最悪なはじまり
「みんな……おはよう。休んじゃって本当にごめんなさい。そして私がいない間も、お店を守ってくれてありがとう。今日からまた、よろしくお願いします」
店長の水川は、穂花と西野に深々と頭を下げた。
水川の顔色はすっかりよくなり、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。
その姿を見て、穂花は心から安堵した。
「店長が元気になられてよかったです」
短い言葉だったが、その一言には水川を思いやる穂花の気持ちが込められていた。
「店長、私、頑張ります!」
隣にいた西野も、その想いに重ねるように、真っ直ぐ力強く答えた。
「ありがとう」
水川はにこりと微笑んだ。
その笑顔に、穂花の胸は、じんわりと暖かくなった。
(だけど……)
穂花は、ふと水川の後ろへ視線を向けた。
そこには――
まるで黒い影のように、すらりとした長身の男が、立っていた。
穏やかな笑顔を浮かべる水川とは対照的に、男の周辺には、どこか近寄りがたい静かな威圧感圧が漂っている。
高城優馬だ――。
(店長の後ろの方が、すっっごく気になるんですけど――!)
だが、同じスタッフの西野は何も気にしていない様子だった。
むしろ心酔した眼差しで、高城を見ている。
(西野さん……)
その様子に、穂花は思わず苦笑いを浮かべた。
(高城さんがなんだか不気味に感じるのは……私だけなのかしら……)
「今日から高城くんには、お店の経営に入っていただくから、二人ともよろしくね」
「はい……」
「はいっ!」
二人の返事が重なった。
穂花は静かに頷きながら答える。
一方で西野は、目を輝かせながら期待に満ちた声で答えていた。
「じゃあ、それぞれ自己紹介してくれるかしら。まず穂花ちゃんから……」
水川に促され、穂花は姿勢を正すと、真っ直ぐ前を見据えた。
「佐倉穂花です。二十七歳です。セラピスト歴五年になります。よろしくお願いします」
言い終えると、穂花は小さくお辞儀をした。
「穂花ちゃんはね、この『Luna Sana』の看板娘なのよ。最近は穂花ちゃんを指名してくださるお客様も増えてきてね」
水川は嬉しそうに、高城へ話しかけた。
「店長、看板娘だなんて、やめてください……」
穂花は照れたように首を横に振った。
それは、ただの謙遜ではなかった。
穂花自身、本当にまだまだだと思っていたからだ。
確かに最近では、指名していただけるお客様が増えてきた。
それでも、水川を慕い、指名するお客様の数には、まだ遠く及ばない。
なにより、水川の技術の高さを、穂花は誰よりも知っていた。
「……そうですか」
高城は、その表情を崩さなかった。
ただ静かに前を見つめていた。
(この人、大丈夫なの……?)
高城の反応に不安を覚えていると、隣にいた西野が、一歩前へ出た。
「はい!私、西野未来と言います。二十二歳です。よろしくお願いしますっ!」
西野の明るくハツラツとした声が響く。
しかし、やはり高城は表情を変えなかった。
「……」
高城からの返事はない。
ただ真っ直ぐ、静かに西野を見ていた。
その様子に、水川が気づく。
「高城くん……?どうしたの?」
水川が不思議そうに、高城の顔を覗き込んだ。
「いえ……佐倉さんのように、セラピスト歴などを含めた自己紹介を待っているのですが」
その瞬間、西野の表情が固まった。
先ほどまでの明るい笑顔は消え、戸惑いの色が浮かぶ。
その場に、張り詰めた空気が流れた。
「高城くん……。未来ちゃんは、まだうちに来て半年くらいなの。だからまだ勉強中で、施術はしていないのよ」
「半年……ですか」
高城の視線が、ゆっくりと西野へ向けられた。
西野はさらに表情を強ばらせ、その場に立ち尽くした。
そして――。
高城の形のよい唇が、ゆっくりと開く。
「西野さん……あなたは約半年もの間、何をしてきたんですか?」
感情のこもらない平坦な声が、静かに店内へ響いた。
西野の肩が、小さく揺れる。
その場に、ひやりとした空気が流れた。
西野は俯き、握った拳をさらに強く握りしめた。
その様子に、穂花は思わず声を上げた。
「西野さんも、早く一人前になれるように、練習を頑張っているんですよ」
高城は、小さく息を吐いた。
「……半年も時間があれば、すでにセラピストとして現場に出ていてもおかしくありません」
