第十一話 硫黄神
第十一話はいつもより長めです。
「和悠!」
誰かの声が耳に届いた。
ゆっくりと瞼を開くと、最初に見えたのは燐の顔だった。
「よかった……!」
燐は安心したように息をつく。
和悠はゆっくりと体を起こした。
目の前には地下神殿。
祭壇も、石壁も、名前が刻まれた壁もそのままだった。
「戻ってきたのか……」
「急に倒れたんだ」
悠景が静かに言う。
「光に包まれたと思ったら、そのまま意識を失っていた。」
和悠は周囲を見回した。
硫破は少し離れた場所で腕を組み、こちらを見ている。
その表情は珍しく真剣だった。
「会えたみたいだね」
和悠は驚く。
「知ってたんですか」
「まあね」
硫破は苦笑した。
「時継は昔から記録を残すのが好きだったから」
「あなたは……時継さんを知っているんですか?」
「もちろん」
硫破はあっさり答えた。
「硫黄村を作った頃からの付き合いだよ」
和悠は改めて目の前の青年を見る。
相変わらず二十代ぐらいにしか見えない。
それなのに、その口からは何百年という時間が当たり前のように語られる。
「何を見た?」
硫破が静かに尋ねた。
和悠は深く息を吸う。
「全部じゃありません。でも……」
少し言葉を探す。
「硫黄神は制度を望んでいませんでした」
地下空間が静まり返る。
悠生も燐も息を呑む。
和悠は続けた。
「虹空家が最初の村長家だったことも見ました」
「硫門家が村長家になったことも」
「悠の制度が、人間によって作られたことも」
硫破は目を閉じ、小さく頷いた。
「そうか」
その一言だけだった。
否定もしない。
驚きもしない。
ただ、ようやく知られてしまったというような表情だった。
「硫黄神は悪くないんですね」
和悠がそう言うと、硫破は首を横に振った。
「悪くない……とも言えない」
その答えに全員が硫破を見る。
「サルファロスは止められなかった」
「それは事実だ」
「自分の村で起きたことを、自分の目で見ながら」
硫破は静かに祭壇へ歩いていく。
「力を失ったとはいえ、止める方法はいくらでもあったかもしれない」
「でも彼は責任を抱え込みすぎた」
「自分が始めた村だから」
「自分が最後まで見届けなければならないと思ってしまった」
燐が口を開く。
「じゃあ、どうして誰にも話さなかったんだ?」
硫破は少しだけ笑った。
「話したところで信じてもらえなかったからさ」
「神様本人が『私は神じゃない』って言っても、人は案外聞かないものなんだ」
地下に小さな笑いが生まれる。
だが、その笑いはすぐに消えた。
硫破は祭壇の中央へ立つ。
その視線は祭壇の奥へ向けられていた。
「そろそろ会いに行こう」
「会う?」
和悠が尋ねる。
硫破は静かに頷く。
「彼に」
「今の硫黄神に」
「……!」
全員の空気が変わる。
ここまで名前だけが語られてきた存在。
村人から神として崇められ続けた老人。
その本人に会う時が来たのだ。
悠生が刀を握り直す。
「敵なのか」
「違う」
硫破は即座に答えた。
「少なくとも僕はそう思っていない」
「ただ……」
珍しく言葉を濁す。
「もう限界なんだ。」
「限界?」
「長い時間、自分を責め続けてきた」
「何百年も」
「そろそろ心が折れてしまう頃だ」
その言葉に和悠は時継の見た景色を思い出した。
雨を見つめるサルファロスの背中。
あの小さく見えた姿が脳裏に浮かぶ。
地下神殿の最奥。
祭壇の後ろにある石壁へ硫破が近付く。
その壁には誰も気付かなかった小さな窪みがあった。
硫破はそこへ右手を添える。
青白い光が静かに広がる。
ゴゴゴ……。
重い音とともに石壁が左右へ開いていく。
その奥には細く長い石造りの通路が続いていた。
冷たい風が流れてくる。
誰も口を開かない。
硫破だけが振り返り、穏やかに笑った。
「行こう」
「長い昔話も、そろそろ終わりにしないとね」
和悠は静かに頷く。
自分が知るべき真実は、もう目の前まで来ている。
その先で待つ硫黄神は、一体どんな言葉を語るのだろうか。
和悠たちはゆっくりと通路へ足を踏み入れた。
