第93話 カタツムリ、実は手強い
カタツムリくらい、楽勝だろうと思っていた――
なにせ、こいつらの動きは死ぬほど遅い。
俺はシンクの周辺にうじゃうじゃといるカタツムリを眺めながら、どうやって広範囲を一気に殲滅できるか、と考えていた。
まずはミストキャノンで試してみる。
ここは本当に水分が多い。なにせシンクのすぐそばだ――管壁の水滴、地面の水たまり、空気中の湿気と、水分を集めるなら、どこよりも楽だった。
俺はそうとうにでかい水球を、ぐっとチャージした。
パイプにびっしりはりついているカタツムリの大半には、撃ち込まなかった――ミストキャノンの威力はコントロールが難しい。下手をしたら排水パイプまで壊してしまう、それはまずい。地形がまったく頭に入っていないこの台所で、インフラを壊すのは、予測不能な事態を招きかねなかった。
俺はタイルの床にびっしり這っているカタツムリの群れに向けて発射した。
巨大な水球が、床の上で炸裂した――
HP -3 HP -6 HP -2 HP -9 HP -2
HP -5 HP -7 HP -3 HP -10 HP -8
HP -4 HP -1 HP -6 HP -2 HP -1
床一面に、まるで完全に防御されているような数字が並んでいた。
風霊鳥の大群による強化がないと、ミストキャノンの威力もこの程度のものだった。
「そんなのじゃ、無理だってば」
後ろから来ていたあのこんがりジャガイモが、皮肉混じりの口調で言った。
俺はばつ悪く頭をかいた。
「じゃあ、もっとストレートにいこう――」
俺はカタツムリ一匹の前に歩み寄って、切風翎を具現化した。
カタツムリの知能はそれほど高くない。
俺が武器を構えたのを見ても、こいつは逃げも隠れもしない。ただ、柄眼を長く伸ばしてこちらを観察するだけだった。
眼差しは相変わらず空ろだが、今度は距離が近いから、よりはっきり見えた――その細長い柄眼の先端は、しっとり湿った黒い小さな球で、光を反射する角度までもが気持ち悪かった。
俺は切風翎を、力いっぱい振り抜いた――
こいつの片方の眼を、切り落とした。
HP -66
強化されていない俺は、筋力は三十一しかない。このくらいのダメージしか出ないのも、想定の範囲内だった。
カタツムリの眼は、再生するらしい。
こいつにとって、眼はそんなに大事な器官じゃないんだろう――俺のこの一撃で与えたダメージは、たぶん盲腸の手術くらいのものだ……
それでも、痛覚はあるんだろうな。
眼がすうっと、引っ込んでいった。
俺は一歩踏み込んで、力を込めて突き入れた――
ところがそいつは、ぐにゃりと殻の中に縮こまっていった。
柔らかくて、粘液まみれの体――
俺の鋭い刃が突き刺さろうとしても、まったくダメージにならなかった。
刃先はただ、ぶ厚い粘液の層をするりと滑っただけで、体に裂け目さえ作ることができなかった。刀全体が、ぬめった靴下にすっぽり包まれたみたいになって、力が伝わらない。
俺についてきたジャガイモとダイコンは、見れば見るほど自信を失っていく顔をしていた。
「あんた、ほんとに美食家様に派遣された害虫駆除の人なのか?」
ジャガイモが、疑わしげに訊いた。
「えっと……」
俺はばつ悪く言った。
「俺、そんなにヘタクソに見えますか?」
目の前のカタツムリは、すっかり殻の中に引っ込んでしまっていた。
俺は切風翎を握り直し、力を込めて手を殻の口に突っ込んでみた――
だが、こいつは奥のほうまで縮んでいるし、殻の内側はぐねぐね曲がっている。とうてい体までは届かない。
仮に届いたとしても、有効打にはならないだろう。
「……」
殻から手を引き抜いてみると、手にはあの気持ち悪い粘液がべったり付いていた。
そのうえ、こいつは殻の口のあたりに白い膜まで分泌して、殻と同じくらい硬い蓋までこしらえた。
その粘液の感触は、ぬるりとして、ひんやりしていて、なんとも言いがたい有機物の匂いがした。一度肌につくと、振り払っても全然落ちなくて、しかたなく服の裾でこすった――そうすると、今度は服の裾までべたついてしまった。
俺はやむなく、切風翎を引き抜き、片手で殻を押さえて、力いっぱい叩いて、ヒビを入れようと試みた。
