忍者、絞める
昨日ベルが放った魂の叫びが呼んだのか、空は泣き出しそうな灰色で覆われていた。まだ気配はないが、もう少し色が濃くなれば一雨降るかもしれないな。
「ムリムリムリ! 離してもうムリ!」
名前も知らないこの体の元の持ち主や、その母親が命を落としたのも、大雨による土砂崩れだったか。その点から言えば雨は凶兆なのかもしれないが、俺がこの世界に生まれ落ちた切っ掛けが二人の死だとするなら、俺にとっては吉兆ともいえるわけで。
果たして此度の雨は吉凶どちらを告げるのやら。
「もう……ほんと、ムリ……」
「そろそろ離してやれ坊主。失神するぞ」
「えー? まだ対処は出来るんだけどなぁ。仕方ないか」
ジンさんに言われたとおり、ベルの胴体に回していた両足と、首に巻き付いていた両腕を離し、ベルを開放してやる。こういうと少し卑猥に感じるかもしれないが、流石にフロントチョークスリーパーで感じる者は居ないだろう。
今やっているのは、人体構造の講義の一環としての乱取りである。と言っても現状は俺が一方的にベルに技を掛けているだけなのだが。
いつもは迷宮探索を終えてから行っているものなのだが、ジンさんが興味を示したため、朝の訓練を終えてからやることにしたのだ。そして今披露しているのは関節技や絞め技といった寝技寄りの技術である。
途端に咳き込むベルベット。気持ちは分かるが、気道じゃなくて動脈を絞めてただけだから、呼吸は無事だぞ。
「大丈夫か?」
「はあ、はあ、本当に殺す気なのエイナ?」
「いや、まだ対処は出来たぞ」
「はあ、はあ、っふぅー……。 で? 何よそれ」
「オーソドックスに、目を潰す、耳を引っ張る、鼓膜を破く、睾丸を潰す。外ってことを考えると、石なんかを拾って相手の喉を潰す。噛まれるリスクはあるけど、歯茎に爪を立てるなんてのもありだぞ」
指折り数えていく。両腕は自由、かつ背後ではなく前からの絞めだったから、やれること自体は多かったぞ。
「聞いているだけでも痛いんだけど!? っていうか怖いんだけど!? エグイんだけど!?」
「そりゃそうだ。これは技の外し方ではなくて、あくまで対処法だからな。相手を殺すっていうのはある意味、究極の対処法だ」
「うへぇ。……一つ聞いていい?」
「何だ?」
「睾丸ってなに?」
……ここは素直に答えていいものなのだろうか? ジンさんに問いかけの視線を向けると肯かれたので、隠さずに答えたほうが良いのか。
「それはあれだ、その、男の股の間にぶら下がっている球体というか」
「ああ、なるほど。生殖器ね」
あっさりと言い放つ若すぎる乙女。少しは恥じらいという物をもったらどうかね?
「何不思議そうな目で見てんのよ? 羊や牛の世話で散々見たっていうのに、今更恥ずかしがるワケないでしょ」
さも当然のように言い放つ。そういえば農家出身だと言ってたっけ。
「にしても、驚きの技術じゃのう。素手のまま気道を潰して殺す技は知っとるが、これは脈を絞めて気絶させる技か? 殺し技ではなく、どちらかと言うと生かす技か。初めて見たわ」
そんなやり取りをしている間に近づいてきたジンさんが、感心したような表情で話しかけてきた。こちらでは失神させる--落とす技は余り一般的ではないようだ。
それも当然か。刀槍の類がメインな武器として存在する以上、発達するのはそれらの武器術のはずだ。江戸時代に剣術道場が流行ったのも、最も身近な武器が刀だったためだと聞く。ジンさんの言葉から無手術がない訳ではないだろうが、あくまでサブとしての扱いなのだろう。
「絞め続ければどっちみち死ぬけどね」
「やっぱ殺す気だったんじゃない!」
続ければと言っただろうが。加減ぐらい出来るっつーの。甘く見過ぎ。ちょっとぼーっとしてて絞めすぎただけだっての。
「それが問題なんだがな」
「心を読まないでよジンさん」
ホント油断ならない爺さんだこと。
「というかこんなの、ほんとに使えるの?」
