隠された疲労
翌朝――
穂花はその日も、オープン一時間前に店へやってきた。
お店の前に人影。
――店長の水川沙苗だ。
ただ立ち尽くすその後ろ姿に、穂花は違和感を覚えた。
「店長……?どうしたんですか?入らないんですか?」
ぴくりと肩が揺れ、水川が振り向く。
「あ……穂花ちゃん……」
その声はひどく弱々しく、顔からは血の気が引いていた。
穂花は目を見開き、思わず声を上げた。
「店長!何かあったんですか?!」
よく見ると、水川の指先が微かに震えていた。
「こ、これ……」
微かに聞こえるような声で呟いた水川の視線の先を、目で追った。
「……っ!」
穂花は言葉を失った。
その視線の先には、生ゴミが無造作に散乱していた。
むっと鼻につく臭いに、穂花は思わず鼻を手で覆った。
誰かが故意に置いたことは明らかだった。
「ひどい……」
穂花は唇を噛み締めた。
(いくらなんでも、こんなことするなんてひどすぎる……)
「……穂花ちゃん……わたし……」
震える声で水川は呟いた。その時だった――。
ふわり。
水川の身体が揺れた。
一瞬の出来事――。
そして――。
バタッ。
水川はそのまま地面へ力なく崩れ落ちた。
「店長――!水川店長――っ!」
何度呼んでも返事がない。
顔色はひどく青ざめ、唇からも血の気が失せていた。
そして目の下には、濃いクマがくっきりと刻まれている。
(どうしよう……早く店長を助けないと……)
ほんの数秒。
だが、その瞬間、焦りで頭が真っ白になった。
「そうだ!救急車!救急車呼ばなきゃ……」
穂花はバッグからスマートフォンを取り出した。
震える手で番号を押していく。
そして――。
「すみません!人が倒れて……!お願いします!すぐ来てください!」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
その後のことはほとんど覚えていない。
気づいたら、病室にいた。
ただ水川を助けたい――その一心で、穂花は動いていた。
目の前には、病院のベッドで静かに眠る水川の姿があった。
その腕には点滴がつながれている。
穂花は椅子に座り、眠る水川をじっと見つめていた。
「店長……」
こぼれそうになる涙をぐっと堪え、拳を握りしめた。
力なく横たわる水川。
血の気のない顔。白い唇。
いつもの覇気はなく、深い疲労だけがその顔に刻まれていた。
(こんなになるまで、一人で耐えていたんだ……)
穂花は悔しかった。
何もできない自分が情けなかった。
ガラリ――
突然、扉が開いた。
その音に、穂花は顔を上げた。
白衣姿の医師だった。
穂花は立ち上がり、すぐに尋ねた。
「先生……店長の……水川さんの容態は大丈夫なんでしょうか……?」
医師は穏やかに微笑み、口を開いた。
「大きな病気ではないので、大丈夫ですよ」
穂花は小さく息をついた。
その言葉に、心から安堵した。
「疲れが溜まっていたのでしょう。それにあまり眠れていなかったようですね」
大きな病気ではないので安堵した。だが、穂花には思い当たることがあった。
水川は『Luna Sana』の借金や嫌がらせを、一人で抱え込んでしまったのだ。
「しばらくは無理せず、ゆっくり休んでください。明日には退院できますよ」
穂花はほっと胸を撫で下ろした。
バン――!
再び大きな音を立て、扉が開いた。
振り向くと、そこには水川の夫、光輝と、十三歳の息子、十歳の娘が立っていた。
慌てて駆けつけたのだろう。
光輝は額に汗を滲ませ、子どもたちも肩で息をしていた。
息を乱しながら、光輝は医師に尋ねた。
「せ、先生……妻の容態は……。大丈夫なんでしょうか?」
子どもたちも不安そうに医師を見つめていた。
医師は穏やかに頷いた。
「大丈夫ですよ。少し頑張りすぎてしまったのでしょう。ゆっくり身体を休ませて、栄養をとるようにしてください」
「よかった……。ありがとうございます!」
光輝は深く頭を下げた。
子どもたちも緊張が解け、ほっとした表情を浮かべていた。
医師は軽く会釈をすると、静かに病室を後にした。
「穂花ちゃん!」
光輝は真っ直ぐに穂花を見つめた。
「ありがとう!君が傍にいてくれて助かったよ」
そう言って、優しく笑みを浮かべた。
「いえ……私は何も……」
(そう……私は何もできなかった。店長が抱えていた苦しみにさえ、気づけなかったんだから……)
ふと気になり、穂花は尋ねた。
「光輝さんは……ご存知なんですか?沙苗さんが抱えていたこと……」
光輝はポリポリと頭をかき、ゆっくりと口を開いた。
「……実はお恥ずかしい話、昨夜聞いたんだ。それまで全然知らなかった。少し前から、自宅におかしな電話がかかってきてね。それで沙苗の様子もおかしかったから、事情を聞いたんだよ。最初は話してくれなかったけどね」
「そうなんですね……」
水川沙苗は、スタッフにも家族にも言わず、一人で『Luna Sana』の問題を抱えていた。
そのことを昨夜、知られたくなかった最愛の家族に知られてしまい、精神的にも参っていただろう。
その翌朝にはこの嫌がらせだ。
(きっと、店長は限界だったんだ……)
穂花は深く息をついた。
(私が気づいてあげていれば――)
(ずっと傍で店長を見ていたはずなのに……)
後悔と悔しさが胸に押し寄せた。
「店長――!」
後ろから高い声が響いた。
『Luna Sana』のスタッフ、西野未来だった。
水川を心配して、西野も駆けつけていた。
息を切らしながら水川の様子を尋ねる西野に、穂花は「大丈夫」と声をかけた。
その言葉に、西野はほっとしたように肩の力を抜き、大きく息を吐く。
「……沙苗は、皆さんに愛されているんですね」
光輝は穏やかな笑みを浮かべた。
そのとき、西野がふと首をかしげる。
「あの……こちらの方は……?」
きょとんとした表情で尋ねる西野に、穂花は小さく頷き、口を開いた。
「店長の旦那様と、お子さんたちよ」
「え……?!」
目を丸くする西野。
「す、すみません!失礼しました!私、『Luna Sana』で働いています、西野と言います!」
西野は慌てた様子で、勢いよく頭を下げた。
「西野……未来さん、ですね。よく存じていますよ。妻がいつも、穂花さんと未来さんのお話を嬉しそうにしていましてね。未来さんはいつも元気いっぱいで頑張ってくれている、と」
「本当ですか!?」
西野は飛び跳ねるように上体を起こし、目を大きく輝かせた。
よほど嬉しかったのだろう。しばらくの間、その表情は緩みきっていた。
そして光輝は、穂花に視線を移した。
真っ直ぐな瞳。
それは先ほどの穏やかな笑みとは違い、どこまでも真剣で揺るぎないものだった。
「あの……穂花さん。お店のことで少しお話をしたいのですが……」
その声は、低く落ち着いていた。
「……分かりました」
穂花は頷くと、西野を呼んだ。
「お店のことでお話があるそうだから、お子さんたちを少しお願いできるかしら?」
「わかりました。終わったら連絡ください」
西野は即答し、子どもたちを連れて病室を出た。




