第一話:惹かれ合う魂〈後編〉
雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から差す夕暮れの光が、濡れた葉を煌かせる。
足を踏みしめるたび、泥濘が鈍く鳴る。
この静けさの中で聞こえるのは、
彼女の小さな呼吸と俺の胸のざわめきだけだった。
如月は俺の後をついて来る。
彼女が転ばないように、落ちている木や石を端に除けながら歩く。
昔も同じことをしていたなと、懐かしく思った。
前世では、忍びの里を抜ける最中の怪我で片目の視力を失った如月。
その頃の癖で、つい気遣ってしまう。
封印の岩から目覚め、
最初に見た彼女の姿は――昔と何も変わっていなかった。
ただ、潰れていた左目は元通りになっていて、少しホッとする。
俺を見て揺れる翡翠色の瞳も、赤茶色の髪も懐かしい。
気づいたら、抱き締めていた。申し訳ないことをしたと思いつつも。
数百年ぶりに触れた温もりも匂いも前世と変わっていなくて、
涙と共に気持ちが一気に溢れ出してしまう。
横目で後ろからついて来る如月を見る。
普通なら、目を逸らすだろう。だが如月は、真っ直ぐ俺を見てくれていた。
怖がりながらも、俺の名を「よる」と呼んでくれた。
その声が、まだ耳に残っている。
「……ここまでで、ええな」
山道が麓に差しかかり、舗装された林道への別れ道に着いた。
少し先に、民家の灯りがぽつぽつと見える。
俺は足を止めた。如月も後ろで立ち止まる。
(……こっから先は【鬼】である俺が踏み込んではいけん場所じゃ)
俺の姿は、如月以外には鬼に見えない。
封印の前に陰陽師に頼み細工して貰ったのだ。
封印から目覚めたら、
鬼であることを周りに悟られないような術を掛けてくれと。
でも、如月には嘘をつきたくなかったから、
彼女にだけはその術が効かないようにとも頼んだ。
赤黒い角と、額には封印の模様……――――鬼としての姿。
彼女にだけは知っていて欲しかった。
怖がられるかもしれないと思ったが隠したくなかったんだ。
でも、彼女は逃げなかった。
封印が解け半ば強引に彼女を抱き締めてしまったあの瞬間も。
彼女の抵抗は、ほんの一瞬だけだった。
自惚れかもしれないが、彼女の心もまた俺を待っててくれたと信じたい。
もう一度だけ……ただもう一度だけ、会いたいと願っていた。
でも、今は。
「……のう、如月」
名を呼ぶと、彼女は俺を見上げた。
少し困ったように眉を寄せるその顔が、とても懐かしく愛おしい。
それだけで胸が詰まり、うまく言葉が出てこなくなる。
(今、言わねば……きっと、もう…………)
「また……会いに来てくれんか?」
そう言葉にした瞬間、心臓が跳ねる。断られるのが怖いと思った。
鬼である俺が、再び人と関わろうとするなど業が深い。
如月は戸惑ったように目を伏せた。返答は、すぐには返ってこない。
沈黙が二人の間に流れる。
怖さや戸惑い、疑念が彼女の中で渦巻いているのだろう。
でも、彼女の言葉は意外なものだった。
「……はい。……また、会いに来ます」
驚いて顔を上げると、彼女はまた真っすぐに俺を見ている。
凛とした力強い眼差し。間違いなく、俺がかつて惚れた女の目だった。
「そうか……んだば、待っちょるわ。ここで、ずっと」
一週間後。
約束通り、如月はぎこちなく笑いながら山へやって来てくれた。
その手には、紙袋が提げられている。
中には、彼女の作った弁当が入っていた。
懐かしい味に思い出が一気に蘇り、嬉しさが込み上げる。
思わず泣いてしまうと、
彼女に「可愛い人……」と言われ、顔が熱くなった。
それから週に一度、俺たちはこの山で会うようになった。
如月と居ると、俺は自分が鬼であることを忘れそうになる。
忍だった頃の、人間の自分に戻ったような気さえして。
(いや、下手すっとあん頃より。今のが、ずっと人間らしいかもしれんな……)
不思議な気分だった。俺たちは新たに一歩ずつ、共に過ごす時間を刻んだ。
俺の名を呼ぶ彼女の声。触れ合う手の温もり。
そして、俺を見つめる翡翠色の瞳。もう、二度と失いたくはない。
叶うのならもう一度、彼女と生涯を共にしたいと思う。
だが、臆病な俺はまだこの思いを伝える覚悟ができずにいる。
この思いを、彼女が受け入れてくれる保証はどこにもない。
拒絶されてしまったらこうして会うこともできなくなる。
だから、あと少し。もう少しだけ、このままでいさせてくれ。
もう一度、お前を失う勇気は……まだ持てそうにない。




