画面の上で止まった。
偶然だと思う。あの月にアカウントを作った人なんて、何万人もいる。誰も見ていない配信を探して見て回る人だって、僕のほかにいてもおかしくない。
それでも、指は、しばらく動かなかった。
僕は、チャンネルのページを閉じた。
見つけてほしくない人を探すのは、僕の仕事じゃない。
◇
8月20日(木)の夕方。中野駅の近くのファミレスに、ここねは約束の5分前に来た。
「この間は、ほんっとにごめんなさい! わざわざ来てもらったのに、あたし逃げちゃって」
明るい声だった。席に着く前から、もう喋っている。座ったと思ったら、テーブルに両手をついて身を乗り出し、息がかかりそうな近さで、僕の顔をのぞき込んだ。
「朝比奈さん、目、真っ赤ですけど。大丈夫?」
僕は、背もたれまで体を引いた。これから事務所に誘う人だ。この距離は、まずい。
「見てました」
「何を?」
「ぴよ田ここ」
ここねの笑顔が、そのまま止まった。
「180本、全部」
「……うそ」
「最後の10分だけです」
ここねが、ぽかんと口を開けた。
「なにそれ」
「全部を見る時間が、無かったので」
僕はノートを開いて、テーブルの上に置いた。正の字が、ページいっぱいに並んでいる。
「179回、言ってました。また明日ね、って」
ここねは、ノートを見下ろしたまま、動かなかった。
「180本目だけ、言ってなかった」
ファミレスの店内放送が、遠くで新しいメニューの名前を読み上げていた。
「……そこ、気づくんだ」
小さな声だった。いつもの高い声とは、別の人みたいだった。
「言えなかったの。明日、ちゃんとここに来られる気が、しなかったから」
ここねは、指でノートの線を1本なぞった。
「嘘になるのが、いやだった」
それから、ノートに目を落としたまま、小さく付け足した。
「これ、先生にも言ったことないんだ。……なんで朝比奈さんに言っちゃったんだろ」
僕は、背筋を伸ばした。
「180日間の平均同時接続数は4人でした。1人の日もあった。その日も、最後まで、その1人に喋ってた」
ここねは、顔を上げなかった。
「誰も見ていない180日間、一度も休まなかった人を、コメントが無くても喋り続けられる人を、僕は才能と呼びます」
ここねの肩が、小さく揺れた。
笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「……最後の10分しか見てない人に、言われたくないんですけど」
「残りは、これから全部見ます」
「全部?」
「全部です」
ここねは、おしぼりで目を押さえて、それから、こくりと頷いた。
1回だけ。けれど、はっきりと。
◇
179本の、最後の10分より前の時間を、僕はそれからの9日間で見た。1.5倍速にしても、100時間以上あった。
寝る時間を、削った。倉庫の夜勤の休憩にも、イヤホンをつけて見た。
「まだ見てんのか」
隣のパイプ椅子で、真田がカップ麺の蓋をはがした。
「黒鉄も、くじら座も、VTuberは描いたことがないんだろ。なんで、人気Vのママ絵師に頼まなかった? 姉妹とかママのファンごと、連れてこられるだろ」
真田らしい聞き方だった。数字が先に来る。
「もちろん考えた」
僕は、イヤホンを片方だけ外した。
「でも、人気Vのママ絵師に頼んで爆死してる企業勢も個人勢も、たくさん見てきた」
「ママが人気でも、か」
「ママの人気も姉妹の人気も、その人たちのものだから」
真田は、黙って麺をすすった。
「それに、そういう人は実績が豊富になりがちで、ちゃんと自分の娘として見てくれる人は少ない。もちろん、例外もいるけど」
画面の中で、小さなひよこが跳ねていた。
「だから、お願いするなら、VTuberを初めて描く人がいいと思ってた」
「それで、漫画家2人か」
「あと、そういう絵師はだいたい1年以上先まで依頼で埋まってる」
「お前それ……漫画家も絶対忙しいと思うぞ」
真田は、カップ麺の汁を飲み干して、立ち上がった。
8月29日の朝、最後の1本を見終えて、僕は計画書を開いた。
キャラデザの行。140万円を、60万円に打ち直す。黒鉄の30万円。くじら座には、まだ値段の話をしていない。表には、同じ30万円を入れた。
差額のセルが、自動で計算し直される。
1期生、2人。
ママ、2人。
足りないお金、290万円。




