第二話 消えた記録
翌朝、
和悠はほとんど眠れなかった。
石碑、二柱、”悠”の文字”に森の中の人影。
考えれば考えるほど分からないことが増えていく。
朝食の席でも上の空だった。
「体調でも悪いのか」
父が尋ねる。
「いや」
和悠は首を振った。
本当のことを話せるはずがない。
神社の裏に忍び込んだことも、古い記録を勝手に読んだことも、
村の秘密を探っていることも。
父はそれ以上何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、妙に重い視線を向けてきた。
朝食後、
和悠は家を出た。
向かう先は噴水広場。
燐との待ち合わせだ。
広場に着くと、既に燐がいた。
珍しく難しい顔をしている。
「どうした」
和悠が声を掛ける。
燐は周囲を確認してから近付いてきた。
「昨夜、変な話を聞いた」
「変な話?」
「うん」
燐は声を潜める。
「村の外れに住んでるお婆さんがいるだろ」
和悠は頷く。
知っている。
かなり高齢の女性だ。
「昨日亡くなった」
「……そうか」
驚く話ではない。
年齢を考えれば不思議ではなかった。
だが燐は首を振る。
「問題はそこじゃない」
「何?」
「亡くなる前、変なことを言ったらしい」
燐は少し間を置いた。
まるでその言葉を口にするのを躊躇うように。
「『また始まる』って」
和悠は黙った。
嫌な予感がした。
「それだけ?」
「いや」
燐の顔色が悪くなる。
「『今度の悠は気付いてしまった』とも言ったらしい」
和悠の心臓が大きく跳ねた。
風が吹く。
噴水の水面が揺れる。
二人とも言葉を失った。
”偶然”、そう考えたい。
だが昨日から「悠」という文字ばかりが現れる。
偶然で済ませるには無理があった。
「……誰から聞いた?」
和悠が尋ねる。
「母上」
「本当なのか」
「嘘を言う理由はない」
確かにそうだ。
虹空家の人間がそんな作り話をするとは思えない。
燐は続ける。
「それともう一つ」
「まだあるのか」
「ある」
燐は懐から小さな紙を取り出した。
古びた紙だった。
「これを見ろ」
和悠は受け取る。
そこには名前が並んでいた。
十人ほど、どれも人名だ。
そして、全員の名前に悠の字があった。
和悠は息を呑む。
「これ……」
「亡くなった人の名前らしい」
「全部?」
「全部」
紙を持つ手に力が入った。
名前の横には年代も書かれている。
百年前、二百年……
それぞれ時代は違う。
だが共通点がある。
全員が若くして死んでいた。
「どこで見つけたんだ」
「祖父の蔵」
燐が答える。
「整理を手伝ってたら出てきた」
「見つかったら怒られないか」
「たぶん怒られる」
燐は苦笑した。
こんな時でも少し笑えるのが燐らしい。
和悠も少しだけ肩の力が抜けた。
だがすぐに現実へ引き戻される。
紙の一番下、そこに空白があった。
何か書き足されるためのような空白。
そしてその横には小さな文字で、
【次】
とだけ書かれていた。
「気味が悪いな」
和悠が呟く。
燐も頷いた。
「だから調べよう」
「どうやって」
「記録だ」
燐の目が真剣になる。
「刻印家の蔵を調べる」
和悠は顔をしかめた。
「簡単に言うな」
刻印家の蔵には重要な文書が保管されている。
勝手に入れば大問題だ。
「でも、お前の家だろ」
「それはそうだけど……」
反論しかけた時、広場の向こうが騒がしくなった。
人だかりができている。
村人たちが何かを見ている。
ざわめき、不安げな声。
嫌な予感がした。
和悠と燐は顔を見合わせる。
そして同時に走り出した。
人垣をかき分け、中心へ入る。
そこで見たものに二人は固まった。
一本の木。
広場の端に立つ大木。
その幹に。
深く刻まれていた。
刃物で無理やり削ったような文字。
誰が見ても分かる。
新しい傷だった。
そして、そこに刻まれていた文字は、
【和悠】
だった。
周囲の村人たちは困惑している。
誰がやったのか。
何の意味があるのか。
誰にも分からない。
和悠自身も分からない。
ただ、背筋に冷たい汗が流れた。
これは偶然じゃない。
昨日の警告、石碑、悠の記録。
そして、自分の名前……
何者かが確実に自分へ近付いている。
その時、人混みの向こうに一人の青年が見えた。
神影悠生だった。
悠生は騒ぎを見つめていた。
表情は読めない。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
だが次の瞬間、悠生の視線が和悠と交わった。
ほんの一瞬、
それだけだった。
しかし和悠は凍り付く。
悠生の口が。
わずかに動いたからだ。
「逃げろ」
そう見えた。
確かに見えた。
和悠は思わず目を見開く。
だが次の瞬間、
神影悠生はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
周囲の村人たちと同じように木を眺めている。
まるで何事もなかったかのように。
「どうした?」
燐が聞く。
和悠はすぐには答えられなかった。
