王妹、安堵する
「なにをやっていたんだお前ら!」
「す、すいません」
「謝る前に行動しろ!」
男たちの怒号が背後から飛び交っている。水溜まりを踏む音が周囲に散らばっていく。それを尻目にとにかく音源から離れようと足を動かす。足跡を付けないよう、音を出さないよう気を付けて走る。エイナから教わった時には使う時があるのか怪しんでいた技術だが、どんなものが役に立つか分からないものね。
「なんで、こう、なっちゃった、のかな?」
息を切らしながらも疑問の声を一人ごちる。息が苦しくなるのは理解しているが、思わず呟いてしまうぐらい今の状況はよろしくない。森の奥深くまで逃げていきながらここまでの出来事を振り返っていく。
エイナがコットンのおばあさんの所へ行ったあとにも続いていたジンさんとの訓練。その最中、この街の領主であるボーランさんに呼び出されたことが切欠だったろうか。リューク兄さんから何か伝言を貰っているから至急来てもらいたいと領主の侍従さんから伝えられ、領主の館に連れられたのだった。ボーランさんを使わず私に直接伝言すればいいとも思ったけど、命が狙われているという現状、不用意に私に誰かを近づけることはできなかったのだろう。実際使者なのかどうかは分からないし、少しでも怪しい要素があったらエイナが殺してしまうかもしれないので、正しい連絡方法だと私は思っている。本当に物騒な奴よねアイツ。
「よし、じゃあ行っかぁ。アランたちは帰ってえぇぞ」
訓練を切り上げてジンさんがこちらに近づいてくる。名前に上がったアランさんたちは、全身を泥に塗れさせて倒れ込んでいた。ズタボロと表現が優しいくらい悲惨な状態であるが、彼らに顔には笑みが浮かんでいる。地獄の訓練から解放されたためだろう。這いずりながらこの場から去ろうとする姿に、込み上げてくるものが何かは分からない。
ああ、ユナさんが女性とは思えない姿に。しっかりとお手入れしておいてください。
「ジンさんも付いてくるの?」
「そりゃあな。俺ぁお前の護衛だぜ」
「いつもいない気がするけど」
「常にエイナが付いとったんなら、そりゃあ必要ねぇだろ。けどそのエイナが今居らんからなぁ」
仕方ないという感じを隠しもしない態度。我が師匠ながらいささかモノグサすぎやしないかな。
「ま、そういうわけだからさっさと行こうぜ」
そういうと言葉通りサクサク進みだしていった。雨具を羽織っている最中の私を放り出して。
「……テキトーおじさん」
以前エイナが言っていた言葉を、その背中に見出したのだった。
「ベルベット様、よくぞお越しで」
ジンさんと共に領主の館に到着すると、この街を支配しているボーランさんが直々に出迎えてくれた。
「王族の方にご足労いただき、真に申し訳ありません」
「いえ、お気遣いなく。こちらも手持無沙汰の身。むしろ若輩の私にそのような厚い出迎えを遇していただき感謝を申します」
「ははは。ベルベット様も急な立場でありながらも、立派なレディとしての嗜みを身に着けられているようで」
「おい、お綺麗で回りくどいご挨拶はもういいから、早く本題に入れやハゲジジイ」
「なんだ居たのかカストレール。今俺が話してんのはベルベット様であって一平卒の貴様じゃねぇんだよ。あと俺はハゲてねぇから。どこに目ぇついてんだ」
紳士然として、貴族の鑑のような物腰を持つボーランさん。その態度がジンさんと話すことで豹変した。涼しい笑顔を浮かべていたというのに、眉を寄せてジンさんを睨みつけていた。
「目なんざほれ。ここについてあるのが見えんのか? 見えないっていうのならもう末期だぞ。老いが頭だけでなく目にもきたか。そろそろ家督を息子に譲ったほうがいいんじゃねぇか?」
「相も変わらず口が減らんなカス野郎。腐れ縁だからって調子に乗んなよ。そろそろ不敬罪で牢屋に入れてやろうか?」
「そりゃあいい! 俺もそろそろ楽隠居を考えてたんだ。俺を死ぬまで養ってくれるなんて、持つべきものは親友だなおい」
「誰がテメェを養うなんて戯けたことを言ったんだ? お前なんかに払う金なんてこれっぽっちも――」
話の途中で、急に私の方に視線を向けたボーランさん。それに釣られてジンさんも私の方に向いた。唖然として二人のやり取りを見ていた私だったが、口汚い罵り合いを繰り広げていた二人に見つめられて固まってしまった。特にボーランさんの変わりようには文字通り目を見張った。視線の端には手で目を覆っていたり、諦めの表情を浮かべている侍従さんたちの姿が移った。
