交わらない価値観
高城優馬が『Luna Sana』に来てから、二日が過ぎた。
今日は、高城が再び『Luna Sana』に来る日だ。
「はぁぁぁ――」
穂花は長いため息をついた。
「穂花ちゃん、顔に出すぎよ。あ、つい名前で呼んじゃったわ」
水川はくすくすと笑った。
穂花はそんな水川を、横目でじろりと見つめた。
(あの人がくる、というだけで気が重い……)
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
そして、開店の時間――。
お店の扉が開かれる。
眩しい日差しとともに現れたのは――。
高城優馬だった。
「皆さん、おはようございます」
黒いスーツに身を包み、毅然と立つその姿は、独特の雰囲気を漂わせていた。
この『Luna Sana』には似合わない、どこか夜を思わせる雰囲気。
穂花は気づかれないよう、小さく息を吐いた。
「高城くん、おはよう」
水川は変わらない。
いつもの明るく朗らかな笑顔で、高城を迎えた。
穂花は、
「……おはようございます」
ただ静かに挨拶をした。
すると高城は、ゆっくりと店内に視線を走らせた。
「……?」
穂花は怪訝に思っていると、やがて高城は穂花たちへ視線を戻し、静かに息を吐いた。
「西野さんは、来ていないようですね」
まるで呆れたかのような表情で小さく呟いた高城に、穂花は喉元まで感情が込み上げてくるのを感じた。
(やっぱり、この人のこと好きになれない……)
「午前中は予約が入っていないと、水川店長から伺いました。早速、これからミーティングを始めましょう」
穂花と水川、そして高城は、誰もいない待合室でテーブルを挟んで向かい合った。
すると高城は、手にしていたビジネスバッグから書類を取り出した。
「先日お伝えしていた、メニュー価格改定の案になります」
高城が資料を広げようとした、その時だった。
水川が口を開いた。
「あ、あの……高城くんっ!」
水川は、膝に置いた両手に力を込め、まっすぐに高城を見つめた。
全身に力が入り、緊張しているのが穂花にも伝わってきた。
「何でしょうか?」
高城は表情を変えず、冷ややかな目で水川を見つめた。
「私たちも、『Luna Sana』のメニューを一から見直して考えてきたの。先にこっちを見てくれる?」
高城は一度、息を吐いた。
「……分かりました」
と小さく呟いた。
(何?その面倒くさそうな態度……)
高城は、水川から資料を受け取った。
そして静かに、資料に目を向けた。
一枚……二枚……。
ゆっくりとページを捲っていった。
その間、重い沈黙が流れた。
穂花と水川は、高城の反応をただじっと見つめた。
高城の視線が資料の上を動き、紙を捲る音だけが静かに響いた。
最後のページまで目を通した高城は、何も言わず、資料に視線を落としたまま、それを静かにテーブルへ置いた。
そして――。
高城はゆっくりと顔を上げた。
張り詰めた雰囲気に、穂花は思わず息を呑む。
そして、高城の次の言葉を待った。
高城はゆっくりと口を開く。
「……よく考えてあると思います」
その言葉に、穂花と水川は互いの顔を見合わせながら、思わず安堵の息を漏らした。
「ただし――」
高城の言葉に、穂花と水川の身体が一気に固くなる。
空気が張り詰めた。
「まだまだ甘いですね」
その一言に、水川の顔色が変わった。
「確かに価格だけではなく、メニューそのものの見直しに加え、他のメニューと組み合わせて施術の価値を高め、価格を上げるのはいいでしょう。ただし、それならばもっと価格を上げてもいいはずです」
「え……」
穂花は思わず言葉を漏らした。
次の瞬間、穂花は思ったことを高城に素直に伝えた。
「ですが……単体の料金も既に上げているので、これ以上価格を上げるのは、お客様の負担になると思うんです」
高城は、また一度息を吐いた。
そして、表情は変えず、冷ややかな目でまっすぐに穂花を見つめた。
「私たちは慈善事業でやっているのではありません。他のメニューと組み合わせるならば、それだけスタッフが拘束される時間が増えます。その分の人件費や光熱費もかかっているわけですから、それ相当の料金をいただかないとやっていけません。これでは、諸経費を差し引いたとしても、残る利益はわずかしかありません」
穂花は、唇を噛み締めた。
続けて、高城は言った。
「確かに単体でのメニューの価格もわずかに上げてはいますが、これではいつまでたっても借金は返せませんよ」
「――だけどっ」
穂花は前のめりになり、高城を強く見つめた。
「佐倉さん……本当にこのお店を立て直す気はあるんですか? 本気で借金を返済する気はあるんですか?」
高城の表情は変わらない。
それが穂花には、妙に腹立たしかった。
「もちろんありますっ!」
思わず強い口調で、穂花は答えた。
(私だって『Luna Sana』のこと、真剣に考えてる!)
