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燐の硫黄  作者: 虹藤時雨
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第一話 石碑

朝靄が硫黄村を包んでいた。

山々の隙間から差し込む光はまだ弱く、村の家々は薄い白に沈んでいる。

鳥の鳴き声が聞こえ、和悠は目を開ける。

見慣れた天井、見慣れた部屋。

何の変哲もない朝だった。

「和悠」

部屋の外から声がする。

母の声だ。

「起きているかい?」

「うん」

布団から起き上がりながら返事をする。

着替えを済ませ、居間へ向かうと、食卓には朝食が並んでいた。

焼き魚、味噌汁、漬物。

いつもと変わらない。

父も既に席についている。

「遅いぞ」

「ごめん」

和悠は頭を下げて座った。

しばらく食事を続ける。

静かな時間だった。

ふと父が口を開いた。

「今日は神社へ行く」

和悠は箸を止めた。

「神社?」

「硫黄神社だ」

短い返答。

理由は語られない。

父は昔からそうだった。

必要以上のことを話さない。

和悠も慣れている。

「何かあるの?」

「祭具の整理だ」

それだけ言って食事を再開した。

和悠は少しだけ違和感を覚える。

祭具の整理なら父一人でもできるはずだ。

わざわざ自分を連れていく理由が分からない。

もっとも、聞いたところで答えは返ってこないだろう。

食事を終え、支度を済ませる。

家を出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。

村は既に動き始めている。

農具を担ぐ者、井戸へ向かう者、家の前を掃く者。

どこにでもある平和な村の朝。

そのはずなのに、和悠は昨日の出来事を思い出していた。

山に現れた人影、水面に映った謎の影。

燐も見ていた。

夢ではない。

「……」

胸の奥が少し重かった。

神社へ向かう石段が見える。

その時、

「和悠!」

聞き慣れた声が飛んできた。

振り向くと、虹空燐が駆けてきていた。

「おはよう」

「おはよう」

燐は和悠の隣まで来ると声を潜めて呟いた。

「昨日のこと考えてた?」

「考えてた」

即答だった。

燐も同じらしい。

「俺、昨夜眠れなかった」

「僕も」

燐は少し安心したように笑った。

一人だけがおかしくなったわけではない。

そう確認できたからだろう。

「影のこと?」

「それもある」

燐は周囲を見回した。

誰も聞いていないことを確認してから言う。

「神社の裏を見に行こう」

和悠は目を瞬いた。

「今?」

「今」

「父上と神社に行くんだけど」

「ちょうどいい」

燐は真顔だった。

冗談を言っている様子はない。

「昨日話した石碑、見せたいんだ」

和悠は少し考えた。

見たい気持ちはある。

かなりある。

ただ、父と一緒だ。

勝手な行動は難しい。

「様子を見てみる」

「分かった」

燐は頷いた。

その時だった。

石段の上から誰かが降りてきた。

和悠と燐は反射的に口を閉じる。

降りてきたのは一人の青年だった。

二十歳前後で黒髪の整った顔立ち。

落ち着いた雰囲気。

村ではよく知られた人物だ。

神影家の当主候補、神影悠生。

和悠は軽く会釈した。

悠生も小さく頷く。

「おはよう」

「おはようございます」

穏やかな声だった。

彼は、村の子供たちにも慕われている。

悠生は二人の横を通り過ぎる。

