38
閉店まで1時間を切ったとき、アイちゃんから1通のメールが届いた。
“飯行く?”
指名客がみんな帰ってフリーにたらい回しにされていたところだったので、もちろんアフターはない。
客以外と営業終わりににご飯を食べるのはいつぶりだろうか。
少しだけ、アイちゃんの時間をもらうのは申し訳ない。
けど、断る理由もなかった。
“行く!”
少し迷って、そう返信した。
閉店後、店前で待っていたアイちゃんは私の顔を見るなり、
「おお、営業終わりでも全然崩れてねえな。」
と、まず私のヘアセットを見回した。
つくづく、この人は瞳さん以外眼中にない。
「アイちゃんのセット、崩れたことないよ。」
「あたりめえよ。プロだから。」
そう言って、鼻につくような顔を見せつけてくる。
まるで昔とは別人。
アイちゃんの中身は、真っ直ぐで自信のある強い男。
「んで?アイツとはどうなった?」
店に着くなり、アイちゃんは彼の話を切り出した。
「え、なに?どうなったって。」
「スプリングよスプリング。付き合ってんの?」
「いや、サニーの方だから。付き合ってないし、なんも変わんない。」
そう言った私を、アイちゃんはじっと見つめる。
すっぴんは男らしかったけれど、化粧をすると女性より綺麗かもしれない。
私は不意に心臓がドキッと跳ねた。
アイちゃんは舌打ちをして、ドリンクを注文し始めた。
「凛ちゃん酒が足りてねーわ。飲んで。話はそれから。」
しばらくして運ばれてきたのは、山盛りのテキーラだった。
私はたまらず白目を剥いた。
「いや無理無理無理。」
「付き合ってやっから!」
そう言ってアイちゃんは、私に無理やりグラスを持たせた。
「ほらほら、カンパーイッ」
一昔前に戻ったかのような甲高い声でニコニコ笑ってグラスをぶつけてきたが、もう全く可愛く見えない。
意を決して飲んだ久しぶりのテキーラに、喉が焼けるほど熱くなった。
「オレンジは?オレンジジュース!」
そう叫ぶ私に、
「甘えんな!居酒屋だよ。欲しいなら自分で頼め。あー、久しぶりに飲んだらクるわ。」
アイちゃんはそう言いながら、2杯目のテキーラを持って構えていた。
怖すぎる。
本当に、この顔からは想像できないほどに全く可愛くない。
「とりあえず5杯はいけんだろ。」
そう笑うアイちゃんを見て、今日この場に来たことを後悔しかける。
5杯目を飲み干した時、なんで仕事でもないのに苦行を強いられてるのか理解できなくなって、無性に腹が立ってきた。
「“ひい“にちくるよ?潰されかけたって言うよ?」
「っお前…それは卑怯だろ。こっちだって“サン”の電話番号知ってんだからな?そんでお前は“ひい”って呼ぶな。」
「だる。なんなのさっきから“スプリング”だの“サン”だの。人の好きな人のこと変なあだ名つけないで!」
あっ…
そう思った時には、もう遅かった。
向かいでアイちゃんがニヤニヤしながら私を見ている。
「好きなんじゃん。」
アイちゃんはそう言って、また酒を頼もうとしている。
もう、ヤケクソだ。
私は髪を振り解いて、前髪も全てまとめ一本に括りあげた。
アイちゃんは自分がセットした髪が崩れていく様を、悲痛な顔で見ていた。
「好きだよ!見たらわかんじゃん。でも付き合ったりとかは普通に無理。向こうがまず私なんかを好きにならない。」
「あっそー。でも向こうも好意ありそうだったけど?」
「違います。弱ってる時に少しだけ世話したの。そしたら懐いただけ。」
「てか同級生なんでしょ?なんで言わないの?」
「昔と違いすぎるから。私昔割と裕福な家だったの。ピアニストとか目指しちゃって。…世間知らずで、純粋で、綺麗だったの。」