「――ッオホン、お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ありませんでした。ベルベット様」
「あ、いえ、大丈夫です。はい」
「あ~あ、お前がいきなり怒鳴ったりするから」
「だっ! んんっ! お茶の準備が出来ていますので、こちらへお越しくださいませ」
咳をして元の調子に戻したというのに、ジンさんの言葉で再び煽られているボーランさん。どうにか持ちこたえて案内のため先に進んでいく。背を向ける直前にジンさんに向けて眼を飛ばしていたが、本人はどこ吹く風で後について歩を進めている。
「申し訳ありませんベルベット様。旦那様とジントレール様は幼少のみぎりより親睦を深め合った仲でして。何卒ご容赦いただきたく存じ上げます」
しばし呆然としていたところに、豊かな白髪を蓄えた老紳士が謝罪を口にしてきた。
「は、はい。大丈夫です」
二人はいわゆる、幼馴染という奴だ。だというのに、とても仲が良く見えないのだが。
「あの、二人はいつもあのような会話を」
「はい。顔を合わせると常にあのような汚い言葉を吐き合ってしまいますが、それもお二人の親密さが成せる業でありまして。喧嘩するほど仲がいいとはまったく、誰が言いだした言葉なのやら」
二人の関係を語るときの老人の表情は柔らかく、危機感をまるで感じてはいなかった。年齢は二人より間違いなく高齢で、その口ぶりから二人の子供時代を知っているのだろう。
「さあベルベット様。旦那様がささやかながらの歓迎の準備をしております。部屋のご案内をいたします」
この老人に連れられて、二人の後を追い始めるのだった。
「度重なるご無礼、真に申し訳ありません」
ラーゼさん--先ほどの老執事に案内されて部屋に入ると、やはりそこには頭を下げたボーランさんが立っていた。ジンさんは既に椅子に座ってお茶とお菓子を楽しんでいた。ラーゼさんは私の席を用意するとそのまま壁際に立って控えていた。
恐縮しっぱなしでありながらジンさんを睨み付けるという器用な真似をしているボーランさんをどうにか宥め、ようやく全員が着席することができた。
「まったく、どんだけ脱線すれば気が済むんだこのヘッポコ領主は」
「ジンさん止めて。本当に話が進まなくなるから」
脱線させている要因そのもののくせにこの態度。前にエイナが言っていた『反面教師』とはこのことなんだろう。
「それでは、リューク陛下から頂戴したお言葉をお伝えします」
慇懃に始まった報告であったが内容をまとめると、ヒカの国の大使たちが帰ったということだった。つまりこの街に居る理由が消えたということになる。ヒカの人間に顔を覚えられないようにするための措置だという話だったが、果たしてどれくらいの効果があったんだろう。
……マナーがまだしっかりしてないから除け者にされたのかな? もしかして。
「話はそんだけかぁ? えらい手間取りやがって。俺は仕事に戻るぞ」
「お前はそもそも呼んでねぇから」
「あ、このお茶おいしいですねラーゼさん」
「お褒めのお言葉を頂き恐縮です。ベルべット様。どうぞそちらの菓子もご賞味ください」
再び口論が始まった大人たちを無視して私とお茶とお菓子に舌鼓を打ちながら、ラーゼさんとおしゃべりしていたのだった。
『別の人間を使いに出すから、そいつと一緒に帰ってこい』
この言葉を捨て台詞に、急用を思い出したというジンさんは屋敷から出て行った。最後までおじさん二人の口が止まることはなかったけど。
それからは街のこと、国のこと、貴族のこと、それでもって私のマナーのことなど、取り留めなくボーランさんと話し込んだ。ラーゼさんは話に加わることはなかったが、喉が渇いたと思ったらお茶のお代わりを淹れてくれたり、お菓子に飽きてきたらまた別のお菓子を出してくれたり、まさにここぞという抜群のタイミングで行動してくれる。ベテランの侍従さんになるとこのくらいは朝飯前なのだろうか。達人になると相手の行動が予測できるようになるとエイナも言っていたが、なるほど、ラーゼさんを見ていると納得がいくわ。
「ベルベット様、お迎えの方がお越しになられました」