その瞬間、和悠は妙な感覚を覚えた。

寒気。

いや、視線だ。

悠生が自分を見ていた。

ほんの一瞬だけ、何かを確かめるように。

だが次の瞬間にはいつもの表情に戻っていた。

「またな」

そう言い残して去っていく。

燐が小さく呟いた。

「変な人だよな」

「そうかな」

「優しいけどさ」

和悠も少しだけ頷く。

確かに独特だ。

いつも何かを考えている。

そんな印象がある。

「じゃあ後で」

燐は手を振って去っていった。

和悠は神社へ向かう。

石段を登り鳥居をくぐると本殿が見えてきた。

硫黄神社。

村の中心で誰もが敬う場所。

和悠は何度も訪れている。

それなのに、

今日は妙に圧迫感があった。

視線を感じる。

見られているような気がする。

本殿の奥から、

地面の下から、

何かが待っているような……

そんな気がした。

父は神主と話をしていた。

和悠は境内の端で待つ。

暇だった。

周囲を眺める。

大きな御神木、石灯籠、古びた社。

見慣れた景色。

その中に、見慣れないものがあった。

白髪で痩せた体の一人の老人が巨石の上に座っている。

和悠は見覚えがなかった。

村人なら大抵知っている。

知らないということは珍しい。

「……この村は、長い時間を抱えすぎた」

老人は空を眺め、そう呟いた。

じっと、まばたきもせずに。

和悠は少し居心地が悪くなる。

目を逸らして、再び見た時には、老人はいなかった。

「え……?」

思わず声が漏れる。

消えた。

本当に。

数秒前までいた場所から。

誰にも気付かれずに。

和悠は立ち上がった。

辺りを見回す。

いない。

どこにも。

背筋に冷たいものが流れた。

その時、足元で何かが見えた。

和悠は視線を落とす。

小さな紙切れだった。

誰かが落としたらしい。

拾い上げるとそこには達筆で一文だけ書かれていた。


「次の新月までに逃げろ」


和悠の鼓動が止まりそうになった。

誰が何のために書いたのか。

自分に向けたものなのか。

それとも別の誰かへ?

紙を裏返しても何もない。

もう一度表を見る。

そこには確かに書かれていた。

次の新月までに逃げろ。

和悠は無意識に神社の本殿を見上げた。

静かな建物だった。

何も変わらない。

何も起きていない。

それなのに、なぜだろう。

まるで巨大な獣が眠っているように見えた。

知らなくてはならない。

この村で何が起きているのか。

昨日までは漠然とした違和感だった。

今は違う。

誰かが警告している。

何かが迫っている。

そして、

その中心にいるのは。

きっと自分だ。



「和悠」

突然呼ばれ、和悠は我に返った。

父だった。

慌てて紙を握り込む。

「どうした」

「いや、何でもない」

父は数秒ほど和悠の顔を見つめた。

何かを見抜かれた気がしたが父は追及しなかった。

「行くぞ」

「うん」

二人は本殿の脇を通り、神職たちしか入れない区域へ向かう。

和悠はこれまで何度か来たことがある。

祭具庫、古い倉、奉納品を保管する建物。

特別珍しい場所ではない。

だが今日は違った。

昨日から続く違和感が胸の奥で膨らんでいる。

父が倉の扉を開いた。

軋む音が響く。

中には木箱が並んでいた。

古いものばかりだ。

「この箱を運ぶ」

「分かった」

和悠は頷く。

作業自体は単純だった。

埃を払い、箱を移動し、傷みがないか確認する。

30分ほど経った頃、

悠成(はるなり)

