10.芽吹く恋と沈む影
朝食を終えると、旦那様は湯飲みを置き、静かに立ち上がった。
私は慌てて席を離れ、少し遅れてその背を追う。
「今日は……庭を少し歩こうと思う」
振り向かずに告げられた言葉に、思わず足が止まった。
(……一緒に、ってこと?)
「あの、私も……」
「──ああ」
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥がふっと温かくなる。
外は春の陽気がやわらかく広がっていた。
庭の梅はもう散り、若葉が陽に透けて揺れている。
旦那様は何も言わず、ゆるやかな歩調で敷石を進んだ。
私は数歩後ろから、その背中を見つめる。
昨夜は長い銀髪だったが、今は黒く、男性にしては少し長めの髪。
陽を受けて、深い色が艶やかにきらめく。
(昨夜の銀髪も幻想的で綺麗だったけど……今の姿も目を奪われるほど素敵。……って、何考えてるのよ、私っ!)
心の中で慌ててツッコミを入れたものの、視線は離せなかった。
無骨で、余計な装飾のない立ち姿。
けれど、時折ふとこちらを振り返って歩幅を緩めてくれる。
(……気づかってくれてる)
そんな瞬間が、何度もあった。
ほんの小さな仕草だけれど、私にとっては大きな意味を持っていた。
「……好きか?」
不意にかけられた声に、心臓が跳ねた。
「──えっ!?」
(ま、まさか今……私のことを……!?)
急に喉が渇き、息を呑む。
けれど旦那様は、何事もなかったように続けた。
「たまにこの庭の手入れをしていると聞いて、この庭が好きなのかと思ったのだが」
「え、庭……?」
(……“この庭が”好きか?ってこと!?)
拍子抜けしつつも、頬が少し熱くなる。こくりと頷いた。
「はい! 好きです」
私は庭を見渡した。
神宮寺家の庭師によって、どこも美しく手入れされている。
春の花々があちらこちらに咲き、これからも季節ごとの彩りを見せてくれるだろう。
時折、庭師にお願いして少しだけ手伝わせてもらうのも、私のささやかな楽しみだった。
「草花に触れていると、落ち着きます」
「……そうか。なら、また好きにやるといい」
淡々とした声。
感情は読みにくいはずなのに、ほんの少し口元がやわらいだ気がした。
(……やっぱり、この人のこと、もっと知りたい)
歩きながら、その思いが静かに芽を伸ばしていった。
──side 蓮
環の足音が、数歩後ろからやけに耳に残る。
振り返れば、陽の下で目を細めるその姿があった。
柔らかな表情──私が知っているどの顔よりも穏やかだ。
……銀次と過ごしていた頃も、きっとこんな顔をしていたのだろうか。
胸の奥に、またあの感情がわき上がる。
後ろめたさと静かな苛立ち。
そして、それを上回るほどの──惹かれ。
(……環と共にいると、心があたたかくなる)
だが同時に思い出す。
環も銀次を、こんなふうに想っていたはずだということを。
そんな彼女を、私は契約結婚という形で奪い取った。
その事実が、あたたかな心に影を落とす。
「……この庭は、好きか?」
口をついて出たのは、咄嗟のごまかしのような言葉だった。
一瞬きょとんとした環が、嬉しそうに笑って答える。
「はい! 好きです」
その笑みに、心臓が強く脈打った。
私のことを好きだと言ったわけではない。
それでも、まるでそう告げられたような錯覚に陥る。
(……たとえ誤解でも、この手を離すつもりはない)
そう思うほどに、環の笑みは私を甘く縛っていく。
春の陽に照らされた銀の毛先が、風に揺れた。
無意識に、それを目で追ってしまう。
ふと足を止め、環を振り返る。
「……この先の藤棚は、もうすぐ見頃だ。あとで案内しよう」
「はい」
少し照れたように笑みを浮かべ、視線を向けてくる環。
その瞬間、胸の奥で何かが確かに鳴った。
銀次の影がまだ消えなくても──今、この時間だけは私のものだ。
「……庭だけじゃない。おまえが好きなものを、教えてくれないか?」
「え……」
環の瞳が驚きに揺れる。
それを見て、私の口元はわずかに緩んだ。
(……もっと知りたい。目の前の、彼女のことを。銀次さえ知らない顔まで)
柔らかな陽光の下、二人の間に漂う空気は、確かに昨日よりも近いと感じた。




