11.春の藤と、あなたとの距離
──藤棚の下で見上げた、淡い紫の花。
あのとき、旦那様は目の前に広がる藤を仰ぎ、「見頃だ」と小さく笑った。
ほんの短いやり取りだったけれど、それは私の心に、春の匂いごと刻まれた。
あの日から、何度も朝食を共にし、庭を並んで歩き、夜の離れで静かに言葉を交わすこともあった。
最初はぎこちなかった距離が、少しずつ──ほんの少しずつ、近づいてきたように思う。
その朝、湯気の立つ味噌汁を前に、旦那様がふと口を開いた。
「……今日は、寺へ行く。春の催しがあるらしい」
「春の催し?」
「花も見頃だそうだ。……どうだ」
頷くと、旦那様はそれ以上何も言わず、湯飲みを口に運んだ。
(……一緒に外出なんて、初めてかもしれない)
境内には色とりどりの屋台が並び、笑い声や香ばしい匂いが風に混ざる。
旦那様は人混みの中でも歩幅を緩め、私が遅れぬよう自然に手を差し伸べてくれた。
その手に触れるたび、心に小さな灯がともるような感覚が広がる。
「……あれは」
視線の先に、湯気を立てる甘い香りの饅頭屋台。
旦那様は迷いなく二つ買い、片方を私に差し出してきた。
「……これ、好みだろう」
「はい……っ! ありがとうございます」
縁側で同じような饅頭を食べた日の記憶がよみがえる。
(……覚えていてくれたんだ)
そう思った瞬間、温かな熱が体を巡った。
ふと、旦那様の指先が私の頬に触れる。
驚いて瞬きをすると、小さな饅頭の欠片が指先に乗っていた。
「……ついている」
「っ……! す、すみません!」
私が慌てるのをよそに、旦那様は何事もなかったように指先を拭い、歩き出す。
けれど、その耳の先がわずかに赤く染まっていた気がする。
馬車の中は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
窓から差し込む春の光が柔らかく、瞼が自然と重くなる。
「……今日は、楽しめたか?」
「……はい。とても」
(お饅頭は美味しかったし、花が綺麗だった。でも、一番は……)
そっと前を見ると、旦那様は窓の外を見たまま。
けれど、口元がわずかに緩んでいるのを見て、胸に温かな波が押し寄せる。
「旦那様は……?」
「……悪くなかった」
短い言葉なのに、心を満たすには十分だった。
今の私にはわかる。旦那様の“悪くなかった”は、私と一緒にいて“良かった”ということなのだと──。
屋敷に着くと、旦那様は私が降りるまで静かに待ってくれた。
差し出された手を取ると、その握力がほんの少し強まる。
顔を上げたときには、彼はもう前を歩き出していた。
その背中を見送りながら、私は心の中でそっと呟く。
──もっと、この人のことを知りたい。
──side 蓮
人混みの中でも、環を見失わぬよう歩幅を合わせる。
その小さな手が何度か私の手に重なり、そのたび心臓が静かに跳ねた。
ふと、饅頭屋台が目に入る。
以前、縁側で一緒に食べたとき、環が「美味しい」と笑った顔を思い出す。
あの笑顔を、もう一度見たい──そう思った瞬間、足は自然とそちらへ向かっていた。
饅頭を手渡すと、案の定、環は嬉しそうに頬を緩めた。
その口元に白い粉がついているのが見え、気づけば手が伸びていた。
指先でそれを拭った瞬間、環が大きく瞬きをし、頬が薄紅に染まる。
──しまった。
だが、後悔よりも先に胸を満たしたのは、その温もりだった。
(やはり、私は彼女に惹かれている)
そう認めざるを得ない。
だが同時に、胸の奥底で鈍く疼くものがある。
“契約結婚”という形で、環と銀次を引き裂いたのは──私だ。
銀次がどんな顔をして、どんな声で笑うのか、何一つ知らない。
環の周囲に銀次という者がいないか調べさせたが、何も掴めなかった。
それでも、忘れられない場面がある──。
環が眠りの中で、その名を一度だけ呼んだ夜だ。
愛おしさを含んだその声色。たったそれだけで、二人の間にあった想いの深さが嫌でも想像できてしまった。
その想像が、刺のように胸に残り続ける。
それでも──。
馬車の中で「楽しかったか」と問い、環の笑顔を見たとき、
後悔も躊躇も、春の霞のように遠のいていった。
その笑顔を、もう二度と誰かに奪わせたくない。
そう思った瞬間、迷いは跡形もなく消えていた。
屋敷に着き、手を差し出す。
握り返されたその手を、無意識に強く握ってしまう。
視線を合わせれば、きっと胸の内が露わになってしまう気がして、前を向いた。
(……今、環の横にいるのは私だ)
その手を離さぬまま、静かに誓う。銀次の分まで、この人を幸せにすると。