「多分使えんだろうな」
前世のように、武器を持ち歩くのが一般的ではない場所なら、体術が最も優秀な武器になりえる可能性もある。だが生憎とこちらには刀狩も銃刀法も存在しちゃいない。対峙した相手が武器を所有している可能性のほうが高いだろう。当然、素手より武器を持った人間のほうが基本的には強い、というより危険なのである。そもそも王妹を狙う相手が凶器を持っていないことの方が少ない。
そういうわけで、拳を振るう状況などそうそうない。寝技なら尚更だろうな。
「じゃあなんで訓練するのよ?」
「自分と相手の体を意識するためだ」
体術は単体で使うのではなく、応用して使う。体捌きや呼吸法はそのまま使えるだろうし、腕の伸ばし方や足の運び方は、武器を持っている時でも使える。武器を動かすとき、真っ先に動くのは体だ。相手の体への意識を持てば、それも自ずと読み取れる。
身体能力と同じく重要なのが身体操作。それを養う訓練だと言えるだろう。
「うん。あんまりわかんない。槍だけでも別にいいんじゃない?」
それを懇切丁寧に説明しても、受け取ってもらえなかった。どうしよう?
「素手でも自分は闘える、っていう意識を持っとるだけでも、いざというとき冷静に動けるもんよ。それだけでも意味はあんだろ」
「ああ、なるほど」
ジンさんの説明には笑顔で頷くベル。俺の説明下手だったのか? その一面もあるからいいんだけど。
「それでも過信だけはするんじゃねぇぞ嬢ちゃん。この程度の鍛錬で大人に勝てると思ったら大間違いだ。今はとにかく逃げの一手だ。そこだけは忘れんな」
「はい! 師匠!」
俺を放置して行われる師弟劇場。これでベルの訓練に身が入るのなら、よしとしよう。少しハブられたからって気にしないぞ俺は。
「それにしても、ちょっとやり過ぎなんじゃないエイナ君?」
「確かにな。王の妹君に対して、何たる不遜」
「エイナ、外道」
孤独に耐えている俺にちょっかいを掛けてきたのは、ジンさんと同じ班に属する新人三人組。先ほどまで耐久ランニングを続けていたせいで、その全身は汗に塗れており、木製の水筒からちょくちょくと水を飲んでいる。
言わずとも分かるだろうが、三人も一緒に訓練を行っている。
ジンさんがベルの訓練を引き受けてくれたのはいいが、それが昼過ぎまで行われるため、午前中のこいつらの面倒を見れなくなっていた。それならそうで書類仕事等のデスクワークをこなせばよいのだが、それも粗方片付き、時間を持て余してしまったとのこと。
その時間を惜しんで、自ずとジンさんの元へと集まって共に訓練をしている……というわけではない。そこまで彼らは殊勝ではなかったようだ。むしろ自由時間が出来てラッキー、と喜んでいたらしい。
では何故ここに居るのかというと、まあジンさんが連れてきたんだよね。
溜まっている仕事を終わらせ、そろそろ暇になっていると見越したジンさんが、無理矢理引っ張ってきたのだ。引きずられるように現れた彼らの表情が、とても暗かったのは記憶に新しい。
現在はランニングを終えて、休憩がてら俺をからかい、もとい会話に参加してきたのだ。
「だから、これはベルのためにと思ってだな」
「ま~。子供のくせに『貴女のために』なんて台詞を言うなんて、ませてるわね」
「いくら強いといっても、余り背伸びをしないほうがいいぞ。子供は子供だ」
「エイナ、マセガキ」
「ジンさん、ランニングの量足りないみたいだから追加した方がいいんじゃない?」
その余裕があるのならまだ走れるだろう。限界まで追い込まないと意味ないぞ。
「いや~女の子のためを思って行動するのは、男の子として当然のことだよね」
「うむ。男たるもの、女性を守るため動くのは本能のようなものだ」
「エイナ、えらい」
「確かにのここまで元気に喋れるんなら、走らせてもええか」
涙ぐましく取り繕った言葉も、ジンさんには届かなかったようだ。天を仰いだり顔を伏せたり、反応は三者三様だが、その心の裡は重なっているのだろう。
