透明な青
部屋から出た穂花は、扉の前で、高城の濡れた服を抱えたまま立ちすくんでいた。
(どうしよう………言い過ぎたわ)
穂花の胸中は、後悔でいっぱいだった。
高城に、あんなに強い口調で言ってしまった。
心配だったとはいえ、少し感情的になりすぎてしまった。
穂花は、体調を崩しているにもかかわらず、無理に仕事をしようとする高城の姿を、自分自身と重ねてしまっていた。
それは、身体が弱かったOL時代のこと。
周囲に迷惑をかけたくない。
仕事を休むわけにはいかない。
そうして無理を重ねた結果――穂花は、身体も心も、自分ではどうすることもできないほどボロボロになっていた。
(私は、あの時、水川店長に会って救われたからよかったけど――)
無理を重ねれば、ますます自分の心と身体を苦しめ、結果的に周囲にも迷惑をかけてしまうことを、穂花は知っていた。
穂花は、濡れた高城の服を静かに見つめた。
ひんやりとした感触。
(あのまま無理していたら、私はもっと立ち上がれないくらい、心も身体も壊れていたと思う)
今の高城を見ていると、昔の自分を見ているようだった。
だから、つい、本気で怒ってしまった――。
室内から音がした。
誰かが部屋から出てくる気配がする。
「……っ」
穂花は慌ててその場を離れた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
乾燥機をかけていると、そこへ西野がやってきた。
「先輩、高城さんと何かありました?」
「え?」
突然声をかけられた穂花は、振り向き、西野に言った。
「な、なんで……?」
穂花は少し戸惑いを見せた。
「いえ、部屋を出る時、先輩、少し怖い表情をしていたので」
穂花は肩をぴくりと揺らした。
「それに高城さん、あれからずっと機嫌悪そうだったんですよ。先輩、何したんですかぁ?」
そう言うと、西野はぷくっと頬を膨らませた。
「そう……。具合悪いんだし、それで一時的に不機嫌だったんじゃないかなぁ?」
穂花は、ぎこちなく笑いながら答えた。
「まぁいいですけど、高城さんを怒らせるようなことをしたらダメですからねっ」
西野は腕を組むと、怒ったようにぷいっと顔を背けた。
「……ははっ。わかってます」
苦笑いをしながら、穂花は答えた。
「でも高城さん、心配ですね」
西野が神妙な顔でぽつりと呟いた。
「私たちのために取っていただいた時間は、休んでいただいて、落ち着いたら病院に連れていきましょう。……今、高城さんは?」
「今、店長がついてて、熱を測ってます」
「そう……」
(そういえば――)
ふと、穂花は先ほどのことを思い出していた。
室内で穂花が高城に「脱いでください」と言った時、高城は一瞬だけ水川を見ていた。
その視線は、水川のことを気にしているように見えた。
しかし、水川は既婚者。子供も二人いる。
大学時代、先輩後輩の仲だっただけで、その後、二人が会ったという話は聞かない。
今の二人を見ても、そんな親しい間柄にも見えない。
ただなんとなく、穂花は、高城のあの視線が気になった。
それが何を意味するのかは、わからないけれど――。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
高城は、三十九度の熱だった。
その後高城は、水川がブレンドしたお茶を飲み、そのままベッドでしばらく休んでいた。
高城が『Luna Sana』のために充てていた三時間を、そのまま休んでもらうことにしたのだ。
高城は最初こそ反対していたものの、お茶を飲んだ後、深い眠りへと落ちていった。
雑誌やテレビにも出るような有名人。
いつも忙しく企業先を回っている。
疲れが溜まっていたのだろう――と、水川は言った。
――そして三時間がたとうとしていた。
ちらりと時計を確認した穂花は、