「ですがこの案では、いつまでも現状は変わらないですよ」
「――っ」
(私と店長が、お店の存続のためにと、一生懸命考えたのに……)
時間を割いて二人で考えた案を、高城の一言で全て否定された――。
そのことが、何よりも悔しかった。
(店長は……)
ふと、水川に視線を向けた。
(えっ――!店長っ?!)
水川は青ざめた顔で、椅子に深く座り、ただただ項垂れていた。
(そうよね……あれだけ真剣に考えたんだから、ショックよね)
「そして、今出されているお茶ですが……」
高城は、目の前に出されている飲み物に、視線を落とした。
「お茶……ですか?」
急に話題が変わり、穂花は戸惑いの表情を浮かべた。
高城の前に出されているお茶は、月花茶をもとにアレンジしたものだった。水川が、今の高城の状態に合わせて、特別にブレンドしたものだ。
リラックス作用のあるカモミールの香りがふわりと漂っている。
おそらく今日の大切な話し合いに合わせて、少しでも気持ちをほぐしてもらおうと水川が用意したのだろう。穂花はそう思っていた。
「ええ。これは普段から出されているのですか?」
「はい……。お客様にお出ししていますが、その方の好みや体調に合わせて、配合を変えています」
「そう……ですか……」
高城はわずかに視線を落とし、何かを考えるように顎に手を添えた。
そして、しばらくの沈黙が流れる。
(どうしたんだろう……?)
穂花が不思議に思っていると、高城が突然、すっと顔を上げた。
そして真っ直ぐに穂花を見つめ、口を開いた。
「有料にしましょう」
(え……)
高城の言葉に、穂花は一瞬、身体を硬直させた。
「一人ひとりの体調や好みに合わせて配合されたもの。それは十分に商品価値があります」
意味が分からなかった。
(この人、何を言ってるの……?)
(私と店長が、お客様のためにと配合して作ったものを……商品? 価値?)
(私たちは、そんなつもりで作ってるわけじゃない! お客様のことを考えて作ったものを、商品として提供するなんて……)
「あのっ……」
穂花は思わず立ち上がった。
「何でもお金に換算するのはどうかと思います……。私たちは、そんな思いで作っているのではありません」
穂花は真っ直ぐに高城を見つめた。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
高城は一度目を伏せ、静かに息を吐いた。
そして、冷ややかな視線を穂花に向けた。
まるで人の心をえぐるような、冷たい矢のような視線――。
穂花の胸が、一瞬大きく跳ねた。
「……甘いですね。これでは、いつまで経っても現状は変わりませんよ」
(分かってる……だけど――)
「全てを、金儲けのための道具にしたくないんですっ」
(それでも、『Luna Sana』が大切にしたいものがあるから――)
穂花は真っ直ぐに高城を見つめた。
高城もまた、穂花を真っ直ぐに見つめる。
二人の視線が交わる中でも、それぞれの想いが交わることはないのだと、穂花は感じていた。
「高城くん」
先ほどまでショックで項垂れていた水川が、体勢を正し、静かに口にした。
その瞳は、いつもの水川とは違う、真剣で真っ直ぐなものだった。
高城の視線が、水川へと移る。
「この件については、少し保留にしてもらえるかしら? 私たちも改めて考えてみるから」
高城は少し考えた後、
「……わかりました」
と、ただ一言だけ答えた。
「ありがとう」
水川は微笑んだ。その表情は、先ほどまでの硬さはなく、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。
「じゃあ先に、高城くんが考えてくれた料金表を見せてもらってもいい?」
「わかりました」
そして高城は、再び自分が作成した資料を手に取った。
その間、穂花は水川に促され、静かに席に着いた。