石壁の奥へと続く通路は、驚くほど静かだった。
足音だけが、一定の間隔で響いていく。
和悠は周囲を見回す。
壁も天井も、すべて白い石で造られていた。
苔一つ生えていない。
まるで時間そのものが止まっているような場所だった。
「誰も……来ていないんですね」
和悠が呟く。
硫破は前を向いたまま、小さく頷いた。
「ここは村人も、五大名家の当主も知らない場所だからね」
「知らない?」
燐が驚く。
「硫黄神社の地下なのに?」
「地下ではあるけど、正確には違う」
硫破は少しだけ笑った。
「ここは"時の狭間"だ」
その言葉に悠生が眉をひそめる。
「時の狭間……」
「世界と世界の境目みたいな場所だよ」
あまりにも自然に言うので、和悠たちは返す言葉を失った。
「だから僕もここにはよく来る」
「刻の残響」の世界と、この世界。
その間を行き来するための場所。
硫破にとっては特別でも何でもない。
だが、和悠たちにとっては想像もできない空間だった。
しばらく歩くと、通路の先に淡い光が見えてきた。
その光は少しずつ大きくなり、やがて一つの広間へと繋がる。
和悠は思わず息を呑んだ。
広間の中央には一本の巨大な桜の木が立っていた。
地下であるはずなのに、満開の花を咲かせている。
花びらはゆっくりと舞い落ち、地面へ届く前に淡い光となって消えていく。
「きれい……」
燐が思わず声を漏らした。
硫破はその桜を見上げる。
「まだ咲いていたんだ」
その声には、どこか懐かしさが混じっていた。
桜の根元には、小さな縁側のような場所がある。
そこに一人の老人が腰掛けていた。
白髪。
深い皺。
少し小柄な身体。
質素な着物をまとい、静かに湯呑みを両手で包んでいる。
どこにでもいるような老人。
それなのに。
その場にいるだけで空気が変わる。
老人はゆっくり顔を上げた。
優しい目だった。
長い年月を生きてきた者だけが持つ、穏やかな瞳。
その視線は硫破へ向けられる。
「……久しいな」
硫破は肩をすくめた。
「三百年ぶりくらい?」
老人は小さく笑う。
「お前は昔から時間の数え方が雑だ」
「細かいことは気にしない」
「だからお前は変わらん」
二人は顔を見合わせる。
まるで昨日も会っていたかのような自然さだった。
和悠は驚きを隠せない。
宿敵の再会ではない。
長年会えなかった友人同士の再会だった。
老人は静かに立ち上がる。
その動きはゆっくりだが、不思議と衰えは感じない。
和悠たちへ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「初めまして」
「私はサルファロス」
少し間を置いて、自嘲気味に笑う。
「……この村では、硫黄神などと呼ばれている」
和悠たちは思わず姿勢を正した。
目の前にいるのは何百年も村人から崇められ続けた神。
その本人だった。
しかしサルファロスは困ったように頭を掻く。
「そんなに畏まらなくてよい」
「今の私は、ただの老人だ」
「神としての力も、ほとんど残っておらぬ」
その言葉に悠生が尋ねる。
「あなたは……」
「悠の制度を知っていたのですか」
硫黄神は静かに目を閉じた。
しばらく沈黙が流れる。
桜の花びらが一枚、老人の肩へ落ちた。
「知っていた」
その一言は、とても重かった。
「止めようともした」
「だが……止めきれなかった」
老人の声が少し震える。
「私には、もう力がなかった」
硫破は何も言わない。
責めることも、慰めることもなく、ただ隣で静かに立っていた。
その姿を見て和悠は思う。
二人ともずっと後悔を抱えながら、この長い時間を生きてきたのだと。
その時、硫黄神は和悠へ真っ直ぐ視線を向けた。
「刻印家の子よ」
「お前に、頼みがある」
広間の空気が変わる。
和悠は思わず息を呑んだ。
老人は静かに頭を下げる。
「この村を……終わらせてくれ」
桜の花びらが、静かに二人の間を舞い落ちた。
誰も言葉を発さなかった。
和悠の耳には、ただ風が枝を揺らす音だけが届いていた。
目の前にいる老人。
