9.熱を宿す、名の残響
──はっと目を覚ました。
瞬きを繰り返すと、見慣れた天井の木目がぼんやりと視界に広がっていく。
(……どうして、私は部屋のベッドに?)
記憶を辿る。
たしか昨夜は、離れの縁側で旦那様の横に座り、涼しい夜風に吹かれながら話をしていたはずだ。
そして耳や尻尾に触れて、「可愛い」と言葉をかけて……そのあたりまでは鮮明に覚えている。
けれど──。
(……あれ? そのあとは?)
思考の糸がぷつりと途切れていた。
まるで夢の続きを探そうとしたのに、手が空を切るような頼りなさ。
胸に小さな不安がよぎり、私は反射的に身を起こした。
そのとき、枕元に無造作に置かれた羽織が目に入った。
深い藍色の生地に、落ち着いた刺繍が施されている。袖口の細工に見覚えがあった。
「これ……旦那様の、だ」
思わず手を伸ばす。
指先にひんやりとした布の感触が広がった。
すでに温もりは抜けているけれど、誰かが確かにここに置いていった痕跡は残っていた。
(……夢じゃ、なかったんだ)
胸の奥に、小さな火がともる。冷えきった心をゆっくりと温めるような、確かな実感。
その余韻に浸りながら身支度を整えていると、廊下の向こうから控えめな声が響いた。
「奥様、朝食のご用意が整いました。本日は昨日と同じく、旦那様もご一緒です」
──昨日と同じく。
その一言が、どうしようもなく胸に嬉しく響いた。
「はい、すぐに参りますっ!」
つい声が弾んでしまい、思わず口元を手で覆った。
(やだ……私、浮かれてる?)
襖を開け、使用人に促されて食堂へ向かう。
すでに旦那様は席についていた。
湯気を立てる茶器を静かに手に取り、変わらず感情の読み取りづらい表情を浮かべている。
「……おはようございます、旦那様」
「──ああ。おはよう」
席に腰を下ろすと、香ばしく焼き上がった魚の香りと、炊き立てのご飯の湯気がふわりと広がった。
一呼吸置いてから、思い切って切り出す。
「あの……昨日、途中で眠ってしまって、すみませんでした」
「……」
「それに……運んでくださったんですよね? ありがとうございました」
箸を持つ旦那様の手が、一瞬だけ止まる。
そして静かな視線が、こちらへと向けられた。
無表情に見えるその瞳が、ほんのわずかに和らいだ気がする。
「……気にするな。疲れていたのだろう」
低く落ち着いた声が響く。
さらに短い間を置き、言葉が重ねられる。
「……風邪をひかれても困る。だから……運んだ」
淡々とした言い回し。けれど、その奥には確かな思いやりが潜んでいる。
胸の奥で温かな灯がじんわりと広がり、喉が詰まりそうになる。
(……やっぱり、この人は優しいのかもしれない)
無愛想で近寄りがたいと思っていたけれど、こうして少しずつ、目に見えないところで気を配ってくれていた。
それは大げさな優しさではなく、静かに心へ沁みていくあたたかさだった。
茶碗を置き、もう一度湯気越しに彼を見つめる。
冷たいと思っていた横顔が、なぜか今はとても穏やかに映った。
(……もっと、この人のことを知りたい)
言葉にならない感情が膨らみ、胸の奥でそっと芽吹いていく。
それは、たぶん──惹かれているということなのだろう。
旦那様──蓮は、さらに一言だけ口にした。
「……今日は、無理はするな」
命令のように響きながらも、その声には柔らかな温度があった。
私はただ、頷いて受け止めた。
──side 蓮
環が小さく頷いたその仕草に、胸の奥がわずかに揺さぶられる。
そのままでは感情が零れてしまいそうで、思わず視線を逸らした。
(……私は、彼女を)
環は素直で、真っ直ぐで、私には持ち得ないものをいくつも抱えている。
気づけば、その笑みや声に心をかき乱されるようになっていた。
戸惑いながらも、その変化をどこか嬉しいと感じてしまっている自分がいる。
だが──。
昨夜、眠りの中で彼女の唇からこぼれた名。
銀次。
私ではない、別の男。
夢の底で呼ぶほどに深く刻まれた存在。
(……私は、環とその男を引き離したのかもしれない)
それが真実かどうか、確かめようもない。
ただ、事実として彼女はいま私の妻であり、銀次という名の者は此処にはいない。
そして環は、私の前で笑っている。
その笑顔が、時折胸を締めつける。
奪ったものを抱え込み、自分のものにしようとしているのでは──そんな黒い影が心に差し込む。
墨のように滲み、消えない影。
「……食べられそうか」
思考を断ち切るように問いかける。
環が顔を上げ、にこりと笑って「はい」と答える。
その笑みがまた、胸に熱をともした。
後ろめたさも、誤解も、すべてを飲み込むように。
(……それでも、手放したくはない)
その思いだけが、確かに胸の底で燃え続けていた。




