第四話 神影家の当主
和悠は、自分の鼓動がうるさいと思うほど聞こえていた。
そのとき、刻印家の蔵の前では、夜風が吹いていた。
だが、和悠はその夜風の音も聞こえていなかった。
神影悠生が目の前に立っている。
その背後には、黒い装束を着た人物がいた。
月明かりに照らされた刀身は黒曜石のように光っていた。
誰も動かない。
ほんの一瞬、時間が止まったようだった。
しかし、次の瞬間に均衡が破られた。
黒装束の人物が足を踏み入れる。
一切迷いのない動きだった。
狙いは…
和悠。
そう直感した。
だが、その前に悠生が動く。
地面を蹴る音すら聞こえない。
悠生は黒い装束を掴むと、その勢いを利用し、その人物の身体は宙に舞っていた。
激しい音と共に床へ叩きつけられると、刀が手から離れる。
燐は息を呑み、和悠も目を見開いた。
神影家の人間が武術に優れていることは知っていた。
だが、これほどとは思わなかった。
侵入者はすぐに起き上がった。
まるで痛みを感じていないような動きだった。
そして足元の影へ沈むように姿を消した。
和悠は思わず叫ぶ。
「消えた!?」
燐も周囲を見回す。
どこにもいない。
蔵の中
窓
見渡す限りどこにもいない。
どこにも。
だが悠生は違った。
「そこか」
短く呟き、後ろを見る。
蔵の外。
月明かりの下には、黒装束の人物が立っていた。
いつの間にか移動していた。
先程見たときにはいなかったのに。
まるで、影から影へと移動したようにしか見えなかった。
その人物は腰から小刀を引き抜き、再び刀を構える。
今度の標的は悠生だった。
だが、悠生も一歩も退かない。
彼もまた、刀を鞘から抜く。
一歩踏み込む。
そして、刺した。
あまりにも速い動きだった。
侵入者の腹部に深々と刀が刺さる。
黒装束が大きく揺れた。
鮮血が飛び散る。
月光の下で、その鮮血は異様な赤さを見せていた。
侵入者はすぐに後退する。
ふらついている。
致命傷に見えた。
しかし、それでも倒れない。
影の中へと後ずさる。
そして、消えた。
完全に
跡形もなく
その場に残ったのは血痕だけだった。
悠生も深追いはしない。
静寂が訪れる。
燐は口を開いて喋ろうとした。
だが、それよりも早く悠生が言った。
「帰れ」
ただ、それだけだった。
説明はない。
だが、質問を許してくれる雰囲気ではなかった。
和悠と燐は顔を合わせる。
結局、何も聞けないまま蔵を後にした。
帰り道、二人は何も話さなかった。
頭の中をうまく整理できなかったからだ。
今日、起きたことの情報量が多すぎた。
影へ消えた人物
神影家の術
悠景の記録
処分予定の文字
何もかもが、彼らの理解を超えていた。
和悠は眠れなかった。
布団に入ってもなかなか眠りにつけない。
翌日の朝、
村全体が騒がしくなった。
和悠は異変に気づく。
外から、人々のざわめく声が聞こえる。
普段の朝とは明らかに違う。
急いで家を出ると、
村人たちが噴水広場の方向へと向かっていた。
その誰もが深刻な表情を浮かべていた。
不安が、和悠の胸を締め付ける。
和悠も広場へ向かった。
そこには、大勢の人々が集まっていた。
燐の姿もある。
和悠を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
「聞いたか」
「まだ」
燐は一瞬黙る。
そして小さく言った。
「神影悠則様がお亡くなりになられた」
和悠の思考が止まる。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
だが、燐の表情は真剣だった。
とても冗談で言っているようには見えない。
広場の中央では神影家の者たちが話をしている。
喪服姿の人もいるように見える。
村人たちのざわめきは止まらない。
神影悠則
神影家当主
そんな人物が死亡したのだ。ただ事ではあるまい。
やがて、神影家の重臣らしき老人が前に出ると、広場が静まり返った。
老人は深く頭を下げる。
「皆様にお伝えしなければならないことがあります」
重い声だった。
「神影家当主、神影悠則様は昨夜、何者かによって命を奪われました」
ざわめきが起こる。
老人は続けた。
「腹部を鋭利な刃物で刺されていたとのことです」
和悠と燐は同時に息を呑んだ。
”腹部”