だが、明らかに無駄だった。
この巨大なカタツムリは、殻の厚みと靱性まで強化されているらしかった。
明らかに、こいつらには、物理攻撃無効、みたいな属性がついている。
ジャガイモとダイコンは、俺がこんな不格好な姿で苦戦しているのを見て、心配そうな表情を浮かべた。何か言いたいことがあるのに、どう切り出せばいいかわからない、というふうだった。
チャットは――ああ、まだ繋がっていない。
俺はふっとため息をついた。
「君たちは、こいつらをどうやって倒してるの?」
俺はあっさり、彼らに訊いた。
「俺たちはな、いつも、生命の聖火をお借りするんだ」
二人は、恭しい態度で、シンクの脇の高いところを見上げた。
その口調に、俺はちょっとはっとした――「生命の聖火」。
これは、軽々しく弄べるような代物じゃなさそうだった。
あの二人の根菜が、その名を口にするときの声には、はっきりとした畏敬がこもっていた。
「あれが――?」
俺も二人の視線を追って、上を見上げた。
「美食家様のガスコンロだ」
ジャガイモが言った。
そこに、それはあった。
俺たちの頭上のずいぶん高い位置に、ビル一棟くらいの大きさの金属の調理台があって、その上方には、淡い青色の炎が一つ、輪になって静かに燃えていた。火の形は完璧で、揺らぎひとつなかった。
その光は、この湿って薄暗い台所の片隅において、ずいぶんと神聖に見えた――
古い寺院の中で見るあかずの灯みたいに。
「俺さ、今朝、あそこで料理されたばっかりなんだよ」
ジャガイモが言った。頭のローズマリーが、ぴくっとかすかに揺れた。
「まだ、火は消えてないんだ」
「火、か……」
俺はぽつりと呟いた。
「あの粘液まみれの生き物たちには、火は有効なはずだ」
水砲は効かない、刃も効かない――だが、火なら粘液を蒸発させられる。あいつらの軟組織を直接縮めて、焦がせる。殻の中に逃げ込むこともできない。
それに、この大きさのカタツムリでも、殻まで完全に耐火、ってことは、ないだろう。
「君たちは、俺に火を借りに行け、ってこと?」
「そうだ」
ダイコンがうなずいた。
「美食家様も、あの火で俺たちを祝福してくださったんだ」
「ただな……」
「ただ、なんですか?」
二人には、何か言いにくいことがあるみたいだった。
「俺たち食材は、見てのとおりこのサイズだろ。あんな高いところまで登るのは、そうとう大変なんだ――」
「でも、口ぶりからすると、君たち、今までも、その聖火でカタツムリに対処してきたんですよね?」
「そうだよ。でも、カタツムリが俺たちに突っかかってくることはほとんどなくて、美食家様が根菜類のあの連中を畑に植えに行ったときだけだ。カタツムリが食うものがなくなって、俺たちのほうに来るんだよ」
ジャガイモが肩をすくめた。
「年に一回か二回くらいかな! 美食家様が聖火を少しお貸しくださって、でも台所が火事になるのが怖いから、カタツムリを追い払ったらすぐ消すんだ」
ダイコンが、困ったように言った。
「でも、あんたは違うだろ。あんなに高いところから落ちても無事だったし、空、飛べるんだろ?」
ジャガイモのその言葉が、俺に道筋を示してくれた。
「ええ、飛べます。でも、生命の聖火って、勝手に借りていいものなんですか?」
「あんたは美食家様が直接お話しになった相手だし、この任務だって、あの方が直々にお頼みになったんだ」
こんがりジャガイモが言った。
「火を借りに行っても、止められたりはしないはずだ」
俺は遠くのあの炎を一目見て、それから目の前の、ぬめぬめのカタツムリの海を見やった。そして、決めた。
「よし」
俺は言った。
「火、取りに行ってきます」
俺は頭上の、まるで神殿の祭壇のように高く聳えるガスコンロを見上げた――
あの淡い青色の炎は、静かに燃えている。この暗く湿ったシンクの片隅で、明かりと呼べるものは、これだけだった。
「ここで待っててください」
「健闘を祈る」
ダイコンが言った。
俺はピクシーのタトゥーを起動して、ふわりと浮き上がり、あの生命の聖火に向かって飛びはじめた。
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