「いや、むしろ俺との模擬戦のほうがええか。そのほうがお前らもうれしいだろ?」
この言葉で、心だけでなく行動すらも一致した。より一層濃くなった絶望の表情でジンさんを見ている。ジェロームが小さな声で『来世でまた会おう』と呟いていた。今世を諦めるには早すぎるぞ。
「模擬戦で思い出したんだけど、ねえエイナ」
「何だベル?」
「ジンさんとの模擬戦してみてくれない」
「それは思い出したんじゃなくて、思いついたっていうんだ」
急に何を言い出すんだこやつは。
「だってアンタ前ジンさんが相手でも楽勝って言ってたじゃない」
ソート将軍を助け出した時のことを言っているのだろうが、まったくこいつは。
「言ってない。勝てるとは言ったが、それは全力の全力で挑めばギリギリ勝てる、っていう意味で言ったんだよ。曲解甚だしいぞ」
「でも、勝てるんでしょ?」
「だから、ギリギリって--」
「十分十分。それじゃやるかの」
「--言ってんだ、って、え?」
その言葉に振り返ると、そこにはニヤニヤとした笑みを浮かべるジンさんが。
「俺に勝てるってんなら、別にいいじゃねぇか。ちょっくら闘ろうや」
ジンさんは俺の肩に手を置き、広場の方へと押していく。
「いやジンさん、俺たちはこれから迷宮に--」
「--いいじゃない私たちも見てみたいわ! ねぇアンタたちもそう思うでしょ!?」
「ああその通りだ! 是非ともエイナの実力を見てみたいな!」
「興味津々」
三人組が、俺の断りの文句を封殺するように大声を上げる。これで自分たちの模擬戦の話が掻き消える、そういう魂胆が丸見えの行動だった。子供を嬉々として生贄に奉るとは、さっきの俺に言ったセリフを思い出せお前ら。
かといってこの状況から抜け出すのも難しい。何が一番問題かって、ジンさんが一番乗り気だという点だ。俺と闘うため準備万端のジンさんから逃げ出すことはできないだろう。俺のやる気のなさを察したんだろう、肩から全く手を離そうとしない。
この状況の原因となったベルに非難の視線を向けたが、何を勘違いしたのか、いい笑顔でこちらに拳を突き出し。
「頑張れエイナ!」
などと宣ってくれた。誰一人として俺を助けてくれないようだ。
どうやら逃げるのは諦めるしかないようだ。けど、腹を括ればそう悪い展開ではない、か。
「お? 闘る気ぃなったか坊主?」
「なったなった。だから離してね」
一転して、あっさりと手を離すジンさん。訓練のため放していた武器を取りに行く。自然と距離は開き、
それを維持したまま互いを見据える。
剣を鞘から抜き放ち、感覚を確かめるように振っていく。未だ手に馴染んだとは言い難いが、闘うのに一切の支障はないだろう。
その自分の行動に呼応するかのように、ジンさんが槍を振り回す。その槍捌きには一切のそつが見えない。時には風を纏い、時には振り払い、槍を完璧に操っている。まさに当代随一の使い手。それほど数を知っているわけではないが、前世を含めても、俺が知っている中で一番の槍使いであることに間違いないだろう。
だからこそ、闘う価値がある。
「準備はいいかいジンさん?」
「そりゃこっちのセリフじゃわい」
その様子を見て、ベルが慌てて叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! そのまま闘うの?」
指差す先にあるのは、抜き身の刃。一歩間違えれば命を奪うかもしれない、鋼鉄の死神。
「気にするな。問題ない」
「ま、当然だわな。心配すんな嬢ちゃん」
ならば、間違えなければいいだけの話だ。
「いや、でも……」
「大丈夫大丈夫、あくまで訓練だから。ね?」
「ああ、訓練だかんな。あくまで」
俺たちの様子に、諦めたように引き下がるベル。
そう、抜き身であっても、これは訓練。
試合と死合の線引きが出来る者同士の、模擬戦の始まりだ。