それぞれの想い
ピンポーン――。
翌朝、穂花は西野のマンションの前にいた。
ピンポン。ピンポン。
玄関のチャイムを何度か鳴らしたが、西野は出てこない。
(西野さん……)
諦めて帰ろうとした、その時だった。
ガタッ――。
玄関の向こうから、物音がした。
「西野さんっ!」
穂花は扉越しに、西野の名前を呼んだ。
「西野さんっ、お願い……開けて。話をしたいの」
穂花は必死に、扉の向こうにいる西野へ声をかけた。
「お願い、戻ってきて……大丈夫だから。私も店長も、西野さんが『Luna Sana』を好きで、お店のために頑張ってくれているの、わかっているから」
だが、西野からの返事はない。
しばらく、沈黙が続いた。
そして――。
ようやく西野が、重い扉の向こうで静かに口を開いた。
「……先輩、来ていただいてありがとうございます」
その声は、いつもの西野ではなかった。苦しさが滲んだ、か細い声だった。
「西野さん……」
穂花は胸が締め付けられるような思いだった。
「……私、このままじゃダメなんです……」
西野の悲痛な声に、穂花はすぐに言葉を続けた。
「ダメじゃないよ!私も水川店長も、西野さんの味方だから。また一緒に頑張ろう」
穂花は、わざと明るい声で呼びかけた。
だが――。
「ダメなんです……このままじゃ……」
「西野さん……」
「……もう少し、時間をください」
西野が今どんな顔で、どんな気持ちでいるのか――。
穂花はただ、冷たい扉を見つめていた。何も言うことができなかった。
そして――。
穂花は一度視線を下げた後、ゆっくりと顔を上げた。
それから、扉の向こうにいる西野に、静かに語りかけた。
「……分かった。待ってるから。私も店長も、西野さんが戻ってくるのを待ってるからね」
「……ありがとうございます」
穂花は後ろ髪を引かれながらも、西野のマンションを後にした。
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『Luna Sana』に着いた穂花は、お店の扉を開いた。
「佐倉さん、おはよう」
笑顔の水川が、優しく迎えてくれた。
いつもと変わらない、水川の慈愛に満ちた笑みに、穂花は思わず目を潤ませた。
(店長のこの笑顔に、どれだけ救われたことか……)
西野のことで頭がいっぱいだった穂花の心が、水川の笑顔で一瞬にして溶けていくのを感じた。
「すみません、遅くなって……」
穂花は小さく呟いた。
「大丈夫よ。いつもより少し遅いだけで、まだ開店時間前だから。それに、準備する時間も十分あるわ。いつも早く来て準備してくれて、ありがとうね」
そう言って、水川は穂花の前まで歩み寄った。
そして穂花の目を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「西野さんのところまで、行ってきてくれたんでしょう?」
穂花の肩がぴくりと揺れる。
水川は一歩踏み出し、両手を伸ばして穂花の身体を優しく包み込んだ。
そして――。
「ありがとうね。見てきてくれて」
水川はその背中を、まるで子供をあやすように、ぽんぽんと優しく撫でた。
「店長……」
「信じて待ちましょう。きっと大丈夫だから……」
その声はとても優しく、とても温かかった。
「私たちは、彼女が気持ちよく戻ってこられるように、できることをやっていきましょう」
(あたたかい……)
水川が触れた背中が、とても温かい。
その温もりが、じんわりと身体の中へ広がっていくようだった。
「はい……」
穂花は、その温もりを噛み締めながら、水川の腕の中で静かに答えた。
「さてと……高城くんが来るまで、少し時間があるから、私も改めてメニューを見直そうと思うの。全部彼に任せっきりは、さすがに申し訳ないから。一緒に考えてくれる?」
水川は穂花の目を見つめ、小さく笑った。
「もちろんです!」
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施術の合間、穂花と水川は向かい合って座り、メニュー表を見ながら意見を交わした。
穂花は、変えたほうがいいところなどを、ノートにメモしていく。
(高城という人はいまいち信用できないけど、施術に対して価格が見合っていないというのは、その通りだわ)
それは、穂花自身も感じていたことだった。
だが毎日の仕事の中で、その感覚が少しずつ薄れてしまったのかもしれない。いつの間にかそれを疑問に思わなくなり、自分にとっても適正な価格になってしまっていた。
(私がもっと早くに店長に伝えていたら……)
思わず、ペンを持つ右手が止まった。
すると――。
「佐倉さん……もしかして、私が早く気づいて伝えていたら、とか思ってない?」
穂花はぴくりと肩を揺らし、勢いよく顔を上げて水川を見た。
「図星みたいね」
水川は小さく笑った。
「佐倉さんは覚えていないかもしれないけど、最初うちに来た時に、ちゃんと言ってたのよ。『安すぎじゃないですか?大丈夫ですか?』って」
「そう……なんですか」
穂花は覚えていなかった。
「それをお客様のためだからって突き通したのは私だから」
水川は少しはにかむように、笑顔を見せた。
(そう、だったんだ……)
(それでも、一緒に働いている私にも責任はある……)
「絶対、高城さんより良いメニュー案をつくりましょう!」
(単に価格を上げるんじゃない。それにお客様が納得していただけるようなメニューにしていくんだ)
穂花は持っていたペンに、思わず力を込めた。
「佐倉さん……」
ふと水川が呼んだ。
穂花は顔を上げ、水川を見た。
「佐倉さんは高城くんのこと、ちょっと苦手?」
突然の問いに、穂花はぴくりと肩を揺らした。
高城優馬――。
昨日の出来事が、鮮明に頭に浮かんだ。
(突然やってきて、私たちのことや『Luna Sana』のこと、何も知らないのに、西野さんのことを強く否定してきた……)
(確かにそうかもしれないけど、西野さんだってお店のために頑張ってくれているのに……)
少し躊躇いながらも、穂花は正直に今の気持ちを話した。
「……正直、苦手です」
水川は苦笑いした。
「確かに彼は言い方はきついかもしれないけど、言っていることはその通りだなと思うところもあったの。だから私もほら。『佐倉さん』って呼んでるでしょ?」
水川はにこりと笑った。
「あ……」
それを聞いた穂花は、さっきから感じていた違和感の正体に気づいた。
(そっか……。さっきから何か変な感じがすると思ったら、店長、私のことずっと苗字で呼んでいたのね)
「お客様いない時は、いつもみたいに名前で呼んでいただいて大丈夫ですよ」
だが、水川は静かに首を振った。
「私も少し反省したの。一応私がオーナーという立場だから、そこはしっかり線を引かなきゃね。それに……」
「それに……?」
水川は、いたずらっぽく笑った。
「ほら、私って抜けてるから……。ずっと名前で呼んでたら、接客中ぽろっとそのまま言いかねないでしょ?普段から苗字で呼ぶ癖をつけようと思って。でないと高城くんにまた怒られちゃうわ」
(店長は変わろうとしている。高城さんのこと、認めているんだ……。だけど私は……)
穂花は、どうしても受け入れられなかった。
高城が西野に言ったこと。そして、西野の辛そうな顔が頭から離れなかった。
「店長……」
穂花は複雑な思いで、水川を見つめた。
水川はそんな穂花を、まるで全てを包み込むような柔らかな表情で受け止めた。
「まぁ、ゆっくりね。お互い初対面だし、これからそれぞれが分かりあっていけるといいと思うから」
「……」
店長の言葉に、穂花は答えることができなかった。




