第二十話 燐の硫黄
思想支配という千年の呪縛が解かれ、
神々と別れてから、数日が過ぎた。
硫黄村には、かつてないほど穏やかな時間が流れていた。
子どもたちは笑いながら駆け回り、大人たちは未来の話をする。
「悠」という名を口にしても、誰も顔を曇らせなくなった。
その朝、
和悠と燐は、刻印家の屋敷へ呼ばれていた。
二人を迎えたのは、刻印家当主・刻印悠成だった。
「来てくれてありがとう」
悠成は静かに笑う。
その表情には、以前までどこかにあった重苦しさはもうない。
「今日は、二人に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
燐が首を傾げる。
悠成は頷き、屋敷の奥へ歩き始めた。
二人もその後を追う。
見慣れた廊下を抜ける。
蔵へ入る。
さらに奥へ進む。
そこまでは、和悠も来たことがある場所だった。
しかし、
悠成はその先で立ち止まる。
壁へ手を添え、小さく呟いた。
「刻印」
石壁に、淡い光の紋様が浮かぶ。
ゴゴゴ……
重い音を立てながら、壁が左右へ開いていく。
「えっ……」
燐は思わず声を漏らした。
その先には、誰も見たことのない通路が続いていた。
「こんな場所……」
和悠も息を呑む。
悠成は静かに振り返る。
「歴代当主しか知らない場所だ」
「知られざる蔵」
「刻印家最大の秘密」
三人は静かに歩き始めた。
壁一面には無数の本棚が並んでいる。
そこへ収められている本は、どれも見たことがないものばかりだった。
『始祖の日記』
『硫黄村建設記』
『刻印魔術・原典』
『時継手記』
『虹燐観測録』
和悠の鼓動が速くなる。
「全部……」
「本物です」
悠成は頷く。
「この蔵は、刻印家が千年以上守り続けてきたものだ」
「歴史を失わないために」
その時だった。
蔵の最奥、
一つだけ、台座の上へ置かれた木箱が目に入る。
他の本とは明らかに扱いが違う。
悠成はその前で足を止めた。
「この箱は」
「初代当主・刻印時継様が」
「『未来で必ず開かれる日が来る』と言い残して封印したものだ」
和悠は思わず息を呑む。
「時継さんが……」
悠成は静かに箱へ触れた。
しかし、開かない。
「代々試したが」
「誰にも開けられなかった」
「だが」
悠成は和悠を見る。
「おまえが来てから」
「封印が反応した」
和悠はゆっくりと箱へ手を伸ばす。
右手の刻印が淡く輝く。
その瞬間、
カチリ。
小さな音が響いた。
箱の錠前が、ひとりでに外れる。
燐が思わず息をのむ。
悠成は静かに目を閉じた。
「……やはり」
「おまえを待っていた」
和悠はゆっくりと蓋を開ける。
中に納められていたのは、二冊の古びた本だった。
一冊は深い藍色。
もう一冊は、白銀色。
藍色の表紙には、力強い文字でこう刻まれている。
『燐の硫黄』
白銀色の本には。
『燐の硫黄 零』
蔵の中へ、静かな沈黙が流れた。
千年前から待ち続けていた二冊の書物。
その最初のページが、今、ゆっくりと開かれようとしていた……
蔵の最奥には、静寂だけが流れていた。
和悠は震える手で、藍色の本を持ち上げる。
表紙には、力強く三文字が刻まれていた。
『燐の硫黄』
隣には白銀色の本。
『燐の硫黄 零』
二冊は長い年月を経てなお、不思議なほど傷んでいなかった。
まるで、今日この日が来ることを知っていたかのように。
「開いてみろ」
悠成が静かに言う。
和悠は小さく頷き、『燐の硫黄 零』を開いた。
最初のページ。
そこには、美しい筆跡で一篇の序文が綴られていた。
『燐の硫黄 零』
序文
燐とは小さな光である。
闇の中でもなお消えず、
真実を照らす光である。
この書が忘れられ、
燐が消えても、
再び新たな燐が現れるだろう。
燐の作り出した硫黄に感謝を伝えよう。
虹に祝福を。
刻に祝福を。
硫に祝福を。
始祖、硫刻虹燐に冥福を。
来世にて、
幸せになれることを願って。
和悠は息をのんだ。
「……虹燐」
燐も、その名をじっと見つめている。
「俺と……同じ名前が入ってる……」
悠成は静かに頷いた。
「虹空家に『燐』という名が受け継がれてきた理由だ」
「始祖・硫刻虹燐」
「硫黄村を築いた二十人の始祖の一人」
「そして、虹空家の原点となった人物だ」
燐は言葉を失う。
自分の名前が、偶然ではなかった。
何百年もの願いが込められていたのだ。
和悠はページの下へ視線を移した。
そこには著者名が記されている。
著者 硫破
「硫破さん……」
和悠は思わず呟く。
しかし、その瞬間、右手の刻印が淡く輝いた。
《書物閲覧》が反応する。
文字の下に、かすれた跡が浮かび上がる。
和悠は目を見開いた。
「……違う」
「え?」
燐と悠成も身を乗り出す。
墨で消されたような跡。
そこへ白い光が差し込む。
少しずつ、少しずつ、隠されていた文字が姿を現した。
硫刻 和悠
蔵の空気が止まった。
「硫刻……和悠」
和悠は自分の名を見つめる。
違う。
自分ではない。
千年前を生きた始祖、硫刻和悠。
その人物の名が、確かにそこにあった。
悠成が震える声で呟く。
「完成させたのは……」
「始祖・硫刻和悠」
「著したのは硫破様」
「だから、二人の名が並んでいる」
燐は静かに本を閉じた。
「つまり」
「硫破さんは、この本を書いたんじゃない」
和悠は頷く。
「完成するまで」
「ずっと見届けていたんだ」
その時だった。
『燐の硫黄』の表紙が、ひとりでに開いた。
風は吹いていない。
誰も触れていない。
それでも、本はゆっくりとページをめくる。
一枚。
また一枚。
そして、最後のページで止まった。
そこには、たった二行だけ記されていた。
燐は消えない。
誰かが真実を求める限り。
和悠は静かに微笑んだ。
「だから……」
「燐の硫黄」
燐も笑う。
「俺じゃなかったんだな」
「"燐"って」
和悠は首を横に振る。
「ううん」
「君でもある」
「真実を照らした人、みんなが"燐"なんだ」
燐の瞳に、涙が浮かんだ。
千年を越えて受け継がれた想い。
それは、ようやく未来へ届いた。
その様子を見守っていた悠成は、蔵の最奥を振り返る。
「これで……」
「刻印家の役目も果たせた」
和悠は二冊の本を胸に抱く。
千年前の始祖、虹燐、硫破、時継、
そして、この村で生きたすべての人々。
その想いは、この二冊に刻まれていた。
物語は終わる。
だが、
燐という小さな光は、これからも誰かの心を照らし続ける。
こんにちは、これで20話終了です。
そして……
次回、最終話!!
これだけでも、まぁ十分かもしれませんが、もう一話ほしいなと思って最終話は次話です。
(この20話が投稿される1時間後には投稿したいなって執筆時の作者は勝手に思ってます)