一頻り話し終えてゆっくりとお茶で喉を潤していた所に声が掛かってきた。いいタイミングの訪問ね。要件は聞けたし、そろそろお暇させてもらおうかな。
ラーゼさんに付いて玄関に向かうと、そこにはこの街特有の装備に身を固めた兵士の方が五人も待機していた。顔は見たことがなかったが、今まで出会ったことのない兵士なのだろう。
「ジントレール様から命じられてお迎えに参りました。失礼ですが、ベルベット様でよろしかったでしょうか?」
「はい。今日はよろしくお願いします」
やはり会ったことがないみたいね。でもなんだろ? この違和感?
「それではベルベット様。くれぐれも、くれぐれもお気を付けください」
「はい、ありがとうございます。また今度お邪魔させていただきます。そのときは完璧な淑女となっていることを約束します」
「ふふっ。首を長くしてお待ちしております」
私の言葉を聞いて、涼しかった笑みを崩して別れを告げるボーランさん。その言葉に背後に控える侍従さん達が一斉に頭を下げる。王宮に居た侍従さん達よりもしっかりとした応対を見せている気がする。
そしてこの街の領主館を後にした。
弱くなりつつある雨の中、護衛の人に囲まれて街を進んでいく。
いつもエイナやジンさんが傍にいるだけだったから、周囲を固められながら歩くという状況はなんだかんだで初めてだった。本来の王族ならこれぐらいの護衛を付けるのが普通で、たった一人の人間が傍に付いているだけという方がおかしいのかもしれない。まあ何人もの人に囲まれているよりかはマシだけどね。
「そう言えば、お名前をお聞きしてもいいですか?」
「……」
いつもは護衛と話しながら歩いているせいか、黙々と歩くこの環境に耐えられなかった。話の取っ掛かりとして名前を聞いてみたけど、まさかの無視。今までそういうのはなかったけど、もしかしたらそれも王の妹という立場故なのかもしれなかった。
周りの人が私に気を使ってくれてたから。何で気を使ってくれたかというと、それはリューク兄さんが王だから、でしょうね。
私自身が大した人間ではないのは間違いない。ならばそんな小娘の発言を無視されることも普通にあるだろう。知らず知らずのうちに兄さんに甘えてしまっていたのかもしれない。
だったら、どうにか無視されないような人間になろう。兄さんの、王様の妹として相応しくなるように。
とりあえず今は自分の身を護れるようにするのが最優先、かな。
無言で歩みを進めていく。
一言もない気まずさを感じながらも、耳に届く雨音と水を弾く足音がそれを紛らわしてくれた。
そうこうしているうちに街を抜け砂利道に出た。泥濘で靴を汚しながら迷宮である『フィルスの森』へと目指していく。
流石に暇を持て余してしまったので、私を囲んでいる護衛の方々を観察することにした。エイナ曰く『観察して敵の情報を得るのは戦う者にとっては、当然のように身に着けておくべき技術。というわけで人間観察の練習は絶えずすること。人を見る目に繋がるから王族が身に着けても損はしない技術だぞ』ということ。サラリと無理難題を吹っ掛けるのがエイナらしいわ。
でもジンさんもこれに同意しているわけだから、やらないわけにはいかないわよね。
そういうわけで、五人の護衛者の内、目に映る前方の三人に視線を向ける。年齢や容姿など見た目などの部分からでもいいから、とにかく見ることが大事らしい。エイナ談。
といっても、分かることなんて本当にないけどね。せいぜい先頭の兵士さんが後ろからでも分かるくらい髭モジャなおじさんだというくらいかしら。
その後も何気なく全身を眺めていると、一つ妙なことに気付いた。
靴だ。靴の大きさが、一回り大きい、気がする。
雨の日で泥除けのための靴を履いているのかもしれないが、それなら靴の口が脛を覆うほど長くあるべきのはずだけど、そんな感じでもなかった。
何だろう? 靴の上に靴を履いているような、そんな違和感。
他の人を見てみると、全員同じような靴であった。同じように、靴の重ね履きをしているようだった。
ジンさんやジェロームさん、ユナさん、アランさんたちが、そんな靴を履いていたのをみたことがない。雨具としての靴ならば、この最近の雨天の中で見かけていないのはおかしい、わよね。
ふむ、どんな意味がある靴なのかしら?
