28.本当の夫婦の夜
夜の空気はひんやりとして、虫の声だけが規則正しく響いていた。
私はいつものように離れの縁側に腰を下ろし、庭に広がる暗がりをぼんやりと眺めていた。
昼間、彩芽さんに思わず涙を見せてしまった。
胸の奥に秘めていた気持ちを打ち明けて、少しは楽になったはずなのに……心はまだ波立ったままだ。
──私は本当に、旦那様の妻でいられるのだろうか。
もっと、ちゃんと「夫婦」として隣に並んで歩いていけるのだろうか。
夜風が頬を撫で、ひやりとした感触に思わず肩をすくめる。
けれど、ここに座ることをやめられなかった。
縁側で旦那様と並んで、他愛もない話を交わす──その時間が、私にとってかけがえのない宝物だから。
……でも、今夜は来てくれるだろうか。
あの人は真面目だから、帳面と向き合ったまま夜を過ごしてしまうかもしれない。
そんな想像に小さく笑い、同時に胸の奥が少し寂しくなる。
そのとき。
「……環」
低く真っ直ぐな声が、静けさを破った。
振り返ると、縁側へ続く廊下に旦那様の姿があった。
灯明に照らされた横顔は、いつもより鋭い。
迷いを断ち切るような眼差しに、胸がぎゅっと締めつけられる。
旦那様はためらいもなくこちらへ歩いてくる。
金色の瞳はただ一人、私を射抜いていて──息が詰まりそうになった。
私は慌てて両手を膝の上で重ね、背筋を正す。
鼓動が暴れて落ち着かず、胸の奥で高鳴りが響く。
「……旦那様?」
掠れた声で名を呼ぶと、彼は縁側に腰を下ろし、私の隣に並んだ。
夜気が一層張りつめ、灯明の光に浮かぶ横顔が凛として見える。
「環」
呼ばれただけで肩が震えた。
俯きそうになるのを堪え、恐る恐る顔を上げると──旦那様の瞳が、強く私を捕らえていた。
「私は……」
言葉を探すように、旦那様の尻尾が揺れる。
獣耳も小さく動き、彼もまた緊張しているのだと知る。
その姿に、胸が少し温かくなった。
「俺は……ずっと伝えられずにいた」
一拍置かれたあと、静かで確かな声が響く。
「環。おまえを……愛している」
時間が止まったようだった。
耳に届いた言葉が胸に落ちるまで、ほんの一瞬のはずなのに永遠のように思えた。
次の瞬間、胸の奥に熱が広がり、目の前が涙で滲む。
──夢に見た言葉。
けれど現実に聞いたその響きは、想像をはるかに超えるほど重く、優しく、温かかった。
「環は……俺の支えだ。
おまえが隣にいてくれるだけで、どれほど救われてきたか……。
本当は、ずっと言えずにいた」
不器用な言葉が、胸に深く染み渡る。
頬を伝う涙を止められず、私は必死に首を振った。
「……私の方こそ。
ずっと、旦那様に伝えたかったんです。
私は……あなたを、心から愛しています」
声は震えていたけれど、心からの想いを込めた。
涙で滲む景色の中、旦那様の表情がふっと緩むのが見えた。
次の瞬間、温かな手が私の手に重ねられる。
大きく頼もしいその手を、私はぎゅっと握り返した。
夜の虫の声も、風の音も、すべて遠のく。
今この瞬間、世界は旦那様と私だけで満たされていた。
──やっと伝え合えた。
やっと、私たちは「本当の夫婦」になれるんだ。
──side 彩芽
庭の隅の陰から、二人をそっと見守っていた。
環ちゃんの涙と、蓮の照れた笑顔。
長いこと歯がゆく見てきた二人が、ようやく想いを通わせた。
「……よかったわね」
小さく呟いた声は、夜風に紛れて消えていった。
けれど胸の奥が温かく満ちていく。
ここまで来るのに、きっと環ちゃんも、蓮も、たくさんの不安と迷いを抱えてきた。
その全てを越えて、やっと隣り合えたのだ。
見上げれば、星々が静かに瞬いている。
まるで二人の未来を祝福するかのように。
──大丈夫。
もうこの子たちは「本当の夫婦」として歩いていける。
そう信じて、私は静かにその場を離れた。