”昨夜”
刺された人物も腹部だった。
偶然なのか
それとも……
嫌な考えが頭をよぎる。
老人はさらに話を続ける。
「これにより、神影家の継承順位一位、神影悠生様が次代当主となります」
村人たちは顔を見合わせる。
動揺が広がっていた。
当主の死去。
そして、急な継承。
村にとっては大事件だった。
「継承の儀は次の新月の日。硫黄神社にて執り行われます」
老人はそう告げて頭を下げた。
話は終わった。
だが広場の空気は重いままだった。
和悠は燐を見る。
燐もこちらを見ている。
考えていることは同じだった。
昨夜の襲撃者と神影悠則。
この二つが繋がっているのではないか。
そんな疑念。
しかし証拠はない。
ただの想像かもしれない。
その時だった。
広場の奥が静かになった。
人々が道を開く。
誰かが来る。
和悠は視線を向けた。
そこにいたのは神影悠生だった。
黒い喪服を着ている。
表情は静かだった。
父を亡くしたばかりとは思えないほどに。
むしろ静かすぎる。
村人たちは頭を下げる。
悠生も小さく会釈した。
だが和悠の目は別のものを捉えていた。
悠生の袖口。
ほんのわずかだが。
茶色く変色した染みが残っている。
血だった。
洗い切れなかった血痕。
昨夜のものなのか。
それとも別のものなのか。
和悠には分からない。
ただ、
悠生が広場を横切る瞬間。
一瞬だけこちらを見た。
そして、
ほんのわずかに目を細めた。
まるで、
「余計なことは考えるな」
そう言っているように見えた。
和悠の背筋に冷たいものが走る。
神影家の死
昨夜の襲撃
継承の儀
そして兄、悠景。
すべてが少しずつ繋がり始めていた。
だが真実はまだ見えない。
そしてその真実は。
思っているよりずっと近くまで迫っていた。
神影悠生が広場を去った後も、村人たちのざわめきは収まらなかった。
当主の急死に伴う継承の儀。
硫黄村では何十年に一度あるかないかの大事件だ。
しかし和悠の頭にあるのは別のことだった。
昨夜の襲撃者。
そして神影悠則。
本当に同一人物なのか。
もしそうなら、なぜ神影家の当主が夜中に黒装束を着ていたのか。
なぜ和悠を狙ったのか。
分からないことだらけだった。
「整理しよう」
燐が言った。
二人は人目を避けて川辺へ向かう。
いつもの場所だった。
岩に腰を下ろす。
川の流れる音が静かに響いている。
「まず確認だ」
燐は小枝を拾い、地面に文字を書き始めた。
昨夜
黒装束
腹部を刺される
その横に、
今朝
悠則死亡
腹部を刺傷
と書く。
「似すぎてる」
燐が呟く。
和悠も頷いた。
偶然とは思えない。
だが決定的な証拠もない。
「それに」
燐が続ける。
「妙なんだ」
「何が?」
「遺体を見た人がいない」
和悠は顔を上げた。
「どういうことだ?」
「広場で聞いてた」
燐は周囲を確認する。
誰もいない。
さらに声を落とした。
「発見したのは神影家の人間だけ」
「それは普通じゃないか?」
「普通じゃない」
燐は首を振った。
「村の名家の当主が亡くなったら、本来は複数の家が確認する」
和悠は少し考える。
確かにそうだ。
五大名家は互いを監視し合っている。
特に当主の死など重大事項ならなおさら。
「でも今回は」
燐が言う。
「神影家が『亡くなりました』って言っただけ」
「……」
「遺体を見たって話が一つも出てこない」
和悠は黙り込んだ。
言われてみればおかしい。
非常におかしい。
「じゃあ」
「うん」
燐も同じ結論に辿り着いていた。
「本当に死んだのか?」
川の音だけが聞こえる。
ありえない話ではない。
神影家なら偽装もできるかもしれない。
だが、
そこまでして何を隠すのか。
何のために。
その日の午後、
和悠は一人で村を歩いていた。
考えを整理したかった。
噴水広場。
市場。
神社へ続く石段。
どこへ行っても人々は同じ話をしている。
神影悠則。
継承の儀。
神影悠生。
誰もがその話題ばかりだった。
ふと。
和悠は足を止める。
視線の先。
石段の途中に一人の人物がいた。
神影悠生だった。
黒い服のまま。
一人で神社を見上げている。
和悠は少し迷った。
だが結局、近付く。
「悠生さん」
悠生が振り向いた。
昨日と変わらない顔。
疲れているようには見えない。
父を亡くしたばかりとは思えないほど。
