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締め日、閉店後。

私は疲れ切った身体を店のソファに沈めていた。

ギリギリだった。

本当にギリギリ、返済額に足りた。

達成感と、また明日から0になる恐怖が入り混じった複雑な感情。

吐いた煙が力なく空間を彷徨った。

まるで私の疲労感を表しているよう。


通知を受けて震えた携帯を見ると、


“みっくん:明日のお昼、ランチでもどうかな?”


白目を剥いて倒れそう。

羨ましいよ。

私が喜ぶと思ってるんだ?

純粋だね、みっくん。


“ごめん!明日は用事があって…(涙マーク)」


頼むから数日は休ませてくれ。

私は断りのメッセージを入れて、そっと携帯を閉じた。

鉛のように重い足をやっとの思いで動かして、家に帰った。




数日後、いつものようにクニさんが金の回収に来た。

必死に稼いだ金も、すぐに消えていく。

残ったのは引き出しにしまった、彼からの1万円札。


「クニさん、Lacisってよくお客さん出禁になるって聞いたけど本当?」


「…どの店も同じようなもんだろ。」


クニさんは、金を数えながらぶっきらぼうにそう答える。


「そっか〜。昔私の外科医のお客さんも出禁にしたんでしょ?薬持ってて…って覚えてないか!」


クニさんの手が止まって、眉がピクリと動いた。


「商品をダメにされたら元も子もねえから。…誰に聞いた?」


そういえば、アイちゃんはクニさんを苦手だと言っていたことを思い出した。

名前は出さない方が良さそうだ。


「えっ、ヘアメの担当の人…」


「…相澤(アイザワ)?」


クニさんの目が、ギョロリとこちらを見た。

私はすぐにバレてしまったことに決まりが悪く、苦笑いをした。

クニさんはいつものように鼻で笑って、


「あいつ、余計なこと言ってんな。」


と、放った。

私は心の中で、静かにアイちゃんに謝罪した。


クニさんとの時間は、ただただ私を泥のように溶かす。

タバコを吸って、セックスをして、またタバコを吸って。

時間を気にすることもない。

無言の時間に気を焼いて、考えることもない。

したいことをして、眠くなったら眠る。

この時間が、どうしようもない私の欲を満たした。

クニさんが出て行った部屋には、きちんと補充された睡眠薬。

クニさんは、一体何者なのだろうか。

私以上に私を知っているようで、ズカズカと土足で心の中に踏み込んでくる。

かと思えば、どこか一線を引かれているような気もする。

きっとクニさんも、私たちの関係に名前をつける気などないだろう。

私が借金を返し終われば、簡単にこの関係は終わる。当たり前のことに、心の奥底で少しだけ名残惜しさを感じている。

やはり私は狂ってしまったのだろうか。

たまに考えてしまう。

私たちの間に借金がなかったら、と。




また数日後、彼が家に来た。

減量をしたのか、夏服を身に纏った体が少しだけ引き締まったように見える。


「ニュース見たよ。9月からだってね。」


定位置のように、壁にもたれて座る彼に声をかけた。


「うん!なんか、今は不安よりも楽しみな気持ちになってきた。やっぱなんだかんだこの仕事好きなんだな、俺。待ってくれてる人たちに早く会いたいよ。」


そう言って歯を見せた彼の顔は、後光が指しているかのように眩しかった。

私の手からスルスルと、共に過ごした時間がこぼれ落ちていくようだ。

まだ、夢だった方がよかったかもしれない。


「決めたんだ。俺、もう後ろ向かないって。凛ちゃんに宣言するよ。自分の人生を自分の足で生きる。」


そう言い切る彼の顔が曇って見えるのは、きっと私の目の問題。


「おお、わかった。じゃあ見てるよ。画面の向こうでね。」


細めた目から、不意に涙がこぼれ落ちそうになった。

泣く理由などないはずなのに。


「ねえ,どうしてアイドルになったの?夢だった?」


「全然!多分、不純な動機。かっこよくなりたかったんだよね。胸を張って生きられるくらいに。」


アイドルじゃないあんたも、十分格好良かったけど?

そう言いかけて、飲み込んだ。

純粋に見えた中学生の彼は、そんな野望を持っていたらしい。


「今だから言えるけど、横に並びたい子がいたんだ。堂々と、胸を張って、その子の隣に立ってみたかった。」


私の眉が、ピクリと反応した。

心臓の音が、体内から私の耳にまで響く。


「ふ〜ん。それって、もしかして初恋ってこと?」


冷やかすように上げた口角の端が、僅かに震える。


「ピンポーン!大正解。その子、人気者でさ。優しくて、こんな俺にも親切にしてくれたの。だからかっこよくなって、追いつきたかったんだよね。」


私の青春時代が、脳内にフラッシュバックする。


「…会いに行ったの?」


「うん。会いに行った。」


ゆっくりと、彼の顔を見た。

彼はとても優しく目尻を下げて笑っている。


「もう、いなかった。住んでた家もなにもかも、跡形もなかった。」


浮かんでいた予想が、確信に変わる。

それは間違いなく、花音だ。

純粋で、綺麗で、何も知らなかった少女。

私があの場所に置き去りにした。


「俺、思ったより重たい男でさ。引きずってたんだ。きっと最近まで。」


私も好きだったよ。

昔も、そして今も。


「ようやく思い出にできたよ。俺には待ってるファンがいる。支えてくれた凛ちゃんがいる。」


私はまだ思い出にできてないよ。

唯一、私の心を見ていてくれた昔のあなたを。

目を背けても視界に入り込んできたあなたを。

死にたいと言いながら生きることを選んだ、あなたを。


「俺、あの子がいなくても1人じゃないからさ。」


花音が、彼の中で過去になった。

望ましい結果のはずなのに、胸が張り裂けそうに痛い。

苦しい。

こんな気持ち、知りたくなかった。

堂々とあなたの隣に立てない。

その選択を放棄した私は,弱い女に成り下がったんだ。


「うん、大丈夫大丈夫!」


そう言って、彼の肩を叩いた。

私は自分の本心を腹の奥底に沈めて、最大限の笑顔を作った。

ごめんね、あなたの知ってる花音はもう死んだよ。

2度と会えることはないね。


私はもう、“凛”だから。



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