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元腐女子令嬢、愛のない契約結婚のはずが狼旦那様に沼落ち中です!?  作者: よつ葉あき


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11/30

11.春の藤と、あなたとの距離


 ──藤棚の下で見上げた、淡い紫の花。

 あのとき、旦那様は目の前に広がる藤を仰ぎ、「見頃だ」と小さく笑った。

 ほんの短いやり取りだったけれど、それは私の心に、春の匂いごと刻まれた。


 あの日から、何度も朝食を共にし、庭を並んで歩き、夜の離れで静かに言葉を交わすこともあった。

 最初はぎこちなかった距離が、少しずつ──ほんの少しずつ、近づいてきたように思う。


 その朝、湯気の立つ味噌汁を前に、旦那様がふと口を開いた。


「……今日は、寺へ行く。春の催しがあるらしい」


「春の催し?」


「花も見頃だそうだ。……どうだ」


 頷くと、旦那様はそれ以上何も言わず、湯飲みを口に運んだ。


(……一緒に外出なんて、初めてかもしれない)


 境内には色とりどりの屋台が並び、笑い声や香ばしい匂いが風に混ざる。

 旦那様は人混みの中でも歩幅を緩め、私が遅れぬよう自然に手を差し伸べてくれた。

 その手に触れるたび、心に小さな灯がともるような感覚が広がる。


「……あれは」


 視線の先に、湯気を立てる甘い香りの饅頭屋台。

 旦那様は迷いなく二つ買い、片方を私に差し出してきた。


「……これ、好みだろう」


「はい……っ! ありがとうございます」


 縁側で同じような饅頭を食べた日の記憶がよみがえる。

(……覚えていてくれたんだ)

 そう思った瞬間、温かな熱が体を巡った。


 ふと、旦那様の指先が私の頬に触れる。

 驚いて瞬きをすると、小さな饅頭の欠片が指先に乗っていた。


「……ついている」


「っ……! す、すみません!」


 私が慌てるのをよそに、旦那様は何事もなかったように指先を拭い、歩き出す。

 けれど、その耳の先がわずかに赤く染まっていた気がする。


 馬車の中は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 窓から差し込む春の光が柔らかく、瞼が自然と重くなる。


「……今日は、楽しめたか?」


「……はい。とても」

(お饅頭は美味しかったし、花が綺麗だった。でも、一番は……)


 そっと前を見ると、旦那様は窓の外を見たまま。

 けれど、口元がわずかに緩んでいるのを見て、胸に温かな波が押し寄せる。


「旦那様は……?」


「……悪くなかった」


 短い言葉なのに、心を満たすには十分だった。

 今の私にはわかる。旦那様の“悪くなかった”は、私と一緒にいて“良かった”ということなのだと──。


 屋敷に着くと、旦那様は私が降りるまで静かに待ってくれた。

 差し出された手を取ると、その握力がほんの少し強まる。

 顔を上げたときには、彼はもう前を歩き出していた。


 その背中を見送りながら、私は心の中でそっと呟く。


 ──もっと、この人のことを知りたい。





 ──side 蓮


 人混みの中でも、環を見失わぬよう歩幅を合わせる。

 その小さな手が何度か私の手に重なり、そのたび心臓が静かに跳ねた。


 ふと、饅頭屋台が目に入る。

 以前、縁側で一緒に食べたとき、環が「美味しい」と笑った顔を思い出す。

 あの笑顔を、もう一度見たい──そう思った瞬間、足は自然とそちらへ向かっていた。


 饅頭を手渡すと、案の定、環は嬉しそうに頬を緩めた。

 その口元に白い粉がついているのが見え、気づけば手が伸びていた。


 指先でそれを拭った瞬間、環が大きく瞬きをし、頬が薄紅に染まる。

 ──しまった。

 だが、後悔よりも先に胸を満たしたのは、その温もりだった。


(やはり、私は彼女に惹かれている)


 そう認めざるを得ない。

 だが同時に、胸の奥底で鈍く疼くものがある。


 “契約結婚”という形で、環と銀次を引き裂いたのは──私だ。

 銀次がどんな顔をして、どんな声で笑うのか、何一つ知らない。

 環の周囲に銀次という者がいないか調べさせたが、何も掴めなかった。


 それでも、忘れられない場面がある──。

 環が眠りの中で、その名を一度だけ呼んだ夜だ。

 愛おしさを含んだその声色。たったそれだけで、二人の間にあった想いの深さが嫌でも想像できてしまった。

 その想像が、刺のように胸に残り続ける。


 それでも──。

 馬車の中で「楽しかったか」と問い、環の笑顔を見たとき、

 後悔も躊躇も、春の霞のように遠のいていった。

 その笑顔を、もう二度と誰かに奪わせたくない。

 そう思った瞬間、迷いは跡形もなく消えていた。


 屋敷に着き、手を差し出す。

 握り返されたその手を、無意識に強く握ってしまう。

 視線を合わせれば、きっと胸の内が露わになってしまう気がして、前を向いた。


(……今、環の横にいるのは私だ)

 その手を離さぬまま、静かに誓う。銀次の分まで、この人を幸せにすると。




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挿絵(By みてみん)
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