第三話 刻印家の蔵
夜。
硫黄村は静まり返っていた。
昼間は人で賑わう広場も、今は月明かりに照らされるだけだ。
虫の声。
木々を揺らす風。
遠くで聞こえる川の音。
それ以外は何もない。
和悠は布団の中で目を開いていた。
眠れるはずがなかった。
神影悠生の言葉が頭から離れない。
「今夜は家から出るな」
「まだ生きたいなら」
普通なら従うべきだろう。
危険を知る人物が警告してくれたのだから。
でも、
だからこそ気になった。
なぜ危険なのか。
なぜ自分なのか。
なぜ満月なのか。
分からないことだらけだった。
和悠はゆっくり起き上がる。
音を立てないように戸を開ける。
廊下は暗い。
家族はもう寝ている。
そのまま外へ出た。
冷たい夜風が頬を撫でる。
「遅い」
聞き慣れた声。
燐だった。
刻印家の裏手。
大きな樫の木の陰で待っている。
「来ると思わなかった」
和悠が言う。
「お前こそ」
燐は肩をすくめた。
「やめる理由がない」
その言葉に和悠は苦笑する。
確かにそうだった。
ここまで来て引き返せない。
二人は屋敷の裏へ回った。
刻印家の蔵は母屋から少し離れた場所に建っている。
古い木造。
窓は小さい。
代々の記録を保管するための建物だ。
「鍵は?」
燐が聞く。
「たぶん掛かってる」
「だろうな」
「でも」
和悠は懐から小さな鍵を取り出した。
燐の目が丸くなる。
「持ってるのか」
「父上の部屋から借りた」
「借りた?」
「……たぶん怒られる」
燐が吹き出した。
「たぶんじゃない」
鍵穴に差し込む。
ゆっくり回す。
カチリ。
音がした。
開いた。
和悠は思わず息を吐く。
緊張していたらしい。
二人は中へ入った。
蔵の中は暗かった。
燐が小さな灯りを取り出す。
柔らかな光が広がる。
棚。
木箱。
巻物。
冊子。
膨大な記録。
刻印家が何代にもわたって集めてきた歴史。
「すごいな……」
燐が呟く。
和悠も同感だった。
こんな場所に来たのは初めてだ。
父でさえ滅多に入らない。
二人は手分けして調べ始めた。
時間は限られている。
見つかれば終わりだ。
30分ほど経った頃。
燐が小声で呼んだ。
「和悠」
「何かあった?」
「これ」
古びた帳簿を差し出す。
表紙には文字が書かれていた。
【継承記録】
和悠は息を呑む。
探していたものかもしれない。
慎重に開く。
最初のページには名前が並んでいた。
岩倉家
武蔵家
虹空家
神影家
刻印家
そして硫門家
各家の当主の名前。
その横に継承年。
一見すると普通の記録だった。
だが、
数ページ進んだところで違和感が現れた。
岩倉悠成
継承
岩倉景悠
死亡
和悠の表情が変わる。
まただ。
また同じ形式。
さらにページをめくる。
虹空悠隆
継承
虹空朝悠
死亡
武蔵悠則
継承
武蔵義悠
死亡
全部同じだった。
何代も、何十代も…
繰り返し、繰り返し、繰り返し…
燐が低く言う。
「偶然じゃない」
「うん」
「悠から始まる者が死ぬ」
「そのあと、悠で終わる者が継ぐ」
和悠の喉が渇く。
頭の中で最悪の可能性が形になり始めていた。
ーーもし
ーーもし本当にそうなら。
「僕も……」
言葉が止まる。
燐は続きを言わなかった。
言えなかった。
二人とも同じ結論に辿り着いていたからだ。
その時、
棚の奥から何かが落ちた。
バサリ、
突然の音。
二人は飛び上がる。
静寂、
誰もいない。
風もない。
なのに。
一冊の本だけが床に落ちていた。
「……見ろ」
燐が言う。
和悠は近付いた。
本を拾う。
埃だらけだ。
表紙には題名がない。
ただ。
裏表紙に小さな文字が刻まれていた。
【閲覧禁止】
二人は顔を見合わせた。
怪しすぎる。
「開くか」
燐が聞く。
和悠は少し迷った。
嫌な予感がする。
かなりする。
それでも。
ここで閉じたら何も分からない。
「開こう」
和悠は本を開いた。
そして、
最初のページを見た瞬間。
全身の血が凍った。
そこには。
自分の名前が書かれていた。
【刻印和悠】
さらにその下。
まだ新しい文字で、
こう続いていた。
【処分予定】
和悠の呼吸が止まった。
灯りが揺れる。
紙の上の文字も揺れる。
でも、
何度見ても変わらない。
そこに書かれているのは間違いなく自分の名前だった。
「……は?」
燐が先に声を出した。
