第九話 時の継承
名前を呼び続ける和悠の耳に、
不意に、別の声が聞こえた。
誰が読んだでもない名前を、誰も知らない声で。
だが、
その声ははっきりと告げた。
「刻印時継」
和悠の動きが止まる。
次の瞬間、地下空間が白い光に包まれた。
硫破が目を見開く。
「時継!?」
彼は珍しく驚く。
和悠の身体が光に飲み込まれる。
視界が白く染まる。
そして、
和悠の意識が遠のいていった。
和悠はゆっくりと目を開く。
目の前は、白だった。
どこまでも、果てしない。
白の世界。
空も、地面もなく、上も下もわからない。
ただ白だけが広がっていた。
「ここは……」
和悠の声が響く。
しかし、何も返事はない。
ついさっきまで、神社の地下にいたはずだった。
怨念たち、燐、悠景、悠生、硫破…
そのときまで確かに存在していたはずの人達が、誰もいない。
和悠は歩き出す。
といっても、本当に歩いているのかはわからない。
周りがすべて白いため、景色の変化もまったくないためだ。
だが体は、確かに進んでいる感覚があった。
どれほど進んだのか。
時間の感覚すら曖昧に感じた。
たったの数分かもしれない。
何日もたったかもしれない。
そんな不思議な感覚を覚えていると、
そのとき、前方に人影が現れた。
全面白い世界の中で、一人だけ色を持っている。
黒い髪、長い外套、穏やかな顔立ち、年齢は30代ほどに見える。
その人物は、古びた本を読んでいた。
和悠が立ち止まると、その人物は本を閉じる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「やっと来たか」
優しい声だった。
「和悠」
和悠はその言葉に目を見開いた。
「僕の名前を知っているんですか?」
男は笑った。
「当然だ」
「君は僕の子孫だからな」
”子孫”
和悠はその一言で全てを理解した。
「まさか⋯⋯」
男は頷く。
「初代刻印家当主」
静かな声で、
「刻印時継だ」
白い世界が一層静まり返る。
和悠は言葉を失った。
何百年も前の人物……
いや、もしかしたら千年以上前かもしれない。
そんな人物が、今、目の前にいる。
「死んでいるんですよね?」
思わずそんな質問が出た。
時継は苦笑いする。
「一応な」
「一応?」
「正確には”記録”だ」
「刻印家の能力は知っているな?」
和悠は頷く。
”書物閲覧”
刻印家当主だけが使うことのできる能力。
膨大な知識を自由に閲覧することのできる能力。
時継は続ける。
「だが、それだけではない」
「それだけじゃない?」
「書物を読む能力だけではない」
時継は笑った。
「書物閲覧」
「刻印」
「の二つの能力によって、記録を継ぐ能力だ」
その瞬間、白い空間が揺れた。
そして、無数の文字が現れる。
本、巻物、石板、紙、
ありとあらゆる記録が空間を埋め尽くす。
和悠は息を呑む。
世界そのものが図書館になったようだ。
時継が手を広げる。
「これが、刻印家の本来の能力」
「”時の継承”だ」
その言葉が響いた瞬間、世界が変わり、白が消える。
代わりに現れたのは村だった。
だが今の硫黄村ではない。
建物が違い、人々の服装も違う。
何より、五大名家の旗が存在しない。
「これは……」
時継は村を見つめる。
その表情は少し寂しそうだった。
「始まりだ」
「硫黄村の」
「そして、全ての間違いの始まりでもある」
和悠の前に、遥か昔の景色が広がる。
そこには、老人と、硫破の姿があった。
その二人は、並んで村を見下ろしていた。
まるで、全ての始まりを見守る創造主のように……
今起きていることではないはずなのに、風を感じる。
和悠の目の前に広がるのは、遥か昔の硫黄村。
まだ五大名家も、悠の制度も存在しない。
まだ神々が村人たちと普通に話していた時代。
「これが始まり……」
和悠が呟く。
隣に立つ時継が静かに頷いた。
「そうだ」
