13.揺れる心、交わる視線
──朝。
まぶたは重いのに、眠った実感はほとんどなかった。
浅い夢を見ては目を覚まし、また眠れずに夜が過ぎたのだ。
鏡を覗けば、そこに映るのは疲れきった顔。
目の下に影が落ち、頬の血色も悪い。
(ひどい顔……)
思わず苦笑する。
昨夜、旦那様の隣にいた女性──明るい笑顔がとても素敵だった。
今の自分とは正反対。比べるまでもなく、勝ち目なんてない。
(……今日は嫌だな。こんな気持ちと顔で会いたくない)
けれど、このところ毎朝ともにしている朝食。
今さら私が姿を見せなければ、優しい蓮はきっと心配する。
重い足を引きずるように食堂へ。
挨拶を交わして席についたものの、箸を持つ手に力は入らず、食事も味気ない。
向かいの蓮がじっと見ているのに気づく。
その視線に胸がざわめいた。
「……環。顔色が悪い。昨夜、なぜ来なかった」
低い声に、思わず息が詰まる。
昨日の縁側の光景がよみがえり、喉が固まった。
どうにか笑みを作って答える。
「体調が……あまり良くなくて」
蓮の眉がわずかに寄る。
その顔を見ただけで、胸がちくりと痛んだ。
「……そうか。無理をするな」
結局、心配をかけてしまう。
不器用に言葉を選びながらも、それでも心配してくれる。
その優しさが、今の私にはつらい。
「大丈夫ですから……」
かすれた声でそう返す。
笑顔も、どこか引きつっている。
蓮はそれ以上言葉を継がず、ただ静かに箸を進めた。
けれど、何度も視線を寄越してくる。
そのたびに胸のもやは濃くなり、食事の味はわからなくなっていった。
静かな食堂に、軽やかな足音が響く。
次の瞬間、空気を一変させるような明るい声が飛んできた。
「おはようございま~す!」
思わずびくりとしてしまった。
昨夜の……あの女性だった。
明るい笑顔、弾む声。
迷いも遠慮もないその姿は、眠れぬ夜を過ごした自分とあまりに違っていた。
「……彩芽」
蓮が名を呼ぶ。
彩芽と呼ばれた彼女は、悪びれもせず蓮の隣に腰を下ろした。
「改めてご挨拶させていただきますね。彩芽と申します。以前、離れでお会いしたことがございますが……環様、覚えていらっしゃいますか?」
(やっぱり……あのときの、あの人……)
心臓がどくんと跳ねる。
同時に、昨日の光景が鮮やかによみがえる。
蓮の笑顔──自分の知らない顔。
「私はいつも旦那様のお仕事をお手伝いしております。これからは環様ともお会いする機会があるかと存じます。どうぞよろしくお願いいたします」
「……はい。環です。よろしくお願いします、彩芽さん」
どうにか笑みを作り、頭を下げる。
けれど、声はわずかに震えてしまった。
「まあ……やはり可愛らしい方ですね。旦那様が惹かれるのもわかりますわ」
「……っ」
環の胸がきゅっと縮む。
冗談なのか本音なのか、判断できない。
ただ隣で蓮がわずかに身じろぎしたのを感じた。
「彩芽」
「はいはい、わかっておりますわ、旦那様」
彩芽は軽く笑い、空気を和ませるように手をひらひらと振った。
そのとき──
ぐぅぅぅ~
お腹の音が鳴り響く。
私と蓮はすでに食事をとっている。つまり……
「まあ、恥ずかしい。私ったらお腹が鳴ってしまいました」
えへへ、と小さく笑う彩芽。
蓮は呆れたように息を吐き、近くの使用人に「彩芽の分も用意を」と告げる。
ほどなくして新たな朝食が彩芽の前に並んだ。
(彩芽さんも……一緒に?)
また、心がざわめく。
まるでそれを知っているかのように、彩芽が微笑んだ。
「ご一緒できて嬉しゅうございますわ。環様とゆっくりお話ししてみたかったのです」
そう言われ断れるはずもなく、「ええ、どうぞ」と返すしかなかった。
箸を持つ手に、思わず力がこもる。
胸の中のざわめきは、さらに大きくなっていった。
◆
やがて食事を終える頃、彩芽がふいに顔を上げた。
「環様、せっかくですし、お散歩でもいかがですか?」
にこやかに身を乗り出す彩芽。
その声音は自然で、まるで前からそう決まっていたかのように軽やかだった。
「……彩芽」
蓮の低い声が制止の意を含む。
けれど、彩芽は悪びれず、むしろいたずらっぽく笑って言葉を重ねた。
「えー、旦那様。少しくらいよろしいではありませんか。朝の空気は気持ち良いですし、環様のお顔色も晴れるかもしれませんわ」
「……」
言葉を探すように沈黙する蓮。
その様子を前に、環の胸はざわついた。
(こんなふうに……言い合えるなんて……)
羨ましいと思ってしまう。
蓮に軽く冗談を言い、叱られても笑って受け流せる彩芽。
自分には決してできないこと。
いつも慎重に言葉を選び、相手を傷つけないようにと身を縮めるしかない自分。
「……では、少しだけ」
気づけば、承諾の言葉が口をついていた。
蓮の視線がこちらに向くのを感じながらも、笑顔を作ってうなずく。
「環様っ!」
彩芽の顔がぱっと輝いた。
その無邪気な明るさに押されるようにして、環は小さく笑ってみせる。
「旦那様も、ご一緒に?」
恐る恐るそう問うと、蓮はしばし黙したのち、低く答えた。
「少しだけなら」
その返事に、彩芽は嬉しそうに手を打ち、食堂の空気が一気に明るくなる。
だが環の胸の奥には、まだ冷たい影が残っていた。
(……本当に、大丈夫なのかな……)
彩芽の隣で笑う自分を想像しようとしても、どうしても不安が勝ってしまう。
それでも足を止めることはできず──三人の朝は、思いがけない形で始まっていった。