この人たちだけの雨具? 靴の口が短すぎるから意味はない。
靴底を厚くして、何かを踏んでも大丈夫にするため? 何が落ちているか分からない場所ならともかく、街とかでは履かないはず。
うーん、分かんないわね。そもそも靴の上に靴を履く意味が分からないし……。
一人悶々と悩んでいるうちに、何時の間にやら『フィルスの壁』、その門の傍に到着した。
ジンさんもエイナも居ないから、それじゃあ一人で自主練でもしようかな?
「ありがとうございました。それじゃあこれで――」
「――ジントレールさんが迷宮の中でお待ちです。中に入りましょう」
別れの挨拶をして離れようとした所、肩を掴まれた。かなりの力が籠っていたため、痛みで顔が歪んでしまう。
思わず抗議の視線を向けてしまったが、彼らの表情は無く、こちらに有無を言わさないものだった。
「ジンさんが、中に……?」
「はい。そちらで稽古をつけるとのことです」
押されるように五人の輪の中に戻される。そのまま壁の門にまで連れられて行く。
ここでも違和感が。いつもは門の傍にいる番人を受けおう兵士の方が居なかった。暇そうにはしているけど、それでもサボるような人はいないと記憶している。それなのに今回に限っては何故か不在。それが私の不安を駆りたてた。
「何で門番の方がいないのかしら?」
「急用で席を外しているのでしょう。さ、早く中に入りますよ」
急き立てられて門を潜る。森と壁の境目の平地に出た。私を囲う輪が一層と狭くなっているのが気に掛かる。隙間なく、まるで籠のように。
空気は重くなり、私を圧迫していく。何が起こってもおかしくない、そう、例えば、誰かが死んだり、とか。
何かがおかしい。私ははっきりとそう感じていた。
気のせいなら良い。違っていたのなら謝ろう。
「今回はアランさんたちと一緒に訓練することになっていたけど、もう来られているのですが? まだなら少し屯所で休ませていただきたいのですが……?」
だから、嘘を吐こう。アランさんたちは午後は非番で休みになる。迷宮はおろか兵士としてすら働いてはいないはずだ。
彼らはいない、まだ来ていない、そう答えてほしい。
「大丈夫。彼らも来ていますので、お急ぎください」
しかし答えは望んだものではなく。居ないはずの人物が居るという嘘を吐く理由は何か? 私をここに留めるため。何故私を留めるのか? 考えられるのは唯一つ。私が兄さんの妹だから。
私を狙っている人達に囲まれている。兄さん、ジンさん、エイナ。私を守ってくれた人たちは何処にもいないこの状況。すなわち、私を守れるのは私しかいない、ということ。
追いつめられている現状に出てくる震えを抑える。震えていても何もならない。待っても事態は良くはならないなら、とにかく行動を起こす。エイナから教わったことだ。
考える。彼らの発言のどこまでが嘘なのか。
アランさんたちが居ないという嘘。彼らが行動を起こしたのは、私の傍から護衛と呼べる人物が消えたせいだろう。つまりジンさんやエイナがいないことが前提のはず。
前提をそこに置いた理由は唯一つ。警戒しているからだ。エイナはともかく、ジンさんに対して警戒しているのは絶対だろう。
警戒しているということは、気にかけているということ。無視できないということ。
雨というのが味方している。雨具の中で魔墨を吐き出し、魔術式を作成していく。
森と平原の境界。そこに近づいたとき、行動に出る。
「あっ! ジンさーんっ!!」
横を向いて、指を差し、大声で呼びかける、フリをする。