「店長、高城さん、起こしてきますね」
そう言うと、椅子から立ち上がった。
「よろしくね」
と、水川は静かに穂花を見つめた。
(本当は、もっとゆっくりしてもらいたいんだけど……)
高城には高城の事情がある。それは穂花も十分に理解していた。
トントン――。
穂花は小さく扉を叩き、静かに開けた。
薄暗い室内。
だが、カーテンの隙間から僅かに光が漏れ、高城の姿が穂花の目に浮かび上がった。
一瞬、穂花の胸が大きく跳ねた。
(綺麗な顔……)
高城は、まだ寝ている。
穂花は、高城のいるベッドへと近づいた。
雨で濡れた髪は、いつものスタイルを崩し、無造作にその顔に触れていた。
サラサラと流れる髪。
長いまつ毛。
ふっくらと形のよい唇。
カーテンの隙間から差し込む光を受けて、キラキラと輝いているように見えた。
その美しさに、誰もが目を奪われてしまうだろう。
穂花もまた時を忘れ、ただその姿を見つめていた。
その時――。
「んっ……」
眉間にしわを寄せながら、高城の口から僅かに声が漏れた。
鼓動が大きく鳴った。
穂花は、高城の顔をじっと見つめていた自分に気づき、我に返った。
(私、何やってるんだろ)
そんな自分に慌てていた。
そして――。
高城は、ゆっくりと目を開けた。
「ここは……」
眩しそうに目を細める高城。
穂花はすぐにカーテンを閉め、僅かな光を塞いだ。
「あ、ありがとうございます……」
そう言いながら、高城はゆっくりと身体を起こした。
「大丈夫ですか? 起きられますか?」
高城の顔色は、来た時よりもかなり良くなっているように見えた。
「はい、だいぶ楽になりました。休ませていただいてすみません」
あれだけ休むことを渋っていた高城が、素直に答えていることに、穂花は少し戸惑いの表情を浮かべた。
すると、それが高城にも伝わったのだろう。高城はゆっくりと口を開いた。
「……水川さんに、聞きました。あなたが昔身体が弱かったことを」
(ああ、だから……)
穂花は心の中で納得した。
「あの時は、心配していただいたのに、『余計なこと』と言ってしまって、すみませんでした」
あの高城が謝った。
いつも落ち着いて、表情を崩さない、高城が――。
穂花は僅かに目を丸くした。
そして――。
熱のせいだろうか。いつもの高城とは違うその姿が、とても自然に見えた。
いつも黒のスーツを着て、黒い瞳で、まるで人の体温を感じさせないような高城が、一人の人間として見えた。
熱で揺れている黒い瞳。
その瞳は、先の見えない闇ではなく、透明な青が見えた。
黒の先に揺れる透明な青の世界に、穂花はまるで吸い込まれるように見入っていた。
あの揺れる青の世界に、触れたくて――。
「あの……」
高城は戸惑うように言葉を発した。
その言葉に、穂花の肩はぴくりと揺れ、我に返った。
「あ、いえ……私こそ強く言い過ぎました。本当にすみません」
(私、何やってるんだろう……)
穂花は言いながらも、内心、先ほどまで高城を見つめていた自分に動揺していた。
「……この後もお仕事があるんですか?」
「はい。あと一件寄らないといけないところがあって……」
(本当は、休んで欲しい。だけど……)
「それはお近くですか?そちらに行く前に少しお時間ありますか?」
「ここから一駅なので、近いですね。一時間ほどあります」
高城の返事を聞いた穂花は、考えるように俯いた。
そして――。
穂花は視線をあげて、真っ直ぐに高城を見つめて言った。
「では、次に行かれる会社に、少し遅くなると今から連絡してください。病院に行きます。前のところが長引いたからと伝えていただいて大丈夫ですから」
高城は苦笑いをした。
「……強引ですね」
穂花は、にっこりと笑った。
「体調悪い方を、そのまま帰せませんから」
高城は、もう何も言わなかった。
ただ苦笑いしながら、穂花を見ていた。