言うべきか迷ったからだ。
結局、小さく首を振る。
「何でもない」
燐は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
騒ぎはしばらく続いた。
村人たちは、
「悪戯だろう」
「誰がこんなことを」
などと話している。
しかし和悠はそんな気分にはなれなかった。
自分の名前が刻まれていた。
偶然のはずがない。
しかも昨日の警告文。
『次の満月までに逃げろ』
あれを思い出すと背筋が寒くなる。
昼過ぎ、
和悠と燐は人目を避けるように村外れへ移動した。
誰もいない河原。
話をするには都合がいい。
「さて」
燐が石に腰を下ろす。
「整理しよう」
和悠も向かいに座った。
「まず、悠の字を持つ人間が昔から死んでいる」
燐が指を一本立てる。
「次に、神社の裏の石碑」
二本目、
「それから昨日の警告」
三本目。
「最後に今日の木」
四本目、
燐はため息を吐いた。
「普通じゃない」
「普通じゃないな」
和悠も同意する。
ここまで来ると、もう違和感では済まない。
誰かが何かを隠している。
それだけは確実だった。
「刻印家の蔵を調べたい」
燐が言う。
「やっぱりそれか」
「記録の家なんだろ?」
「そうだけど」
「何か残ってる」
断言だった。
虹空家の人間らしい。
勘というより結論に近い。
和悠もそう思っていた。
神社の倉で見た巻物。
あれだけで終わるはずがない。
もっと大きな秘密がある。
「今夜行こう」
燐が言った。
和悠は目を瞬く。
「今夜?」
「夜の方が見つかりにくい」
「見つかったら大問題だぞ」
「だから面白い」
燐が笑う。
和悠は呆れた。
昔からこうだ。
危険なことほど好奇心が勝つ。
それは長所でもあり短所でもある。
その時だった。
川面が揺れた。
風は吹いていない。
なのに水だけが波打つ。
二人は同時に顔を上げる。
妙だった。
本当に妙だった。
そして、水面に何かが映った。
人影。
対岸には誰もいない。
なのに映っている。
黒い装束。
顔は見えない。
まるで影そのもの。
和悠は立ち上がった。
「誰だ!」
返事はない。
影は動かない。
ただそこにいる。
川面の中に。
次の瞬間。
影が口を開いた。
音は聞こえない。
だが唇だけが動いた。
【見るな】
そう見えた。
水面が大きく揺れる。
そして影は消えた。
完全に、跡形もなく。
しばらく二人とも動けなかった。
燐が最初に口を開く。
「見たか」
「見た」
「今の」
「分からない」
正直な答えだった。
人だったのか。
幻だったのか。
それすら分からない。
燐は黙り込む。
やがて。
ぽつりと言った。
「俺たち、本当にまずいものを掘り返してるかもしれない」
和悠は否定できなかった。
もう引き返せる段階ではない。
石碑を見た。
記録を見た。
警告も受けた。
知らないふりはできない。
夕方、二人は別れた。
夜になったら再び集まる約束をして。
家へ戻る途中、和悠はふと足を止めた。
村の中央の噴水広場。
朝と変わらぬ景色。
子供たちが遊んでいる。
老人たちが談笑している。
平和そのもの。
でも、
今の和悠にはそう見えなかった。
まるで全員が何かを知っているように思えた。
自分だけが知らない。
そんな感覚。
「和悠」
突然呼ばれた。
振り向く。
神影悠生だった。
一人で立っている。
いつの間に現れたのか分からない。
「悠生さん」
和悠は少し身構えた。
悠生は周囲を確認する。
誰も聞いていない。
そう確かめてから近付いてきた。
そして、
小さな声で言った。
「今夜は家から出るな」
和悠は固まった。
「え?」
「出るな」
「どうして」
悠生は答えない。
表情も変わらない。
だがその目だけが真剣だった。
冗談ではない。
脅しでもない。
本気だ。
「理由を教えてください」
和悠が言う。
悠生は数秒黙った。
そして、かすれるような声で答える。
「まだ生きたいなら」
和悠の背筋に冷たいものが走った。
「……どういう意味ですか」
「聞くな」
「でも」
「聞くな」
今度は少し強い口調だった。
悠生は目を閉じる。
苦しそうだった。
まるで何かと戦っているように。
やがて、静かに言った。
「次の新月まで時間がない」
和悠の心臓が止まりそうになる。
警告文と同じ言葉。
悠生は知っている。
間違いない。
何かを。
「悠生さん!」
和悠が呼び止める。
しかし、悠生はもう振り返らなかった。
そのまま歩いていく。
夕日の中へ。
長い影を引きながら。
和悠はその場に立ち尽くしていた。
胸が激しく脈打つ。
次の新月までに逃げろ。
まだ生きたいなら、次の新月まで時間がない。
全部が繋がった。
けれど肝心な部分だけが分からない。
なぜ自分なのか。
何から逃げるのか。
そして、
神影悠生は敵なのか。
味方なのか。
夕焼け空の向こうで。
硫黄神社の屋根が赤く染まっていた。
その姿はまるで何かを見下ろしている巨大な目のようだった。
そしてその夜、和悠と燐は、
村の禁忌へと足を踏み入れることになる。