震えている。
和悠も似たようなものだった。
頭が真っ白になる。
意味が分からない。
分かりたくない。
処分予定…
人間に使う言葉じゃない。
家畜でもない。
物でもない。
人に向ける言葉ではない。
和悠は震える手で次の行を読む。
【次回新月】
その下には何も書かれていない。
空白。
ただそれだけ。
だが十分だった。
昨日の紙。
悠生の言葉。
全部繋がる。
「新月……」
燐が呟く。
「次の新月って」
「僕のことだ」
和悠の声は驚くほど冷静だった。
怖すぎると逆に感情が消える。
そんな感覚だった。
ページをめくる。
さらに先。
そこには過去の記録が並んでいた。
【虹空景悠】
処分完了
【武蔵義悠】
処分完了
【岩倉朝悠】
処分完了
【神影成悠】
処分完了
同じ言葉
同じ形式
何十人も
何百人も
名前だけが違う。
燐が息を呑む。
「これ……」
和悠も言葉が出ない。
もう疑う余地はなかった。
”悠”で終わる名前。
その人間たちは。
殺されている。
「誰が」
燐が言う。
「誰がこんなことを」
ページをめくる。
次の瞬間。
二人は固まった。
記録の最後。
署名欄。
そこに記されていたのは。
【執行:神影家】
静寂
灯りの火が小さく揺れる。
和悠の頭の中で何かが崩れた。
神影家。
村を守る家。
祭りを支える家。
神事を補佐する家。
その神影家が代々、人を殺していた。
「嘘だろ……」
燐が呟く。
「悠生さんが……?」
和悠は答えられなかった。
悠生の顔が浮かぶ。
穏やかな笑顔。
子供たちに慕われる青年。
あの人が。
そんなことを。
でも、
別の記憶もある。
『逃げろ』
『今夜は家から出るな』
『まだ生きたいなら』
もし…
もし本当に神影家が執行者なら。
悠生は、
和悠を助けようとしている。
その可能性が浮かぶ。
「待て」
燐が言った。
急に真剣な顔になる。
「まだある」
帳簿の最後。
一枚だけ折り込まれていた紙。
誰かが後から挟んだらしい。
和悠は開く。
そこには短い文章が書かれていた。
【第二候補生存中】
【第一候補健在】
【儀式まで残り二十七日】
和悠は眉をひそめる。
第二候補。
その言葉は初めて見る。
「なんだこれ」
燐も首を傾げる。
さらに下。
続きがあった。
【刻印家】
【第一候補 悠景】
【第二候補 和悠】
その瞬間。
全てが止まった。
”悠景”
和悠はその名前を知っている。
知りすぎるほど知っている。
兄だ、実の兄。
五年前、
病で亡くなったはずの
「……え?」
和悠の声が掠れる。
燐も固まった。
「待て」
「待て待て待て」
燐が紙を奪う。
何度も読む。
何度も。
だが文字は変わらない。
【第一候補 悠景】
確かにそう書かれている。
「兄さんは死んだはずだ」
和悠の声が震える。
「五年前に」
「村中がそう言ってた」
「葬儀もあった」
「墓もある」
燐は何も言わない。
言えない。
なぜなら、
記録には、
【健在】
と書かれているからだ。
””生きている””
少なくともこの記録を書いた人間はそう認識している。
和悠の頭が混乱する。
兄は死んだ。
だが記録では生きている。
どちらかが嘘だ。
その時だった。
ギィィィ……
蔵の外から音がした。
二人は凍り付く。
誰かいる。
間違いない。
足音。
一歩。
また一歩。
ゆっくり近付いてくる。
燐が灯りを消した。
蔵の中が闇に沈む。
足音は止まらない。
そして、
ガチャ。
入口の取っ手が動いた。
和悠の鼓動が爆発しそうになる。
鍵は掛けたはずだ。
なのに。
ギィ……
扉が開く。
月明かりが差し込む。
その向こうに。
一人の人影が立っていた。
背が高い。
黒い装束。
顔は見えない。
でも、
聞き覚えのある声がした。
「和悠」
低い声。
苦しそうな声。
「逃げろ」
その瞬間。
和悠は理解した。
この声は。
神影悠生だ。
しかし、
悠生の後ろ。
月明かりの届かない闇の中に。
もう一人いた。
誰かが立っている。
その人物の胸元には。
硫黄神社の神紋が刻まれていた。
そして、
ゆっくりと刀を抜く音が響いた。
この物語は、一年前から考えていたものです。
当時は、『硫黄村』という題名だったのですが、
安直な題名だったので、少しひねりのある題名に、と
『燐の硫黄』に改名した、というわけです。




