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ピンポーンーーー


ぼんやりとCDを眺めていた日曜日の深夜2時。

部屋のインターホンが鳴り響いた。

こんな時間に訪問する人など常識的にあり得ない。

そもそも、この部屋のインターホンを押す人など今まで光熱費の催促くらいだった。


クニさん…

いや、あの男はこの部屋の鍵を持っている。

それに階段を登る足音で気がつくはずだ。


未だその場から動かずに様子を見ていると、


「凛ちゃーん?俺だけど。ハル!」


そう、ドア越しに声が聞こえた。

持っていたCDを棚に入れて、急いで鍵を開けた。

彼はそんな私を見て、笑顔を少しだけ強張らせた。


「どうしたの?入って」


動かなくなってしまった彼に呼びかける。


「あ、うん。…電気ついてたからさ、いるのかな〜って」


彼はどこかぎこちなく靴を脱いだ。


「あー、今日店休。日曜日は休みだから。」


彼は私の顔を凝視しながら、ゆっくりと数回頷いた。

顔に何かついているのだろうか。

洗面所の鏡で確認したけれど、何もついていない。

いや、何もついていなさすぎるのだ。

休みだった私は、化粧をしていなかった。

少し立ち止まって対処法を考えたが、今更何ができる。

もう見られてしまったからには仕方がない。

他人の空似。大丈夫大丈夫。

昔の姿とは到底結びつかない。

いや、もう忘れてるだろう。

そう言い聞かせて、私は彼が座るリビングに戻った。


コトン。と、彼の前に水を置く。

ハッとした彼と目が合った。


「どしたー?元気ないじゃん。」


「あっいや…」


そう言って彼はグラスを手に取って水を飲み干した。


「ねえ、CD聞いた?」


水を汲みに立ち上がった私に、彼が問いかける。


「まだ。」


「えっなんで?」


「いや、うち聞ける機械ないからさ」


私の言葉に、彼は部屋を見渡して「あー…」と小さく声を漏らした。


「じゃあ聞く?音源入ってる。」


そう言って持ち上げられた彼の携帯を見て、私は頷いた。


「あ、ちょっと待って」


私は急いでイヤホンをカバンから取り出した。

窓が空いているこの部屋では、音が外に漏れてしまうからだ。

今時有線の、携帯を買った時についてきたイヤホン。

左耳に差し込んで、もう片方を彼に手渡した。


一曲一曲、アルバムの最初から再生される音だけに集中した。

私の耳には、彼の声ばかり抽出される。


「あれ、これソロ?」


目を開けると、思ったより彼の顔が近くにあって少しだけ背筋が伸びた。

そんな私をよそに、彼は嬉しそうに頷く。

私はまた目を瞑ったけれど、彼の歌声を掻き消しそうなほどの自分の心臓の音がうるさかった。


「ねえ、もう一回聞きたい。」


彼からイヤホンを奪い取って、私はまた彼のソロ曲を再生した。

彼の澄んだ歌声の後ろで聞こえるピアノの音に、ふと耳が止まる。

2回目のサビ前。少しだけ前に転がる入り方。

どこか違和感を覚える。

けれど、その微妙なズレが妙に綺麗だった。

焦らせるわけでもなく、置いていくわけでもない。

主張しすぎず、彼の声を導く音。


「この曲、伴奏者違うよね?」


つい、彼に聞いてしまった。

丸みを帯びた大人しい音を奏でるのに、ここぞと言う時に叩きつけられるフォルテッシモが好みだったからだ。

この伴奏があってこそ、人は彼の歌声に没頭することができる。


「えっ!凛ちゃん耳いいね!」


彼は驚いたように目を丸くしてそう言った。


「違う違う、なんとなく〜」


考えなしに発言してしまった。

ピアノの話など、触れるべきではないだろう。

私は曖昧に笑って、誤魔化した。

それにしても、好みなはずなのにどこか苦しさを覚えるこのピアノは、なんだか聞き覚えがある。

どこかで。そう、あの街を歩きながら。

あとは、アイちゃんの美容室。あとは…


あ。思い出した。

LUMATOMのデビュー曲だ。


この指の走らせ方を、私は知っている。

ペダルを踏むタイミング、音の切り方。

そして、少し似てるんだ。私の弾き方と。


「この曲さー、デビュー曲と同じピアニストなんだよね。俺、この人のピアノ好きで。ソロも弾いてほしくて頼んだ。」


「ふーん」


適当な返事をして、私はまた目を閉じた。

彼の好きな音の中に、昔は私の音も入っていたかな。

もう、二度と弾くことはないけれど。

あの頃の角の教室の風景が、瞼の裏に映し出される。

戻らない時を、また心の奥底に沈めた。

私のピアノがなくたって、彼は好きな音を見つけられる。

現に今、“この人のピアノが好き”と、この耳で聞いた。


“〜♪名前のないまま

胸に残るこの気持ちは

誰のものにもできなくて

それでも消せなくて”


随分と私に寄り添ってくれた歌詞だ。

自分の口から、小さな笑い声が漏れた。

おかげさまで、じんわりと痛くなっていた鼻の奥の痛みがとれた。

過去の幻想に浸りかけていた私を、現実に突き放してくれたこの曲にお礼を言おう。


「なんて曲?」


トラック78と映し出された曲の名を彼に尋ねた。


「“No Name, Still You”」


「ふーん。なんか、あれだね。切ない歌?綺麗な声が沁みるよ」


そう言って、おちょくるように彼に笑って見せた。

彼はそんな私に、優しい笑顔を返した。


「あ!ていうかこれ。やめてよなんも言わないで置いてくの。」


先日置かれた一万円札を棚から引っ張り出して、彼に再び差し出した。


「んじゃ前払い。また来た時に暑かったらクーラーつけてよ。前言ったじゃん?俺暑いの無理だからさ〜」


「だからいいって!払ってくれなくてもつけるから!」


「それだと俺が来ずらいのよ。前泊めてもらったこともあったし、大人しく貰ってくんない?俺男だよ?出した金引っ込めらんないって。」


そう言って、彼はテーブルに突っ伏して寝たふりを始めた。

私はしばらく札を持ちながら眺めていたが、根負けした。


「はあ。じゃあつけるか。」


そう言って立ち上がろうとした私の腕を、彼が掴む。


「今日はいいや。窓開けたらちょうど良くない?」


そう言って、彼は微笑んだ。


「うん。私もそう思う。」


立ち上がって、彼と目を合わせながら札を棚にしまった。

お礼は、言わなかった。

身体も時間も差し出していないのに、金を受け取るのは初めてだった。

こんなの、借りの作り方としては最悪だ。

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