確かに、研修を終えた後、すぐにお客様の施術に入る店もある。
だけど――『Luna Sana』は違う。
お客様一人ひとりに寄り添った施術をするために、確かな技術を身につける時間が必要なのだと、水川は西野にも伝えていた。
「高城くん。うちではね、ある程度の技術を身につけてからでないと、お客様の施術は任せていないの」
水川の言葉に、高城はさらに言葉を続けた。
「言いたいことはわかります。ですが、西野さんの様子を見ていると、それに甘えているような気がしますね」
「甘えている?」
穂花は思わず言葉を漏らした。
「えぇ……。まず身なりです。その化粧とアクセサリー、必要ですか?」
高城の言葉に、穂花は言い返せなかった。
確かに、西野はピアスをし、ネックレスも身につけている。
そして化粧も、涙袋やラメを使った今流行りの若者メイクだった。
「それは……これから施術に入ったら変えていくわよね、未来ちゃん」
水川は西野に目線を向けた。
「あ……」
西野が何か言おうと口を開いた、その時――。
それより先に、高城の声が響いた。
「今の状態に甘えているから、そのような身なりになるのではないですか?」
高城の言葉が、容赦なく西野に突き刺さった。
そして――。
「西野さんはここのスタッフとして、本気でやる覚悟はあるのですか?」
容赦なく重ねられる言葉に、西野の身体はわずかに震えた。
その瞳には、涙が浮かんでいる。
(いくらなんでも、そこまで言うなんて……)
穂花が口を開こうとした、その時だった。
再び、高城が前を見据えたまま口を開いた。
「あと、もう一つ気になることがあります」
高城は静かに続けた。
「言葉遣いです。皆さん、私たちはお客様から見られている立場ですから、敬称は統一しましょう。まず水川店長は、スタッフを名前で呼ぶのはやめてください」
水川は一瞬、動きを止めた。
そして申し訳なさそうに俯く。
「はい……ごめんなさい」
高城はそれ以上何も言わず、静かに口を開いた。
「今日は皆さんの仕事ぶりを見せていただきます。よろしくお願いします」
その言葉とともに、さらに張り詰めた空気が広がった。
穂花は小さく息を飲んだ。
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朝の準備を終えたあと、穂花はある異変に気づいた。
(――西野さんがいない)
穂花は慌てて水川に尋ねた。
「店長、西野さんは……?」
「え?さっきまでスタッフルームの方にいたわよ」
穂花は急いでスタッフルームへ向かった。
(嫌な予感がする……)
スタッフルームを覗いた瞬間、穂花の身体が固まった。
(いない……)
穂花は、施術室、化粧室と店内をくまなく探した。
だが、やはり西野の姿はなかった。
(西野さん……)
穂花は店の外に出ようとした、そのとき――。
その様子を見ていた高城が、声を掛けた。
「佐倉さん、どうかしましたか?」
思わず、穂花の声が大きくなる。
「西野さんがいないんですっ!」
高城は一瞬目を見開いた。
そして、静かに息を吐いた。
(何?そのため息……)
穂花の足が止まった。
「勤務時間中だというのに……仕事放棄ですね」
呆れたように言い放つ高城の態度に、穂花はいら立ちが隠せなかった。
(あなたが、あんな責めるような言い方をするからでしょ!)
「やる気のない方は、放っておきましょう」
(やる気がないって……)
穂花は、込み上げるものを抑えられなかった。
西野は確かに、まだお客様の施術に入ったことはない。
技術も経験も、これから身につけていく段階だ。
それでも――。
『Luna Sana』の悪い噂が流れた時、誰よりも早く気づき、知らせてくれた。
そして、水川が倒れた時も――。
誰よりも水川を心配し、お店の危機に本気で向き合っていた。
「西野さんは『Luna Sana』の大事なスタッフです!放っておくなんてできません!」
穂花は真っ直ぐな眼差しで高城を見つめた。
そして、そのまま店を飛び出した。
「まったく……」
背後から高城の声が聞こえた。
それでも穂花は振り返らず、そのまま外へ駆け出した。
(西野さん……)
穂花は左前方へ視線を走らせる。
いない――。
すぐに右へ――。
すると、数メートル先に見慣れた後ろ姿があった。
「西野さんっ!」
穂花は部屋履きのまま、西野の背中を追って駆け出した。




