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元腐女子令嬢、愛のない契約結婚のはずが狼旦那様に沼落ち中です!?  作者: よつ葉あき


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9/30

9.熱を宿す、名の残響


 ──はっと目を覚ました。

 瞬きを繰り返すと、見慣れた天井の木目がぼんやりと視界に広がっていく。


(……どうして、私は部屋のベッドに?)


 記憶を辿る。

 たしか昨夜は、離れの縁側で旦那様の横に座り、涼しい夜風に吹かれながら話をしていたはずだ。

 そして耳や尻尾に触れて、「可愛い」と言葉をかけて……そのあたりまでは鮮明に覚えている。

 けれど──。


(……あれ? そのあとは?)


 思考の糸がぷつりと途切れていた。

 まるで夢の続きを探そうとしたのに、手が空を切るような頼りなさ。

 胸に小さな不安がよぎり、私は反射的に身を起こした。


 そのとき、枕元に無造作に置かれた羽織が目に入った。

 深い藍色の生地に、落ち着いた刺繍が施されている。袖口の細工に見覚えがあった。


「これ……旦那様の、だ」


 思わず手を伸ばす。

 指先にひんやりとした布の感触が広がった。

 すでに温もりは抜けているけれど、誰かが確かにここに置いていった痕跡は残っていた。


(……夢じゃ、なかったんだ)


 胸の奥に、小さな火がともる。冷えきった心をゆっくりと温めるような、確かな実感。

 その余韻に浸りながら身支度を整えていると、廊下の向こうから控えめな声が響いた。


「奥様、朝食のご用意が整いました。本日は昨日と同じく、旦那様もご一緒です」


 ──昨日と同じく。

 その一言が、どうしようもなく胸に嬉しく響いた。


「はい、すぐに参りますっ!」


 つい声が弾んでしまい、思わず口元を手で覆った。

(やだ……私、浮かれてる?)


 襖を開け、使用人に促されて食堂へ向かう。

 すでに旦那様は席についていた。

 湯気を立てる茶器を静かに手に取り、変わらず感情の読み取りづらい表情を浮かべている。


「……おはようございます、旦那様」

「──ああ。おはよう」


 席に腰を下ろすと、香ばしく焼き上がった魚の香りと、炊き立てのご飯の湯気がふわりと広がった。

 一呼吸置いてから、思い切って切り出す。


「あの……昨日、途中で眠ってしまって、すみませんでした」

「……」

「それに……運んでくださったんですよね? ありがとうございました」


 箸を持つ旦那様の手が、一瞬だけ止まる。

 そして静かな視線が、こちらへと向けられた。

 無表情に見えるその瞳が、ほんのわずかに和らいだ気がする。


「……気にするな。疲れていたのだろう」


 低く落ち着いた声が響く。

 さらに短い間を置き、言葉が重ねられる。


「……風邪をひかれても困る。だから……運んだ」


 淡々とした言い回し。けれど、その奥には確かな思いやりが潜んでいる。

 胸の奥で温かな灯がじんわりと広がり、喉が詰まりそうになる。


(……やっぱり、この人は優しいのかもしれない)


 無愛想で近寄りがたいと思っていたけれど、こうして少しずつ、目に見えないところで気を配ってくれていた。

 それは大げさな優しさではなく、静かに心へ沁みていくあたたかさだった。


 茶碗を置き、もう一度湯気越しに彼を見つめる。

 冷たいと思っていた横顔が、なぜか今はとても穏やかに映った。


(……もっと、この人のことを知りたい)


 言葉にならない感情が膨らみ、胸の奥でそっと芽吹いていく。

 それは、たぶん──惹かれているということなのだろう。


 旦那様──蓮は、さらに一言だけ口にした。


「……今日は、無理はするな」


 命令のように響きながらも、その声には柔らかな温度があった。

 私はただ、頷いて受け止めた。





 ──side 蓮



 環が小さく頷いたその仕草に、胸の奥がわずかに揺さぶられる。

 そのままでは感情が零れてしまいそうで、思わず視線を逸らした。


(……私は、彼女を)


 環は素直で、真っ直ぐで、私には持ち得ないものをいくつも抱えている。

 気づけば、その笑みや声に心をかき乱されるようになっていた。

 戸惑いながらも、その変化をどこか嬉しいと感じてしまっている自分がいる。


 だが──。


 昨夜、眠りの中で彼女の唇からこぼれた名。

 銀次。

 私ではない、別の男。

 夢の底で呼ぶほどに深く刻まれた存在。


(……私は、環とその男を引き離したのかもしれない)


 それが真実かどうか、確かめようもない。

 ただ、事実として彼女はいま私の妻であり、銀次という名の者は此処にはいない。

 そして環は、私の前で笑っている。


 その笑顔が、時折胸を締めつける。

 奪ったものを抱え込み、自分のものにしようとしているのでは──そんな黒い影が心に差し込む。

 墨のように滲み、消えない影。


「……食べられそうか」


 思考を断ち切るように問いかける。

 環が顔を上げ、にこりと笑って「はい」と答える。

 その笑みがまた、胸に熱をともした。


 後ろめたさも、誤解も、すべてを飲み込むように。


(……それでも、手放したくはない)


 その思いだけが、確かに胸の底で燃え続けていた。




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挿絵(By みてみん)
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