無視できないその存在。居ないと確信しているその人物。だがそれでも傍に居ると仄めかされたら、彼らはそれを無視することができるだろうか。
結果は今目の前にある。まさかの人物の登場に驚愕し、全員が私の声と指の指す方に視線を向ける。身体を硬直させ、身構える。見当違いの方向に。
意識を逸らした瞬間に、私は籠の中から脱出し、森の方へと駆け出していく。
門の方へと向かえばいいのに、何故か森に向かってしまった。危険なのは森の方なのは間違いない。でも門に人が立っていなかったことが気に掛かった。もしかしたら仲間が居るのかもしれないと考えたのだ。
迷宮に連れてこられたのだから、中に仲間が居る可能性も十分に高いけど、逃げ場のない平原よ入り組んだ森を選んだというその考えは当たっていたんだと思う。というか思いたい。
「逃げたぞぉおぉーっ! 追えぇーっ!!」
森に飛び込んだと同時、後ろから大声が飛んだ。その声に反応して森の中が騒々しくなった。やっぱり仲間が居たらしい。最初から森の中に潜んでいたのなら、このまま逃げてもすぐに捕まるだろう。
逃げ始める前から作っていた人形の魔術式を発動させ、以前エイナに見せた水人形を作り上げた。そこに雨具を着せて、走りやすく目立つ道を走らせる。顔はともかく体の方は水で出来ているから普通はすぐに気付かれるものだけど、雨具で全身を隠せばそうそうにばれないはず。
今私がつぎ込めるありったけの魔力を式に注いだ。命令も『走ること』と『人から逃げること』に集中し、とにかくばれない様、捕まらない様に特化させた。
目論見は見事成功。森に潜んでいた奴らも人形の方へと向かっていったようだ。見た目完璧な美少女に釣られて群がる男たちという、犯罪確定の光景が見れないのは口惜しいけど、今は何より命を惜しまなければ。とにかく彼らから離れる方向へと足を動かしていく。
「おい! こっちは人形だった! どこか別の所にいる!! 探しだせぇぇ!」
足跡がつかないように木の根を踏んで移動していたのが幸いしたか、今の所見つかってはいない。
人形は惹きつけるという役割を十全に果たしてくれた。しかしこのままではジリ貧となるのもまた確定している。
周囲に気を張って、声を殺して、絶えず動き回る。息が切れる音すら抑えようとするから苦しくて仕方がない。もっと走り込んでおけばよかったのかな。
パシャン。
「っ!」
体力、気力の限界だったのか、木の根を踏み外し、水たまりを踏み抜いてしまった。聞こえるなと願っても、それは届かなかった。
「おいっ! そっち居たか!?」
男の野太い声が掛かってくる。当然声を返したりせずにとにかくその場から逃げるように駆け出していく。
「っおい! こっちだこっち!! こっちに居るぞぉ!!!」
反応がなかったことから、私の存在に確信を抱いたようだ。後ろから大きく音を踏み鳴らして私に向かって近づいてくる。
その音から逃げる。逃げる。逃げる。
だけど周囲に潜んでいた男たちが次々と現れ、私の逃げ道を潰していく。
必死の逃走を続けていく。されどついに、私は男たちに包囲された。
木に背中を預け、隠すことなく大きく肩で息をする。男たちは無手ではあるが剣を腰に差している。エイナから貰った短剣でも突き出して牽制すればいいのかもしれないが、所詮焼け石に水といった所。
助けの見込みもなく、敵に包囲されている。窮地というのはまさにこのことを指すのだろう。
「新たにウデンの王となったリューク。その妹であるベルベットで相違ないな?」
