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招き入れた家の中は、空気が籠って暑苦しかった。
それもそうだろう。
季節は夏に移り変わっていた。
「あっつ。また水しかないけどいい?」
カラカラカラとベランダの窓を網戸に切り替えた。
「あ、うん。ありがとう。」
彼はそう言いながら、半袖のシャツを肩まで捲り上げた。
いつどこでもらったかも覚えてもいない、花火の柄のうちわを彼に手渡す。
「ねえ、凛ちゃんって結構稼いでるよね?」
コップに水を注いでいた私の後ろから、座りながら彼が声をかけた。
「え?私全然稼いでないよ?しがないキャバ嬢だもん。」
「いや、ホームページにはNo. 1って…」
振り向くと、彼は私の写真付き名刺を持っていた。
「ちょちょちょちょっと待って!なんで持ってるの?」
「えっ?凛ちゃんが初めて会った時にくれたんじゃん」
名刺を奪おうと伸ばした私の手を、彼は華麗に避けてポケットにしまい込んだ。
「いや、いらないでしょ?先月はたまたまNo. 1だっただけ!」
「もう貰ったから俺のモンだよ。先月だけじゃなくなかった?」
彼の静かな瞳が、私の心を読み取ろうとしている。
嘘をつくことなど小慣れているのに、もう何も思いつかない。
「……私さ、借金あんの。」
床から目を上げて、少しだけ彼の顔を確認した。
変わらず静かに見つめる目に、たまらずまた目を逸らした。
「だからこの家からも出られないし、このクソ暑い中クーラーもつけられないってわけ!まあ、色々あんのよ〜」
誤魔化すように染みついた笑顔を貼り付けた。
自分のことを話すのに慣れていないせいか、やけに心臓がうるさい。
「いやいや、夏はクーラーつけないと死ぬって!」
彼は私に合わせて笑いながら、言葉を返した。
「見てよ!この通りピンピン生きてる!さすがに死にそうな日はつけるよ。あ、それとも、今もつけてほしいってこと?じゃあクーラー代ちょーだい!」
空気を変えたくて、捲し立てるように冗談が口からついて出た。
少しの沈黙に、出した手の引っ込みがつかなくなる。
「いや、冗だ「いいよ。」
耐えきれずに発した言葉を、彼の声がかき消す。
見上げた彼の顔は、笑っていた。
「いやいや、冗談だって!」
財布を取り出そうと、ポケットに手を入れる彼の腕を掴んだ。
「俺、暑いの苦手だし。出身北の方なんだよね。」
そう言いながら、彼は私の手を避けた。
いや、知ってるよ。だって同郷だもん。
そう心で呟きながら、冗談を口走った自分に嫌気がさした。
上手くいかない。
いや、それでいいのかもしれない。
金もない。羞恥心もない。そんな私を知って、距離が生まれていくのが理想なのかもしれない。
取り繕ったって仕方ないだろう。
長く続く関係ではないのだから。
「はい!」
そう言って、テーブルに1万円札を置いた彼の顔はまだ笑っている。
綺麗に。そう、まるでCDに映されていたみたいな笑顔で。
「いらない。」
そう言って、1万円札を彼に突き返した。
重い腰を上げて付けたクーラーの稼働音が、狭い部屋に響く。
「ねえ、メンバーとは仲良いの?」
彼は他に頼る先があるのか、いらない心配かもしれないが聞いておきたかった。
「あー、まあ仲良いよ。けど、そこまでプライベートなことは話さないかな。一緒に活動していくってなると、程よい距離感がなきゃ続かないから。」
「そっか…活動休止した時、理由は言った?」
「うん。ざっくりとね。」
「ふーん。メンバーはなんて?」
「“俺らちょっと働き過ぎたよね。少し休もう。”って。売れよう。もっと上に行こう。って気持ちは共通だったから、ちょっと急ぎ過ぎてたんだよね。」
「それだけ?心配されなかった?」
「え?うん。それだけ。そんなもんだよ男同士は。」
そう言って、彼はグラスの水を口に含んだ。
また同じようになってしまったら、彼は誰に頼ったらいいのだろうか。
余計なお世話だろうが、私の頭はそんなことですぐに埋め尽くされる。
無性にタバコが吸いたい。
ベランダに出ようと少し腰を上げたが、やっぱりやめた。
だって私の部屋だもん。
嫌だったら、来なければいい。
おもむろにタバコを手に取って、火をつけた。
ため息と共に息を吐き出して、気持ちを落ち着かせる。
「こんな風に心配してくれんのは、凛ちゃんだけかもね。」
彼はテーブルに肘をついて、上目遣いで私を見ながら笑った。
心臓に悪い。
滑り落ちそうになったタバコを、急いで咥えた。
「そういえば、熱愛出てたメンバーいたよね?そういうのはありなの?」
「あー、あれは事実無根だよ。ただの同じ事務所の子。でも、別に恋愛することに関してはあり。事実は逆に事務所がもみ消すよ。」
「ふーん。じゃあ、あんたも彼女とかいんの?」
「…なに?気になる?」
彼が笑いながら私の顔を覗き込んでくる。
誤解しないでほしい。
別に恋愛沙汰を聞きたいわけじゃない。
ただ、頼れる人がいるのか聞きたいだけだし。
私は呆れたような顔をしながら、口から煙を吐き出した。
「いや、そうじゃなくて…」
誤解を解こうとする私の言葉に、彼の笑い声が重なった。
「いないよ。俺、今まで彼女いたことないんだよね〜。もったいなくない?アイドル貫きすぎたかな〜」
そう言って、彼は天井を仰いだ。
その言葉に安堵してしまう自分の心が悔しい。
嘘かもしれないのに。
いや、嘘だろうよ、こんな時代に。
今までキャバクラでたくさん芸能人を見てきた。
愛想のないやつも、傲慢なやつも、タダでホテルに呼ぼうとするやつも、いいだけ見てきた。
もちろんいい人もいたけれど、表の顔とは違う人が大半だ。
見え透いた嘘に誤魔化されるものか。
私は鼻で笑って、灰皿にタバコを押し付けた。
「そりゃもったいないわ。早く彼女作んなさい。」
「いい人いたらね〜」
天井を見たまま、彼はそう返事をした。
手が届かない男。
そのまま上を見続けて、一生私にそう思わせてほしい。
この時間が恋しいなんて、絶対に思わせないで。
彼が帰った後の静かな部屋の中。
灰皿の下に置かれた一万円札が、エアコンの風に吹かれて揺れていた。




