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燐の硫黄  作者: 虹藤時雨
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第八話 久遠の怨念

地下空間が震えていた。

石壁の亀裂は広がり続けている。

そこから漏れ出す光は白くも黒くも見える。

眺めるたびに色が変わる。

まるで見る者によって姿を変えているかのようだった。

和悠は思わず一歩後ろへ下がる。

彼の本能が警告している。

あれは危険だと。

「来るよ」

硫破が静かに言った。

先ほどまでの軽い雰囲気はない。

黒髪を揺らしながら石壁を見つめている。

悠生も刀を構えた。

燐は拳を握る。

悠景はまだ完全には回復していない。

それでも祭壇の近くで立っていた。

ゴゴゴゴ……

石壁が揺れる。

大きな亀裂が走る。

そして、

ついに崩れた。

轟音とともに大量の石が崩れ落ちる。

土煙が舞う。

視界が白く染まった。

数秒後、

煙が晴れ、和悠は目を見開いた。

そこには巨大な空間があった。

地下神殿のさらに奥に隠されていた空間。

その中心にあるものを見て全員が言葉を失った。

無数の名前。

壁一面に刻まれていた。

数え切れないほど。

何百……

いや、

何千……

それ以上かもしれない。

燐が呟く。

「何だ……これ」

硫破が答えた。

「名前だよ」

静かな声だった。

だが、

どこか悲しそうだった。

「名前?」

和悠が近付く。

刻まれている文字を読む。

その瞬間。

息が止まりそうになった。


神影成悠

虹空春悠

武蔵宗悠

岩倉千悠

刻印明悠


全て、

後ろに悠が付いている。

和悠の背筋が凍る。

理解した。

これが何なのかを。

「まさか……」

悠生も顔を強張らせる。

硫破はゆっくり頷いた。

「久遠の悠久」

その言葉が地下空間に響く。

「その制度で死んだ者たちだ」

誰も声を出せなかった。

何百年、

何千年、

その間に処分された人々。

その名前がここに刻まれている。

和悠は拳を握る。

爪が食い込む。

痛みすら感じない。

「どうして」

掠れた声が漏れる。

「どうしてこんなものが」

硫破は石壁を見つめた。

「忘れられないため」

その答えは意外だった。

「本来はね」

硫破は続ける。

「誰かが死んだら記録するだけだったそうだ」

「それだけ?」

「うん」

「せめて覚えておこうって」

静かな声だった。

「誰が作ったんですか」

燐が尋ねる。

硫破は少しだけ笑う。

「制度が始まった当時の刻印家当主だよ」

和悠が驚く。

刻印家。

自分の祖先。

「彼は怒ったんだ」

硫破は壁を見つめる。

「制度が始まった時」

「これからたくさん死ぬって」

「だからせめて名前だけは残そうとした」

その時だった。

パキッ。

奇妙な音が響く。

全員が振り返る。

名前の刻まれた壁。

その一角に亀裂が走っていた。

パキッ。

パキッ。

パキッ。

次々に広がる。

まるで中から何かが押しているようだった。

悠生が刀を構える。

「離れろ!」

次の瞬間。

壁が砕け散った。

無数の光が飛び出す。

白い光

黒い光

青い光

赤い光

様々な色をした光の塊。

それらは空中で止まる。

ゆっくりと形を持ち始める。

腕、足、顔、身体…

人だった。

いや、

人だったもの。

和悠は息を呑む。

そこにいたのは。

少年、

少女、

青年、

老人、

様々な姿。

「そんな……」

燐の声が震える。

光の人影たちは何も言わない。

ただこちらを見ているだけだ。

硫破は静かに目を閉じた。

そして呟く。

「ごめん」

その一言だった。

和悠は思わず振り返る。

硫破の表情は苦しそうだった。

「封じていたんだ」

小さな声。

「ずっと」

誰も言葉を返せない。

「彼らは死んだ」

「理不尽に」

「意味もなく」

「勝手な制度のために」

硫破は拳を握る。

「だからせめて」

「安らかに眠れるようにしていた」

しかし、

もう限界だった。

何百年もの

”怨み”

”悲しみ”

”怒り”

”絶望”