「怖いんだ?今の自分を知られると離れそうだから?」
アイちゃんの大きな目が、突き刺さってくる。
「…別に嫌われたっていい。離れて欲しいくらい。でも、昔の私は綺麗なままでいたいの。」
口に出すと、あまりにも自分勝手な理由にため息が漏れでた。
もう綺麗な“花音”はこの世に存在しないのに。
「もう今更言えないし、言わない。」
そう、小さく呟いた。
「でもこのままだったら、アイツとの未来はないよ。必ず終わりが来る。」
「だから、それでいいんだってば!」
私は目の前にあるテキーラを1人で飲み干して、グラスをテーブルに叩きつけた。
「それでいいって顔してないけど。」
アイちゃんはそう言って、私に合わせてテキーラを飲んだ。
意地が悪い。
「まあいいよ。俺は別に関係ねえし。ただ、アイツは少し可哀想だなってだけ。」
「なんで?綺麗な思い出のままの方がいいでしょ?」
「おい。男は全部ひっくるめて愛すんだよ。どんな道を歩いてきてたっていいんだよ。その道があって今ここにいんだから。」
「…それはさ、アイちゃんだから言えることでしょ?愛を知っている人だから言えるの。」
アイちゃんは、私の言葉に目を逸らした。
そして、またテキーラを手に取って飲み干す。
「うん。ごめん。これは俺の価値観だな。」
「あ、いや…こっちこそ…」
なんとなく虫の居所が悪くなって、謝ろうとした。
先ほどまで強気だったアイちゃんが、急におとなしくなったからだ。
そんな私に、アイちゃんが顎で合図をする。
目線の先はテキーラ。
“俺、飲んだけど?”と言うような顔で、空のグラスを揺らす。
先ほどのしおらしい雰囲気はなんだったのか。
私はため息をついて、もう何杯目かもわからないテキーラを手に取った。
「アイちゃんはさ、なんで瞳さんに好きって伝えないの?ほら、前言ってたじゃん。」
「俺?あー、俺はいいんだよ。ひいと俺の関係は、もうこれで完成してんの。」
私は、アイちゃんのいうことが理解できなくて首を傾げた。
「お子ちゃまにはわかんねえ話。」
アイちゃんは笑いながら、そう言った。
27にもなって、子供扱い。
でもこの街に来た17歳から、自分でも成長した気がしない。
なんなら後退している気がする。
「んー…あんま聞きたくねえけど、凛ちゃんはクニさん怖くないの?」
アイちゃんはしばらく唸ったあと、唐突にクニさんの名前を口に出した。
「クニさん?んー、怖いって感情はもうないかも。」
「俺苦手なんだよあの人。目で人殺せそうじゃん。」
アイちゃんは、心底信じられないと言うような顔をした。
確かに、私も昔は震えるほどにクニさんが怖かった。
「あの人も、人間なんだよ。多分優しいところもある。」
私はもう、クニさんが怖くはない。
感情表現が得意じゃないだけ。
私が返済額を下回らない限り、約束通り家族に手を出すこともしない。
筋の通った男。
「わかんねえな〜。ひいもサキさんも似たようなこと言ってた。俺には全く理解できないわ。」
アイちゃんは頭を抱えて、ため息をついた。
「凛ちゃんは、関わんなきゃいけないんだよな。借金はなんの借金?」
「父親。事業に失敗したの。」
「は?子どもにそんなん返させんなよ。信じらんねえ!本人は何してんの?」
アイちゃんの大きな目がさらに見開かれた。
表情から伝わる怒りが、なんだか少し嬉しくて笑えてきた。
「死んだよ。いいの、私が選んでこの街に来たから。」
「いや、怒れよ。おかしいじゃん。なんで凛ちゃんが背負うわけ?恨めよ父親を。」
笑いながら話す私に、アイちゃんは理解できないように眉間に皺を寄せていた。
