守りたい居場所
子どもたちを連れ、西野は病室を後にした。
病室には、穂花と水川の夫・光輝だけが残った。
二人は静かに向かい合っていた。
静かな空気が病室を包む。
穂花は小さく息を呑んだ。
「すみません、子どもたちをお願いしてしまって……」
光輝は申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。
穂花は両手を小さく振って答えた。
「いえ、大丈夫ですよ。それに、西野は面倒見もいいので」
穂花は微笑んだ。
光輝はふうと小さく息を吐いた。
そして穏やかな笑みを消し、真っ直ぐに穂花を見つめた。
その瞳には、強い決意が宿っていた。
いつもとは違う張り詰めた空気に、穂花は思わず息を呑んだ。
「――今回は、色々とご迷惑をおかけしてしまってすみません。恥ずかしい話、お店の経営がそんなに大変なことになっているとは知りませんでした」
光輝はわずかに目を伏せた。
(ご主人の気持ちはわかる。だけど――)
(私も、『Luna Sana』のスタッフとして働いていたのに、何も気づけなかった。店長を一人で抱え込ませてしまった私の方が恥ずかしいわ……)
穂花は、きゅっと唇を噛み締めた。
そして光輝は続けた。
「それでお店のことですが……このまま経営しても厳しいと思うんです。長くなればなるほど、借金も増えるかもしれない――」
穂花の肩に思わず力が入る。
これ以上は、聞くのが怖かった。
光輝は一度目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
そして覚悟を決めたように顔を上げ、真っ直ぐに穂花を見つめた。
「……穂花さんには大変申し訳ないのですが……沙苗のためにも、お店を閉めようと思います」
全身が硬直する。
声が出ない。
ただ、光輝の言葉だけが、頭の中で何度も反芻していた。
(私は『Luna Sana』が好き。他で働くなんて考えられない)
だけど――。
(店長にこれ以上無理はしてほしくない。私は水川店長が好きだから。店長が私を救ってくれたから……)
穂花は俯き、固く握った拳を微かに震わせた。
静かな時間が流れた。
少しの沈黙の後、穂花はゆっくりと顔を上げた。
そして震える声で、光輝に言った。
「……わかりました。お店も大切ですが、水川店長のことが一番ですので……」
その言葉に嘘はなかった。
ただ、『Luna Sana』がなくなるという現実を、穂花はすぐには受け止めきれなかった。
その時――。
「待って……」
とても小さな消え入りそうな声。
目の前で横たわる、水川沙苗だった。
「店長っ!」
「沙苗っ!」
穂花と光輝は目を見開き、慌てて水川のもとへ駆け寄った。
「大丈夫か?沙苗……」
「店長……具合はどうですか?」
声をかけたものの、その瞳に力はなかった。
顔色も悪く、見るからにつらそうだった。
(店長……)
その姿に、胸が痛んだ。
「二人とも……待って。勝手に決めないで……」
弱々しい声で水川が言った。
身体を起こそうとするが、光輝がそっと肩に手を添えて制した。
水川は諦めたように小さく息をつき、横になったまま口を開いた。
「あなた……私はまだ、続けたい」
その瞳は、すがるようだった。
光輝は一瞬顔を背けてから視線を戻し、水川に言った。
「……だけど、お前の身体が……」
「私はまだ大丈夫だから……」
水川は弱々しく微笑んだ。
(全然、大丈夫じゃない――)
誰の目から見ても、水川の身体は限界だった。
穂花はきゅっと唇を結んだ。
「お願い……私はまだやりたいの。ここで諦めたくない。お金のことはなんとかするから……」
「何とかって……」
光輝は視線を落とした。
水川はにこりと儚げに微笑んだ。
「昨日ね、皆と話し合ったの。それでいい案が浮かんだのよ……」
「いい案?」
それまで黙って二人の会話を聞いていた穂花が、思わず口を開いた。
「店長……だけど……」
水川の言う、いい案――。
それは、美容コンサルタントを招き、『Luna Sana』を立て直すアドバイスをもらうこと。
もちろん、それで必ずうまくいく保証はない。
来てもらえたとしても、『Luna Sana』を立て直せるとは限らない。
(もし、それでも立て直せなかったら――?)
(『Luna Sana』はどうなるの……?)
(水川店長は……どうなってしまうの?)
(――ここで手を引くのが、一番いいのかもしれない)
穂花の表情を見た水川は、優しく微笑んだ。
「その話していた美容コンサルタントの人ね、すっごく敏腕でカリスマ性があるの。それに、とても信頼できる人なのよ」
(だけど……)
不安が拭えない。
すると光輝が、何かを思い出したように突然口を開いた。
「もしかして、俺たちが大学四年のとき、周りが騒いでた、一年の……?」
「ふふ。そうよ」
水川が小さく笑った。
「私の知り合いがね、その人と知り合いで、相談できるように話をつけてもらうことになったの」
光輝は腕を組み、ゆっくりと天井を仰いだ。
「確かにその人なら、もしかしたら本当に立て直せるかもしれないな……。だけど――」
(店長の旦那様までも、もしかしたらと思わせる人……)
穂花の胸に、自然と興味が湧いた。
(どんな人だろう……?)
「お願い。あと1回だけ私にチャンスをちょうだい。これでダメだったら、お店のことはきっぱり諦めるから……」
水川は、光輝の腕を掴んだ。
その瞳は、まっすぐ光輝を見つめていた。
掴んだその手は、指が食い込むほどの力だった。
(店長……)
「う――ん……」
光輝は低く唸るように声を漏らし、目を伏せた。
そして――。
しばらくの沈黙のあと、光輝はゆっくりと顔を上げ、重い口を開いた。
「……わかった」
その瞬間、水川の目に光が戻った。
「ありがとう!」
そして光輝は続けた。
「ただし条件がある。決して無理しないこと!」
「はい」
水川は素直に頷いた。
「一人でなんとかしようとしないこと!」
「はい!」
「必ず俺や穂花さんたちを頼って。何かあったら必ず報告すること」
「はい!!」
そして光輝は、くるりと穂花に向き直った。
その瞳は、真っ直ぐ穂花を見据えていた。
「穂花さん……」
穂花の胸は小さく跳ねた。
「は、はい!」
「沙苗のこと……どうかよろしくお願いします」
光輝は深く頭を下げた。
「そんな!頭を上げてください!」
慌てて制するが、それでも光輝は頭を下げたままだった。
「同じサロンのスタッフとして力添えしてくださる穂花さんたちがいるから、沙苗も今まで頑張って来れたと思うんです。色々とご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「そんな……」
(私みたいな全くの素人を雇ってくださって、一から丁寧に教えてくださって……。水川店長がいたから、今の私があるんだ)
「私で……よろしければ……」
穂花ゆっくり口を開き続けた。
「私なんかでよろしければ、店長のお力にならせてください!」
そして穂花は深く頭を下げた。
(できるところまでやりたい!)
穂花の中に、強い決意が芽生えた。
(『Luna Sana』と店長……どちらも守ってみせるわ)
「穂花さん……ありがとうございます」
「穂花ちゃん、ありがとう……」
水川と光輝は目を潤ませ、穂花に礼を言った。