それらは積み重なり続けた。

そして今、

解き放たれた。

最初の人影が口を開く。

声は震えていた。

「どうして」

次の人影。

「生きたかった」

また別の人影。

「僕は何もしてない」

さらに。

「姉上……」

「助けて……」

「嫌だ……」

「死にたくない……」

無数の声。

無数の悲鳴。

無数の絶望。

地下空間が埋め尽くされる。

和悠は立ち尽くした。

戦う相手じゃない。

敵でもない。

被害者だ。

何百年も積み重なった。

硫黄村最大の被害者たち。

その時、

一人の少年の怨念が和悠を見た。

年齢は十歳ほど。

そして、震える声で言った。

「ねぇ」

和悠の心臓が止まりそうになる。

「僕が何をしたの?」

答えられなかった。

誰にも答えられなかった。

地下空間に静寂が落ちる。

地下を埋め尽くす無数の人影は、誰も武器を持っていない、

誰も襲いかかってこない。

それでも、

和悠は今まで感じたことのない恐ろしさを覚えていた。

「僕が何をしたの?」

少年の怨念はそう言った。

その問いに答えられる者はいない。

和悠も、燐も、悠生も、

少年だけではなかった。

周囲の怨念たちも口を開き始める。

「どうして処分されたの?」

「兄上は生きているのに」

「私は何もしていない」

「当主になりたかったわけじゃない」

「生まれただけなのに」

悲鳴ではない。

怒号でもない。

ただの疑問だった。

だからこそ重かった。

和悠は視線を落とした。

拳を握る。

答えがない。

いや、答えはある。

『制度だから』

だが、それは答えにならない。

そんな理由で命を奪われていいはずがない。

その時だった。

一人の怨念が膝をついた。

青年だった。

二十歳くらいに見える。

「嫌だ……」

震える声。

「まだ死にたくなかった……」

その身体から黒い靄が溢れ始める。

硫破の表情が変わった。

「まずい」

悠生が振り返る。

「何だ」

「感情が崩れ始めてる」

硫破はすぐに前へ出る。

「みんな落ち着いて」

怨念たちへ呼びかける。

「君たちはもう死んでいる」

誰かが叫ぶ。

「知ってる!」

その声に地下空間が震えた。

黒い靄が広がる。

「だから何だ!」

別の怨念も叫ぶ。

「忘れられた!」

「誰も覚えてない!」

「名前しか残ってない!」

感情が爆発する。

何百年。

何千年。

積み重なった絶望。

それが今になって溢れ出していた。

硫破は目を閉じる。

苦しそうだった。

「ごめん」

小さく呟く。

「僕がもっと早く来るべきだった」

和悠は初めて気付いた。

硫破は怨念を封印していたわけではない。

守っていたのだ。

長い年月。

忘れられた者たちが完全に壊れてしまわないように。

一人でずっと。

でも、限界が来た。


その時、

最初の少年が和悠へ近付く。

十歳ほどの姿。

和悠より遥か昔に死んだ少年。

少年は涙を流していた。

「ねぇ」

和悠を見上げる。

「僕の名前」

和悠は息を呑む。

少年が続ける。

「覚えてる?」

その言葉で全てを理解した。

彼らは復讐したいわけではない。

認めてほしいのだ。

存在したことを、生きていたことを、忘れられたくなかった。

ただそれだけ。

和悠はゆっくり少年の前にしゃがむ。

壁を見る。

刻まれた名前を探す。

そして見つけた。

「神影春悠」

少年の目が揺れる。

「君の名前だ」

少年は固まった。

和悠は続ける。

「ここに残ってる」

「消えてない」

「忘れられてない」

少年の涙が溢れる。

それは悲しみの涙ではなかった。

長い長い年月の中で、誰にも呼ばれなかった名前。

その名前をようやく呼ばれたのだ。

その瞬間、少年の身体が光り始めた。

優しい光だった。

小さな声で

「……ありがとう」


そして、

少年は消えた。

いや、

消えたのではない。

空へ還っていった。

天国へ行ったのだ。

硫破が目を見開く。

「そうか」

驚いたような顔。

「そういうことだったのか」

和悠は振り返る。

「何がですか」

硫破は少し笑った。

「僕は間違えてた」

「え?」

「封じることばかり考えていた」

黒髪を揺らしながら怨念たちを見る。

「でも彼らが欲しかったのは違った」

静かな声で

「記憶だったんだ」

名前、存在、生きた証……

それだけだった。

和悠は立ち上がり、壁へ向かう。

「燐!」

「了解」

「名前を読む」

燐はすぐ理解した。

「悠生さんも!」

悠生は頷く。

「分かった」

悠景も壁へ向かう。

四人は名前を読み始めた。

神影春悠

武蔵悠真

岩倉秋悠

虹空美悠

刻印宗悠

一人、また一人と、名前を呼ばれるたびに光が生まれる。

怨念たちは涙を流しながら消えていく。

いや、救われていく。

地下空間が少しずつ明るくなっていく。

硫破はそれを見ながら静かに笑った。

何百年も、何千年も、解決できなかった問題……

それを解いたのは神ではなかった。

一人の少年だった。

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