父が別の神職に呼ばれた。

「少し待っていろ」

そう言い残し、倉を出ていく。

和悠は一人になった。

静寂に身を包まれる。

聞こえるのは外の風だけ。

ふと、視線が棚の奥へ向いた。

一番下、半ば板で隠されている木箱。

妙だった。

他の箱には管理用の札が付いている。

それだけ付いていない。

好奇心が湧いた。

ほんの少しだけ覗く。

それだけのつもりだった。

和悠は板をずらした。

木箱には鍵が掛かっていない。

蓋を持ち上げると、中に入っていたのは巻物だった。

何本もあった。

どれもかなり古い。

村の記録だろうか。

和悠は一本を手に取った。

紐を解く。

文字が並んでいる。

達筆すぎて読みづらい。

それでも何とか目で追っていく。

やがて、ある箇所で指が止まった。


【神影家記録】


【刻印家】

【悠成 継承】

【景悠 死去】


和悠は眉をひそめた。

さらにページをめくる。


【硫門家】

【悠親 継承】

【義悠 死去】


まただ。

悠で始まる名前。

悠で終わる名前。

何だこれは、偶然にしては出来過ぎている。

鼓動が少し早くなる。

さらに先を読む。


【神影家】

【悠則 継承】

【朝悠 死去】


同じだ。

同じ形式。

何代も、何代も、何代も。

まるで決まり事のように。

和悠は息を呑んだ。

その時だった。

後ろで音がした。

ギシッ。

木が鳴る音。

和悠は反射的に振り返る。

誰もいない。

倉の中には自分しかいない。

それなのに。

確かに聞こえた。

視線を感じる。

昨日から続いている感覚。

誰かが見ている。

和悠は急いで巻物を戻した。

蓋を閉める。

板を元に戻す。

ちょうどその時。

倉の扉が開いた。

父が戻ってきた。

「終わったか」

「う、うん」

危なかった。

見つかっていたら怒られていただろう。

父は特に気にした様子もなく作業を再開する。

和悠も手を動かした。

しかし頭の中は別のことでいっぱいだった。

悠成

景悠

悠親

義悠

なぜ似たような名前が続いているのか。

なぜ継承と死がセットになっているのか。

そして、

なぜ自分の名前は……

和”悠”なのか

昼過ぎには作業は終わった。

帰り道、和悠は遠回りをした。

向かう先は決まっている。

神社の裏、燐が言っていた場所。

森へ入り、人目を避けるように進む。

やがて石碑が見えてきた。

長い年月を感じさせる苔むした石碑。

その前には燐が立っていた。

「遅かったな」

「父上がいたから」

燐は頷いた。

「これだ」

石碑を指差す。

和悠は近付く。

文字は削れていた。

ほとんど読めない。

それでも一部だけ残っている。

和悠は目を凝らした。

そして凍り付いた。

そこに刻まれていたのは。


硫□□

硫破□


だった。

「見えるか」

燐が聞く。

和悠は小さく頷く。

「る?るは?」

硫黄神ではない。

少なくともそれだけは分かる。

別の名前だ。

「昨日言ってたのはこれか」

「ああ」

燐は真剣な顔をしていた。

「変だろ」

「変だ」

即答だった。

こんな石碑があること自体知らなかった。

神社の裏の誰も来ないような場所にわざわざ隠すように置かれている。

偶然とは思えない。

燐がさらに言う。

「それだけじゃない」

「まだあるのか」

「ある」

燐は足元の土を払った。

そこから別の文字が現れる。

掘られていたのだ。

和悠はしゃがみ込む。

読みにくい。

だが、

読めた。


【二柱】

たった二文字。

しかし十分だった。

和悠と燐は顔を見合わせる。

二柱……

つまり神が二人

いや、二柱。

村では硫黄神しか祀られていないはずだ。

ならばもう一柱は誰だ。

なぜ消された?

なぜ隠された?

その瞬間、

ザァァァァッ

強い風が吹いた。

木々が揺れ、葉が舞う。

石碑の表面を覆っていた土が少しだけ剥がれ落ちる。

和悠の目が見開かれた。

新たな文字が見えた。

わずか数文字。

それだけ。

それだけだったのに。

心臓が嫌な音を立てる。


【悠】


和悠は息を止めた。

燐も固まっている。

そこにも。

”悠の文字”があった。

昨日見た記録、今日見た巻物、そして石碑……

全部が繋がり始めている。

嫌な形で。

まるで見えない糸が村全体を縛っているように。

その時、森の奥で枝が折れた。

二人は同時に振り向く。

誰かいる。

間違いない。

「誰だ!」

燐が叫ぶ。

返事はない。

和悠は駆け出した。

木々の間を抜ける。

気配を追う。

人影が見えた。

黒い衣。

背の高い人物。

しかし追いつけない。

あり得ない速度で森を進んでいく。

やがて人影は立ち止まった。

振り返る。

顔は見えない。

影になっている。

ただ一つだけ、その人物は笑っていた。

そんな気がした。

次の瞬間、影は木々の向こうへ消えた。

完全に。

まるで最初から存在しなかったかのように。

和悠は立ち尽くす。

息が上がっていた。

背後から燐が追いついてくる。

「いたのか?」

「いた」

「誰だった?」

和悠は首を振った。

分からない。

顔も見えなかった。

ただ、確かなことが一つだけある。

自分たちは監視されている。

石碑を見つけた時から。

いや、もっと前から、ずっと……

山の向こうで夕日が傾き始めていた。

赤い光が森を染める。

その色はどこか血を思わせた。

和悠は無意識に拳を握る。

胸の内にある恐怖は消えない。

それでも知りたい。

この村に何が隠されているのか。

””悠””とは何なのか。

消された神とは何者なのか。

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