「和悠か」
静かな声だった。
「少し時間あるか」
和悠は驚く。
向こうから話しかけてくるとは思わなかった。
「あります」
「なら来い」
それだけ言って歩き出す。
和悠も後を追った。
辿り着いたのは神社裏の森だった。
例の石碑から少し離れた場所。
人の気配はない。
悠生は立ち止まる。
そして振り返った。
「聞きたいことがある」
「何ですか」
悠生は数秒黙る。
まるで言葉を選んでいるようだった。
やがて口を開く。
「お前は兄についてどれだけ知っている」
和悠の心臓が跳ねた。
兄。
悠景。
あの名前だ。
「兄さん?」
「そうだ」
「病気で亡くなったって……」
そこまで言って言葉が止まる。
今の自分は知っている。
記録には。
生存確認。
そう書かれていた。
悠生は和悠の表情を見て小さく息を吐く。
「やはり見たか」
「……」
否定できなかった。
「兄さんは生きてるんですか」
真っ直ぐ聞く。
悠生は答えない。
代わりに空を見上げた。
木々の隙間から青空が見える。
「お前は不思議に思わなかったか」
「何を」
「兄の死を」
和悠は眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
「悠景は優秀だった」
悠生は言う。
「非常に優秀だった」
それは和悠も覚えている。
兄は誰からも期待されていた。
頭も良かった。
人望もあった。
刻印家の跡継ぎとして完璧だった。
「だからこそ変だった」
悠生の目が細くなる。
「なぜ急に消えたと思う」
和悠の背筋が冷たくなる。
消えた。
亡くなったのではなく、””消えた””。
悠生はそう言った。
「何を知ってるんですか」
思わず声が強くなる。
悠生は和悠を見る。
その目には迷いがあった。
言うべきか。
言わないべきか。
そんな迷い。
やがて。
静かに口を開く。
「お前の兄は死んでいない」
和悠の思考が止まる。
風が吹く。
森が揺れる。
しかし耳には何も入ってこない。
今の一言だけが頭の中で反響していた。
死んでいない。
死んでいない。
死んでいない。
「どこにいるんですか」
震える声で尋ねる。
だが悠生は首を振った。
「それは知らない」
「嘘だ」
「本当だ」
「じゃあどうして」
和悠が言いかけた時だった。
悠生が一歩近づく。
そして低い声で言った。
「新月の日までに答えを見つけろ」
和悠は固まる。
「え?」
「時間がない」
「何の」
「全部だ」
意味が分からない。
だが悠生の表情は真剣だった。
冗談ではない。
脅しでもない。
警告。
それもかなり切迫したものだ。
「新月の日」
悠生は神社の方を見る。
「その日、全てが動く」
和悠の喉が鳴る。
「何が起きるんですか」
悠生は答えない。
ただ一言だけ残した。
「見つけられなければ」
そして、
和悠を真っ直ぐ見た。
「お前も死ぬ」
その言葉に嘘はなかった。
脅迫でもない。
ただ、確信だった。
悠生はそれ以上何も言わなかった。
そのまま森の奥へ歩いていく。
和悠は追えなかった。
足が動かなかった。
兄は生きている。
新月の日に何かが起きる。
答えを見つけなければ死ぬ。
頭の中が混乱している。
しかし一つだけ確かなことがあった。
今までの謎は全て繋がっている。
悠景。
神影家。
継承の儀。
硫黄神社。
そして、
硫黄村そのもの。
夕暮れ。
和悠が帰路につこうとした時だった。
森の奥から微かな音が聞こえた。
カラン。
金属が転がるような音。
和悠は反射的に振り向く。
誰もいない。
しかし、草むらの中に何かが落ちていた。
近付き、拾い上げる。
それは小さな金属片だった。
血が付着している。
乾きかけた血。
そして裏面には、
見覚えのある紋章が刻まれていた。
神影家の紋章ではない。
刻印家でもない。
硫門家でもない。
その紋章を見た瞬間。
和悠は息を呑んだ。
神社裏の石碑で見た。
消された文字の横に刻まれていたものだった。
二柱の神、
そのうちの一柱を示す紋章。
存在しないはずの神の印。
和悠はそれを強く握りしめた。
新月まで、あと六日……
そして真実は、
思っていたよりもずっと近くにあった。
第四話 神影家の当主はいかがでしたか?
少しずつ真相へと近づいていくような…
そんな感覚を書いていて感じます