「そして、君たちが知っている歴史とは少し違う」
視界が動く。
まるで空から見下ろしているようだった。
村の中心には、一人の老人が座っている。
いや、老人ではない。
老人と言うには見た目は若い。
だがその身体からは、どこか衰えた気配が漂っていた。
後に硫黄神と呼ばれる存在だろう。
彼は村人たちに囲まれていた。
子供たちが笑う。
大人たちが頭を下げる。
硫黄神も笑っていた。
「意外だろう?」
時継が言う。
「君たちが聞いている硫黄神とは随分違う」
和悠は頷く。
もっと威厳のある存在だと思っていた。
だが実際は違う。
優しく、穏やかな人……
そんな印象だった。
そして、
少し離れた丘の上。
そこには黒髪の青年がいた。
硫破、
今とほとんど変わらない。
相変わらず気の抜けた顔をしている。
「本当に変わらないな……」
和悠が思わず呟く。
時継が吹き出した。
「私も同じことを思った」
硫破は村を眺めている。
何かを見守るように、何かを確認するように。
そして、サルファロスの方を見る。
『問題はないかい?』
サルファロスが尋ねる。
『今のところは』
硫破が答える。
『ならいい』
それだけだった。
和悠は目を瞬く。
「仲悪くないじゃないですか」
時継は笑った。
「悪くない」
和悠は納得する。
確かに、本当に憎み合っていたならば、
硫破はサルファロスを生かさなかったはずだ。
天下り先の村を作ることもしなかった。
時継は続ける。
「人はよく勘違いする」
「戦った者同士は敵だと」
「だがそうとは限らない」
その言葉は妙に重かった。
視界が再び変わる。
時間が流れていく。
十年、五十年、百年と……
少しずつ村が大きくなっていく。
そしてある日、最初の変化が起きた。
村人たちがサルファロスへ跪く。
『硫黄神様』
そう呼び始めた。
彼は困った顔をしている。
『やめろ』
『私は神ではない』
『ただの老人だ』
しかし、村人たちは聞かなかった。
『硫黄神様』
『我らを導いてください』
『我らを守ってください』
何度も、何度も。
時継が目を閉じる。
「ここからだ」
和悠は息を呑む。
「歪みの始まりは」
硫黄神自身ではなかった。
村人たちだった。
神を求めた。
導きを求めた。
権威を求めた。
その結果。
神の言葉が法律になった。
神の考えが正義になった。
そして、神の周囲に権力が集まり始めた。
視界がさらに進む。
虹空家・武蔵家・岩倉家・神影家・刻印家
村を支える五つの家が生まれ、それぞれが役割を持つ。
それぞれが村を守る。
本来はそれだけだった。
だが、
また時が流れる。
そして、
一人の男が現れる。
豪華な服。
鋭い目。
堂々とした態度。
男はサルファロスの前で跪く。
『村の未来のためです』
そう言った。
時継の顔が曇る。
和悠は気付く。
この男が原因なのだと。
男は続ける。
『後継者を確実にする制度が必要です』
『村の秩序を守るため』
『神の御意思を継ぐため』
その言葉に、
当時の刻印家当主が反論する。
『そんなもの必要ない』
『人の命を軽んじるな』
だが、
聞き入れられなかった。
村は発展し、人口も増えていた。
権力も増えていた。
その中で、人々は安定を求めた。
そして、いつしか悠の制度が生まれた。
和悠は拳を握る。
これが始まりだった。
数え切れない命を奪った制度。
久遠の悠久、その誕生の瞬間。
だが、
和悠はある違和感を覚えた。
「待ってください」
時継を見る。
「今の男……」
見覚えがあった。
いや、正確には似ていた、が正しい。
誰かに……
時継も頷く。
「気付いたか」
その表情は重い。
そしてゆっくりと言った。
「彼が硫門家の愚かなる当主だ」
和悠の目が見開かれる。
「そして」
時継は空を見上げた。
「全ての真実は、まだ始まったばかりだ」
その瞬間、景色が再び揺らぐ。
次に映し出されるのは虹空家の旗だった。




