19.守られることを知った日
「ほう。分家が、本家の婚姻に口を挟むか」
蓮の声は低く静かに落ちた。怒鳴りではない。だがその一言で、応接間の空気は氷のように張りつめ、吐息すら重く感じられる。
おばさんは震える唇を動かし、無理に笑みを繕った。
「ち、違いますのよ、蓮様。ただ……ただ、神宮寺家のことを案じて……」
「家を案じる?」
蓮は片眉をわずかに上げる。
「ならば聞こう。お前が口にした“彩芽の母親がどうの”という話。それが、この家の何を案じての言葉だと?」
おばさんの喉が詰まり、声が途切れた。夫は横で視線を泳がせるばかりで、助け舟すら出せない。
「彩芽は、この家に仕えて長い」
蓮の声は淡々と続く。
「誰よりも誠実に働き、私も環も、使用人たちからも信頼を得ている。それを──“母親の素性”だの、“色目を使う”だの。よくも言えたものだ」
言葉は冷たいが、奥に潜む怒りを誰もが肌で感じていた。
「ひ、ひとつの意見として……」
おばさんはか細い声を絞り出す。
「分家の者として、将来のことを思って……」
「将来を思うなら、働き手を理不尽に貶めることが家のためになると、本気で考えているのか?」
おばさんの顔から血の気が引いた。答えられない。答えれば、自らの言葉がただの悪意だったと認めることになるからだ。
「口を挟むにも、限度がある」
蓮は一歩踏み出し、おばさんの目の前に影を落とした。
「分家の立場を忘れ、妻と彩芽を侮辱した。これ以上の無礼を、私は見過ごさない」
おばさんは肩を震わせ、声にならない声を漏らす。夫は蒼白な顔で頭を下げ、「申し訳……」と繰り返すばかり。
やがて二人は深く頭を下げると、逃げるように立ち上がった。襖が閉まる音が重く響き、足早に去っていく背中は小刻みに震えていた。遠ざかる足音が消えると、応接間は嘘のように静まり返る。
刺々しい空気は消え、残ったのは張り詰めた緊張と虚脱の余韻だけだった。
「はぁ……」
緊張が解け、思わず大きく息を吐いた。体勢が崩れる。
「環」
低く名を呼ばれ、はっと背筋を伸ばそうとする。だが蓮の手がそれを制した。
「余計な言葉を気にするな」
顔を上げると、すぐそばに蓮の顔があり、心臓が大きく脈打つ。
彼は真っ直ぐに私を見つめ、口を開いた。
「お前も、彩芽も、私が守る」
その言葉は、重苦しさを切り裂くように響いた。
その時──。
「環ちゃんっ!」
勢いよく襖が開き、彩芽が私に飛びついてきた。
「大丈夫だった!? あのおばさん、要らぬことばっかり言って……!」
胸に秘めていた反発を、彩芽は怒りのまま吐き出す。普段は見せない剥き出しの感情に呆気にとられるが、抱きしめる腕に力がこもり、息が詰まりそうになる。
「大体あのおばさん、いつもごちゃごちゃとうるさいのよ! あわよくば自分の娘を蓮に継がせようなんて、図々しいにもほどがある!」
「彩芽」
蓮が低く制するが、彩芽は振り向き、今度は彼へ怒りを向けた。
「そもそも、蓮! すぐ戻るように使いを出したでしょ!? 帰りが遅いから環ちゃんが……!」
ぐい、と蓮が私の腕を掴み、彩芽の抱擁から引き離す。
「環、大丈夫か」
「……ど、どうにか」
息が止まりそうだったが、蓮に支えられ、ほっと安堵の息を吐いた。
彩芽ははっと目を見開き、慌てて手を放す。
「ご、ごめん環ちゃん! 力入りすぎちゃって……苦しかったよね」
私は首を振り、笑って答える。
「気にしないで。彩芽さんが怒ってくれて、嬉しかったから」
「環ちゃん……」
彩芽は潤んだ目で私を見つめ、唇を噛む。
そこへ蓮が歩み寄り、ぽんっと大きな手を私の頭に置いた。
「環」
穏やかな声が落ちる。
「よく頑張ったな。彩芽のことで怒ってくれて、ありがとう」
その瞬間、胸の奥で張りつめていた糸がぷつりと切れた。
視界がじんわりと滲み、言葉が出ない。必死にこらえても頬が熱を帯びて震える。
「……はい」
かすかに答えるのが、精一杯だった。
襖の向こうは静まり返り、ようやく鼓動が落ち着いていく。全身から力が抜けそうになる。
「……環ちゃん」
彩芽がそっと私の手を握った。その目は赤く滲み、怒りよりも後悔が勝っているように見えた。
「ごめんね。私が守りたかったのに、逆に守られちゃった」
「そんなことないよ」
私は首を振る。
「彩芽さんが怒ってくれたの、嬉しかった。旦那様のことも、彩芽さんが使いを出してくれたから戻ってきてくれたんでしょ?
……本当にありがとう」
胸の奥はまだ熱く、涙は引いたはずなのに目頭がじんわりする。
「環ちゃん……!」
彩芽が手に力を込めた。
「おい」
「何よ、蓮。今は環ちゃんと話してるんだから邪魔しないで」
「いいのか?
さっきから、環のことも私のことも名前で呼んでいるが」
「……」
無言で顔を見合わせる。
「えっと……そんなこと言ってました? 旦那様」
「もう今さらだろ」
蓮が呆れたように突っ込んだ。




