手を出す
三熊がジムを去ってから、数週間が経った。
エイヤの仕事は増えた。
「エイヤ、こっちミットお願い!」
「はい!」
「終わったら掃除も頼むぞ!」
「はい!」
大学が終わるとジムへ行く。
ジム会員のミットを持つ。
練習を手伝う。
使った道具を片付ける。
床を掃除する。
「疲れた……」
エイヤはマットに大の字になった。
近くにいた田所に、エイヤがボソッと言った。
「三熊さんがいなくなって、忙しくなりましたね」
「そうだね」
田所が笑う。
「三熊さん、結構ジムにいたからね」
奥から黒和田の声がした。
「エイヤ!」
「はい!」
「グローブ片付けといてくれ!」
田所が笑う。
「ほら! 頑張れ!」
エイヤは立ち上がった。
「はい!」
そして土曜日。
エイヤはボクシングの会場に来ていた。
リングでは、試合が行われている。
総合格闘技とは違う。
蹴りもない。
タックルもない。
寝技もない。
パンチだけ。
それでも。
以前より少しだけ、何をしているのか分かる気がした。
『続きまして……瀬玉けい太選手の入場です!』
けい太の名前が呼ばれる。
エイヤが身を乗り出す。
けい太がリングに上がった。
「けい太ー!」
声を上げる。
けい太が客席を見た。
エイヤと目が合う。
小さく手を上げた。
「頑張れー!」
ゴングが鳴る。
けい太はすぐにはパンチを出さなかった。
相手の周りを回る。
相手が右を出す。
けい太が外す。
また動く。
相手の右が届きにくい位置へ回っていく。
エイヤはリングを見つめる。
「右、もらわないようにしてるのか……」
けい太が左手を伸ばした。
ジャブ。
相手が下がる。
またジャブ。
「距離……」
黒和田に教わった言葉が頭に浮かんだ。
相手が前に出る。
けい太が肩を動かした。
相手がガードを上げる。
「ん?」
パンチは出なかった。
次の瞬間。
けい太のジャブが顔に当たった。
「おお!」
エイヤが身を乗り出す。
また、けい太が肩を動かす。
今度は相手が反応しない。
けい太の右が飛んだ。
相手が下がる。
「今の……」
エイヤは少し考えた。
「フェイントをかけてんのか」
以前なら。
パンチが当たった。
パンチを避けた。
それくらいしか分からなかった。
でも今は。
当たる前に何をしているのかが、少しだけ見える。
相手のパンチが飛ぶ。
けい太がジャブを出す。
相手が下がる。
フェイント。
相手のガードが動く。
右。
パンチが当たった。
試合は続いた。
最終ラウンドが終わる。
けい太と相手がリング中央に並んだ。
『勝者――瀬玉けい太!』
「よっしゃ!」
けい太の手が上がる。
エイヤが拍手する。
リングの上で、けい太が笑った。
試合後。
「けい太!」
「エイヤ!」
「おめでとう!」
「ありがと!」
けい太が笑う。
エイヤがけい太を見る。
「どうやったらあんなにパンチ避けれるの?」
「シャドーをちゃんとやることかな」
けい太が目の前でやってみせる。
「パンチ来たら避けて、打ったら動いて。また相手が打ってくるの想像して」
「けい太ー!」
遠くから、知らない女の子が手を振っていた。
「おう!」
けい太も手を上げる。
「じゃあな、エイヤ」
「うん」
けい太はその女の子の方へ歩いていった。




