涙のあと
翌朝――
女性専用サロン『Luna Sana』には、佐倉穂花と西野未来の姿があった。
店長の水川沙苗は、まだ入院している。
だが、今日退院する予定だった。
「西野さん、オーナーが戻ってくるまで不安だと思うけど、一緒に頑張ろうね」
穂花は明るく声をかけた。
「佐倉先輩がいるから、大丈夫ですよ」
西野は拳をぎゅっと握りしめ、力強く答えた。
「ありがとう」
穂花は微笑んだ。
「今日は田中様の予約が入ってるから、サポートよろしくね」
「はい、わかりました!」
田中様は、昔から通ってくださっている常連のお客様だ。
いつも穂花を指名して、ご予約を入れてくださっている。
この騒動があっても、変わらず足を運んでくださる。
そのことが、穂花にはとても嬉しく、ありがたかった。
(こんな状況だからこそ、私たちがしっかり頑張らなきゃ!)
プルルルル――。
それでも、電話が鳴り止むことはなかった。
もう何度目になるのか分からない無言電話。
穂花は深く息を吐いた。
「お客様が来られる前に、着信音が聞こえないようにしておきましょう」
(こんなに何度も電話が鳴ったら、田中様もゆっくりくつろげないから……)
「本当に、しつこいですよねぇ」
西野は眉をひそめ、鳴り続ける電話を恨めしそうに見つめた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
二時間後――。
「いらっしゃいませ」
穂花と西野は並んで頭を下げた。
ご予約の田中様だ。
田中様は、いつもと変わらない笑顔で、穂花たちに声をかけた。
「今日もよろしくね」
着替えを終えた田中様と穂花は、施術室へと向かった。
お香の優しい香りが漂う室内。
照明も少し落とされ、心落ち着く空間が広がっていた。
田中様は、施術台の上にゆっくりと仰向けになった。
「では、はじめていきますね」
穂花は、田中様の目元に、そっとタオルを置いた。
優しく頭に手を添え、ゆっくりと呼吸を整えながら施術を始めた。
まずは頭皮のマッサージ。
ツボを刺激しながら、心地よいリズムでゆっくりとほぐしていった。
田中様のお悩みと要望――。
ほうれい線が気になる。
顎のラインをスッキリさせたい。
穂花はまず、頭蓋骨からアプローチしていく。
優しく、繊細に。
必要な負荷はかけながらも、痛みを感じさせないよう力を分散させ、ゆっくりと頭皮を引き上げていった。
それから十五分後――。
規則正しい小さな寝息が、静かな施術室に聞こえ始めた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
約一時間の施術が終わった。
田中様は心地よさそうに目を閉じたまま、静かな寝息を立てていた。
穂花はそっとカーテンを開け、静かに施術室を後にした。
「佐倉先輩!お疲れ様でした」
施術室から出たその時、西野の明るい声が響いた。
思わず穂花は、自分の口元に人差し指を立てた。
「しぃ――。今、田中様はゆっくりお休み中だから。この後はご予約もないし、お疲れのようだから、少し休んでいただきましょう」
穂花は西野に、囁くように言った。
それから二十分ほど経った頃、ゆっくりとカーテンが開いた。
少し俯き、照れくさそうな笑みを浮かべながら、着替えを終えた田中様が出てきた。
「私、また寝ちゃったみたいね……」
「田中様、お疲れ様です。この後のご予定はないと伺っていたので、ゆっくりお休みいただきたくて、お声がけしませんでした」
そして、穂花は穏やかに続けた。
「いかがでしょうか?お鏡はご覧になりましたか?」
穂花の問いに、田中様はこくりと頷いた。
「最高よ!フェイスラインもすっきりしてるし、目の開きも違って、視界がクリアになったわ。肩もとても軽いの」
頬にそっと手を添え、目を輝かせながら田中様は答えた。
「それはよかったです」
穂花は微笑んだ。
(こうしてお客様の心からの笑顔を見られる瞬間が、一番嬉しいのよね)
「佐倉さんが入った頃から知ってるけど、どんどん腕を上げて……。なんだか感慨深いわね」
田中様は、懐かしむように視線を少し上へ向けた。
「ありがとうございます。そうですね……もう田中様とは長いお付き合いになりましたね。いつもご指名いただき、本当にありがとうございます」
穂花は感謝を込めて、深く頭を下げた。
田中様は、穂花が『Luna Sana』で働き始めた頃から通ってくださっているお客様だ。
来てくださるお客様は皆、一人ひとり大切な存在だ。その中でも田中様は穂花のセラピストとしての歩みを見守り続けてくださった、特別なお客様だった。
「佐倉さん……」
ふと視線を上げた田中様の真っ直ぐな眼差しに、穂花の胸が小さく跳ねた。
どこか心配そうに揺れる瞳が、穂花を見つめていた。
「お店……今、大変みたいね」
穂花はハッとして顔を上げた。
(田中様も、やっぱりご存知なんだ……)
「今世間に悪く言われているけど、その噂が全部嘘なのは、ここに通っている私が一番よくわかってるわ」
穂花は息を呑んだ。
言葉が出てこなかった。
「今はしんどいかもしれないけど、絶対わかってくれる日がくるから。頑張って!負けないでね、佐倉さん」
見つめるその瞳は、熱を帯びていた。
「ずっと応援してるから……。『Luna Sana』も……佐倉さんたちも……」
その言葉に、穂花の胸の奥が熱くなるのを感じた。
込み上げてきた熱はやがて涙となり、穂花の目を潤ませた。
穂花はこぼれ落ちそうになる涙を、必死にこらえた。
「周りにも『Luna Sana』の良さを、宣伝しておくからね」
田中様は優しく穂花に微笑むと、会計を済ませお店を後にした。
(こんな中でも、ちゃんと私たちを見てくれている人がいる。『Luna Sana』を好きでいてくれている人もいる)
「あれ?先輩、泣いているんですかぁ?」
西野は少し口元を緩めながら、穂花の顔を覗き込むように見た。
「な、泣いてない」
穂花はくるりと背を向け、こぼれ落ちそうになる涙を指先でそっと拭った。
だが、西野はさらに回り込み、穂花の顔を覗き込む。
「やっぱり泣いているじゃないですかぁ――。佐倉先輩が泣くなんて珍しっ」
西野はからかうような笑みを浮かべながら、穂花を見つめた。
「だから泣いてないってば!ほら、仕事、仕事!予約がなくても、やることはあるでしょ!掃除とか、お客様ファイルの整理とか。一緒にやるわよ」
「はぁ――い」
穂花と西野は、それぞれに今やるべきことへと取りかかった。