「人違いで、あっても、逃がしてくれないん、でしょ? っていうか兄さんを呼び捨てにするなこの犯罪者どもが」
息が切れていながらでも会話して体力の回復に努めていく。正直今は足を動かすことすらできない。でも精一杯の虚勢を張る。それが意味があるものだと信じて。
「ふむ、そちらの言う通りだ。そもそも逃がす気はない。どうやら正解でもあるようだしな。いくつか質問に答えてもらおうか? こちらも余り面倒を掛けたくないんだ。早く終わるに越したことはないだろう? どっちにとっても」
「私は、遅い方が、いいと、思うん、だけど」
「ほう、拷問がお望みとは。痛いのがお好きかな? 了解した。おい、やれ」
囲んでいる男たちの中から一人が歩み出てきた。威嚇するように剣を抜き放ち、こちらへと近づいてくる。視線が露に濡れていく刀身を捕え、そして固定される。
その剣の向こう側。壁となる男たちを越え、木々を抜け、点にしか見えないような、そんな遠い所。薄暗く見通しの悪い中で、それでもなお一層濃く映る、小さな黒い人影が目に留まった。
追い込まれた自分が見せた幻影かとも思った。けど段々とその黒い影は大きくなっていく。見間違いじゃない。場違いなのは十分に分かっているけど、思わず笑みがこぼれそうになる。
だがその影より剣を持った男のほうが私に近づくのは早いだろう。まだ殺す気はないんだろうけど、それでも斬られるのは嫌だし、痛いのはごめんだ。
「遺言ぐらい言わせなさいよ」
歩み寄る直前でこちらから声を掛ける。思わぬ言葉だったのか、男は足を止めた。まだ殺すつもりはないだろうけど、殺すことは確定している。状況は覆らないという勘違いもあるんでしょう。故に足を止めてしまった。
私は疲れの溜まった身体に鞭を打ち、顔を上げる。顔が歪むほどの全力を込めて、大きく叫んだ。
「助けてーーっ!! エイナーーーーっ!!!」
遺言にしては異質な発言。正面から見える男の表情はあからさまに困惑している。だが気が狂ったのでも思ったか、男は変なものでも見たような顔をして、ゆっくりと剣を振り上げた。
「任せとけ」
そのゆっくりとした動き。それとの対比だろうか。頭上から目にも留まらぬ速さで落ちてきた黒い影が私の目の前にあった。落下の勢いの強さを示すかのように、大きく水が跳ね、音が響く。
大きな大きな振動に押されたように、私を斬りつけようとした男の首は、自らの剣と同じくそろりと身体から転がり落ち、地面に追突した。
色と臭いが異なる雨を浴びた黒い影が、私に話しかけてきた。
「大丈夫かベル? だいぶお疲れの様だけど?」
その声を聴いて、私は完全に身体から力を抜けたのを感じた。
「見て分からないの?」
ついついいつものように言い返してしまうが、この状況でもいつものやり取りが出来るくらい、落ち着きを取り戻す。
「まあ急いできた甲斐があったってもんだな」
ジンさんとは違う子供の声のはずなのに、私に大きな安心感を与えてくれる、不思議な声。でも認めるのは何となく癪だ。
「遅いわよ、バーカ。それで、ありがとう」
本当に最低限の礼。でもこれで十分だと思っている私が居る。私たちにはこれで。
「礼を言うのは早いぜ。無駄ではないけどな」
そしていつもの余裕綽綽という態度で、私に背を向けた。
期待していなかったと言えば嘘になる。だけど本当に期待通り現れると、予想外だし、想像以上に嬉しいものなのね。
エイナの小さくて逞しい背中を見て、場違いにもそう感じるのだった。




