第五話:誰そ彼の刻に咲く暮らし
天羅が旅立った翌朝から、
俺と如月の二人きりの生活が始まった。
急に始まった同居生活はどこかよそよそしく、
まるで誰かの夢の中に足を踏み入れたようだった。
けれど、朝の食卓に湯気を立てる味噌汁や、
外で揺れる洗濯物の影が少しずつ日常を染めていく。
ただ、如月は――あの一件の傷を、まだ抱えている。
ある日、夕飯の買い出しに出た町で、
通りすがりの男性に声を掛けられた瞬間、如月は身体を強張らせた。
目を見開いたまま固まってしまったのだ。
それを見た俺は咄嗟に如月を背に隠し、男性に道を教えてやった。
その夜、彼女がぽつりと呟く。
「駄目だね、私。普通に話す事すら、出来ない。
……あの時の、こと……思い出すと……怖くて………」
俯く如月の手をそっと握る。俺に触られるのは平気だと、
むしろ落ち着くと言ってくれた彼女の言葉を思い出す。
椅子に座る彼女の前に膝をつき、目線を合わせる。
「お前は、なんも悪ぐね。
俺は、お前の傍さ居るけん。
……安心せい」
翡翠色の瞳が揺らめき、柔らかな笑みを浮かべた。
「黑さんがいてくれて、良かった……」
翌日、如月は勤めていた会社に退職を伝えた。
もう人混みの中に戻ることはできなかったのだ。
だがそれでいいと、俺は思っていた。
無理に元の暮らしに戻るより、
彼女が、彼女のままで居られる場所を……俺が護ればいい。
そして、俺はというと。
この村に住むことを選んだ以上、何もしない訳にはいかない。
そこで、拝み屋を名乗ることにした。
とは言え、俺に霊験あらたかな加持祈祷の才がある訳ではない。
前世で仏道に身を投じていたとはいえ、今は鬼だしな。
だが、鬼であるが故に【人ならざるもの】――妖や霊が視えるのだ。
その輪郭を見つけては捕らえ、飲み込む。
そして静かに、跡形もなく消した。
俺の仕事は人伝にじわじわ広がっていき、
「古びた屋敷の障子が、夜ごと勝手に開く」
「山道で、謎の声を聞いた」
「事故の多発する道で、昔死んだ女が目撃されている」
そんな、にわかには信じがたい話が、俺の元に舞い込んできた。
一つ、また一つと影を飲み込み、己の中にある鬼の渇きを満たしてやる。
高齢化の進んだ村だったこともあり、
やがて何でも屋のようなことも頼まれるようになった。
畑仕事の手伝いや、犬の散歩の代行……少しずつ、
だが確実に村へ溶け込み始めていた。
やがて周りからの信頼も集まり、なくてはならない存在になっていった。
如月も、日中はまだ外に出たがらなかったが。
俺の帰りを待って、
日が傾き始めた玄関先に出ていてくれるようになっていた。
時折、視線が合うと照れたように微笑み、
小さく手を振り「おかえりなさい」と出迎えてくれるまでになり。
それがどれほど俺の心を温めたか。
鬼になってからの俺はずっと、人と関わらず洞窟で過ごしていた。
だから今世で再び如月と出会えた奇跡だけでなく。
こうして、
誰かと繋がって関わって暮らせる今に、心から感謝して生きている。
どうか、一日でも長くこの平穏が続くようにと、
祈りながら――俺は今日も、玄関先で待つ如月の元へ帰る。




