第四十五話
翌朝。
柚里は身体のあちこちが痛くて、そしてなにやら寒くて、いつもの時間よりもちょっと早めに目が覚めました。
それもそのはず、昨日の夜に玄関の先でアキくんが使っていたスリッポンを抱きしめて大泣きして疲れて寝入ってしまったままだったからです。
「……アキくん……」
かすれた声で呼んでみても、その声を受け止めてくれる人はもういません。
柚里の小さな希望の声は、真っ暗な部屋に広がって、そして落ちていきました。
いつもなら柚里がどんなに早く起きてもアキくんはそれよりも前に起きていて、柚里がアキくんに声をかけるよりも早くアキくんは柚里のもとにやってきて「おはよう」と朝から上機嫌で挨拶をすると喜び勇んで柚里の足元を邪魔にならないように気を付けながら飛び跳ねながら楽しい話を聞かせてくれました。
でも、もう、今日からそんなことは、ないのです。
柚里はもう一度手の中のスリッポンをぎゅっと抱きしめました。
そうしたらアキくんとの思い出が逃げていかないように思えたからです。
しばらくそうして涙を流さないようにしていましたが、しばらくのつもりが結構な時間経っていたようで、そろそろ朝の準備をしないと会社に遅刻してしまう時間になってしまいました。
柚里は愛しむようにそっとスリッポンをもとの位置に戻しました。
そして名残惜しそうにスリッポンをそっと触ると、そこからは考えることなくシャワーを浴びて朝のルーチンをこなして、そして会社に向かいました。
その日の夜。
いつもなら少しは残業があるはずなのにその日に限って会社の同僚から「残業なんていいから帰りなさい」とまるでお母さんが子供を心配するように言われて、定時になったとたん周りのみんなから帰れコールを受けてしまい、いつも以上に早く家に戻ってきてしまった柚里は、誰も待っていない家の扉を開けようとして立ちすくんでいました。
この扉を開けても、玄関の先でちょこんと待っているアキくんを見ることはないんだな。
そう思うとなかなか扉を開けることができません。
アキくんを失うということがこんなに厳しいものだっただなんて、一人の時には全く思いもしませんでした。
しばらく扉の取っ手を握りしめていた柚里ですが、ちらちらとご近所さんが怪しげに覗くものですからいたたまれなくなって、えいやっと扉を開けて目をつぶって部屋に入りました。
そして扉をがちゃんと閉めて恐る恐る目を開けると、やっぱりそこにはアキくんのいないさびしい部屋が柚里の帰りを待っていました。
……アキくん、いないんだ。
昨日の今日では慣れるなんてことはなくて、柚里は呆然と玄関に佇んでいました。
すると、耳障りな携帯電話の着信音が異様に大きく鳴り響きました。
現実に戻された柚里は急いで鞄の中をまさぐって携帯電話を取り出して画面表示を確認してみればそれは昨日無理やり帰ってもらった樹からの電話でした。
「もしもし」
『柚里。いったいどういうことなのか、教えてくれないか』
「……え?何がですか?」
『どうしてアキエテラヴォリ王子がフィーヨルに戻っているんだ?昨日あれからいったい何があってそうなったんだ』
どういう情報網化はわかりませんが、樹はアキくんがすでにフィーヨルに戻っていることを知っていました。
そしてそれがどうしてか柚里に回答を求めてきているのです。
そんなことを言ったって。
私だって急すぎて、何が何やらわかんないよ。
喪失感が強すぎて、それを自分のせいだと責められているようで、ぼろぼろと涙がこぼれてきてしまいます。
そしてそれは電話をつたって樹の耳元に届きました。
樹は柚里を責めていっているわけではないのですが、昨日の今日のことでアキエテラヴォリ王子が柚里のもとを離れるなんて考えてもいなかったことなので、どうしてそうなったのか知りたかったのです。
そのせいか思ってもいない強い口調で言ってしまったのは失敗ですが。
「私……私だって、私だって知りたいです」
『すまん、柚里。責めているつもりはなかったんだが……。泣かないでくれないか』
樹が急に優しい声なんて出すものですから、余計につらくなってしまって言葉が詰まってうまくでてくれません。
そんなつもりがなくっても、勝手にえぐえぐとなってしまいます。
『柚里。今から迎えに行くから、ちょっと出かけようか』
「ふぇ?」
『……別に昨日の続きをしようっていうわけではないから、安心をして。王子に関しては俺以外に誰もしゃべる相手がいないだろう?少し二人で話そうか』
いたわりが籠った優し声で、樹はそう、柚里を誘いました。
もちろん下心なんてありません。
あんまりにも柚里が儚げで、このまま泣いて一日を過ごしていそうな気がして、それが樹にはとてもつらく感じたからです。
「……ありがとう……ございます。でも、大丈夫ですから」
『大丈夫そうにはとうてい思えないが』
「大丈夫です。まだ大丈夫です。でももしものときはお願いします」
『分かった。もし何かあったら何時でもいいから、この電話番号に掛けてくれ』
柚里は真っ赤になった鼻をすすりながら、うんうんと携帯電話に頷いていました。