この人物が、硫黄神。
何百年もの間、村人から崇められ続けた存在。
それなのに、その姿はどこにでもいる穏やかな老人にしか見えなかった。
和悠はその顔を見つめる。
深い皺。
優しい瞳。
穏やかな笑み。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが引っかかった。
どこかで……
記憶を辿る。
この顔を見たことがある。
夢ではない。
記録の中でもない。
もっと最近だ。
そして、思い出した。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
燐が振り返る。
「どうした?」
和悠は老人を指差した。
「あなた……」
老人は穏やかに微笑んでいる。
「あの日……」
「硫黄神社の近くにいましたよね」
静かな空気が流れた。
硫破が小さく笑う。
「やっと気付いたか」
和悠は驚いて硫破を見る。
「知ってたんですか?」
「もちろん」
硫破は肩をすくめた。
「最初からね」
和悠は再び老人へ目を向ける。
あの日、和悠が神社へ入る前に道端の巨石へ腰掛け、一人で空を眺めていた老人。
『……この村は、長い時間を抱えすぎた』
そう呟いた。
その意味が、今なら分かる。
硫黄神は少し照れくさそうに笑った。
「あの時は、まだ話すわけにはいかなかった」
「もし真実を伝えてしまえば、お前は自分の意思ではなく、私の言葉で動くことになる」
「それだけは避けたかった。」
和悠は静かに頷く。
だから老人は何も語らなかった。
導きもしなかった。
ただ見守っていたのだ。
硫破が縁側へ腰を下ろす。
「昔から変わらないね」
「全部一人で抱え込む」
硫黄神は苦笑した。
「お前にだけは言われたくない」
「え?」
「村を作っておいて、何百年も様子を見に来ん奴が何を言う」
硫破は思わず笑う。
「いやぁ、色々忙しくて」
「忙しいで済む話か」
「反省してるよ」
「しておらん」
二人のやり取りに、和悠たちは思わず顔を見合わせた。
神同士の会話とは思えない。
まるで昔から付き合いのある友人同士のようだった。
やがて笑みが消える。
硫黄神は桜の木へ目を向けた。
「この桜はな」
静かに語り始める。
「村ができた日に、硫破と一緒に植えたものだ」
和悠も桜を見上げる。
一本の大樹。
地下とは思えないほど美しく咲き誇っている。
「この木は、時間を吸って生きる」
「人の寿命ではない」
「村が積み重ねた時間だ」
硫破も桜を見つめる。
「あの頃は、こんな大きな木になるとは思わなかった」
「私もだ」
硫黄神は笑う。
「だが、この木も限界だ」
その一言で空気が変わる。
一枚、花びらが黒く染まり、地面へ落ちた。
和悠は目を見開く。
「今のは……」
「村の時間が歪み始めている証だ。」
硫黄神は静かに答えた。
「””久遠の悠久””」
「長きにわたり命を奪い続けた制度」
「積み重なった怨念」
「歪められた人々の思想」
「それら全てが、この村の時間を蝕んでいる」
硫破が立ち上がる。
その表情から笑みは消えていた。
「もう猶予はない」
「そうだな」
硫黄神も頷く。
「だから、お前たちに託す」
老人は和悠たち四人を見渡した。
「神が終わらせる物語ではない」
「これは、人が終わらせる物語だ」
和悠は静かに拳を握る。
自分たちがここまで辿り着いた意味。
その全てが、この言葉に込められていた。
その時だった。
広間の外から、鈍い地鳴りが響く。
ドォン――
桜の枝が大きく揺れる。
花びらが一斉に舞い上がった。
燐が振り返る。
「今の音……!」
硫破は目を閉じ、小さく息を吐く。
「始まったね」
「何がですか」
和悠が尋ねる。
硫破は静かに答えた。
「硫門正継が動き始めた」
その名前を聞いた瞬間、悠生の表情が変わる。
「村長が……」
硫黄神は目を閉じる。
「とうとう、この日が来たか。」
長い時間をかけて隠されてきた真実。
その真実を守ろうとする者。
そして、暴こうとする者。
硫黄村は今、大きく動き始めようとしていた。