借金のことを誰かに話したのは初めてだ。
何故か、アイちゃんには簡単に話せてしまった。
私はアイちゃんとは逆に、ますます笑えてきてしまう。
そんな私を見て、アイちゃんはまた眉間の皺を濃くした。
「ごめんごめん。なんだろう…なんか、嬉しくて。確かにおかしいよね。なんで私が背負わなきゃいけないんだろうね?」
「…そうだよ。」
アイちゃんはそれだけ言って、またテキーラを飲んだ。
またか、と意を決して息を吐いたが、アイちゃんは私にテキーラを飲むよう促さなかった。
「凛ちゃんには、クニさんが必要だったのかもな。」
「え?」
「Lacisって、よく客が出禁になるんだよ。クニさんの権限で。昔、外科医の客いなかった?ひいの客だったやつ。」
「あー、いた!私がつまらない女だったから来なくなったけど。え、その人で合ってるかな?10年前とかだけど、瞳さんのお客さん取っちゃって…」
「それ、クニさんが出禁にしたんだよ。凛ちゃんに飽きたわけじゃなくて。」
「え???」
初めて聞く話に驚いて、大きな声が出た。
確かに瞳さんの客だったから罪悪感はあったものの、貴重な売上の一部だったからだ。
「あの人、薬持ってた。飲み物に混ぜて、なかなか枕しない子持ち帰ってたらしい。でも金は使うから、女の子はなかなか手放せなかったんだと思う。」
「なにそれ…」
私は言葉を失った。
まさかそんな卑怯な手を使う客だったとは、微塵も気が付かなかった。
「ひいが気がついて阻止しようとしたら、もうクニさんが出禁にしたあとだったって。そうやって、わかんねえけどクニさんは色々後ろで手を回してんのかもな。」
考えてみたが、思い当たる節はない。
クニさんからも瞳さんからも、そんな話は聞いたことがなかった。
客が店に来なくなるのは、日常茶飯事。
一人一人覚えてもいられない。
「借金はあとどんくらい?」
深刻そうな顔をしている私に、アイちゃんが問いかけた。
「あと、1.2年で返せると思う。クニさんが言ってた。」
「そっ…か。なんもできないけど、まあたまに飯くらい連れて行けるから。」
そう言って、アイちゃんは席を立った。
テーブルを見渡して、
「やば、今日全然食べさせてないじゃん。酒しか飲ませてねえかも。」
と、少し焦った顔をした。
「いや、大丈夫大丈夫。今日あんまお腹空いてないし、もう入んない!」
そう言って笑って、私も席を立った。
帰り道、アイちゃんは近所とはいえ律儀に家まで送ってくれた。
「まあさ、色々大変だとは思うけど、なんかあったら言いなよ。聞くくらいならできるから。」
そう言ったアイちゃんの顔を、少しだけ覗き込んだ。
アイちゃんみたいな人に、あまり出会ったことがない。
正直になれて、気を使わなくていい人。
めんどくさそうにしながらも、こうして世話を焼いてくれる。
私の視線に気がついたアイちゃんは、「なに?」と言うような顔をしながら、めんどくさそうに眉毛を持ち上げた。
「ううん。ありがとう。」
「うん。まあ、これだけは言っておくわ。後悔すんなよ。」
後悔?
少し考えて、すぐに彼の話だと気がついた。
前も同じことを言われた気がする。
「はーい。」
何度言われても、私の意思は固い。
彼の今後の人生に、私は必要ない。
「いや、まじで…」
適当な返事をした私に、アイちゃんは念を押した。
「わかってる!」
まるで反抗期の子どもだ。
大きな声でアイちゃんの声をかき消そうとした。
わかってる。
ちゃんとちゃんと、わかってる。
頑固な自分も、彼に会うたび揺れている自分も。
だからこれ以上、近づいてはいけない。




