第90話 ウルフフライ
そのハエは、二本の前肢をすりすりと擦り合わせ、巨大な複眼で俺たちを見据えていた。
こいつが、翅をふわっと持ち上げた――
その翅が開いた瞬間、一枚一枚の膜翅が食卓の上のあらゆる汚れの照り返しを反映して、金属のような虹色の光沢を放った。美しくもあり、同時にぞっとするような光景だった。
こいつは、俺たちを攻撃しに来る、と感じた。
「気をつけて!」
俺は声を張り、ミストキャノンを召喚してチャージを始めた。
全員がそれぞれの武器を取り出した――
ユウキは勇気の剣をぐっと握りしめ、すでに鞘から抜いていて、刀身に照明の光が映っていた。
サチは片手に俺が貸した切風翎、もう片方の手に翠甲羅を持ち、低く腰を落とした。タンクとしての役割を、いつでも引き受ける構えだった。
ワカナは殺虫スプレーを軽く振り、いつでも噴射できるよう準備していた。
フェアリーの両の手のひらには、すでに風の球が集まっていて、淡い緑色の魔力がその指先で渦巻いている。
そして、ようやくここまでついてきたモチ米腸詰めも――
そいつもまた、フォークを構え、全身を緊張で小刻みに震わせていた。
『戦闘開始!!』
『モチ米腸詰めも参戦!!』
『そのフォーク、お前の身長より長くないか?w』
『みんな気をつけて!!』
ハエが翅を震わせ、轟くような羽音を立てた。
その音は広い食卓の上に響き渡った――低く、エンジンが始動するときみたいな振動で、食卓の上の干からびたオリーブ何個かまでが、ころころと小さく転がりはじめた。
こいつは体格こそオオカミ並みだが、その飛行速度は、俺たちの目がほとんどついていけないほど速かった。
こいつは俺たちの間をすうっと素早く通り抜けて――
そのまま、いちばん後ろにいたモチ米腸詰めに向かって突進した。
「……」
俺はぽかんとなった。
「あいつ、なんで俺たちを狙わないんだ?」
俺の疑問が、すぐに口をついて出た。
「ほんとだね、どうして?」
サチも同じく不思議そうにしていた。
「それはですね……」
モチ米腸詰めは深く息を吸い、戦士の構えを取った。
フォークを高々と掲げ、体を心持ち低く沈ませる。その姿はじつに様になっていて、怯えの気配はかけらもなかった。
「……あんたたちは、見るからに食えないからだよ」
モチ米腸詰めは落ち着いた声で言った。
「あんたたち、別種の害虫にしか見えないんだ」
「……」
「ちょっと!」
ワカナがちょっと怒気を込めて言った。
「俺たち、あんたから見たら、害虫扱いなわけ?」
「いや、害虫じゃないってのは、わかってる。でも、見た目はそうとしか思えないんだ」
モチ米腸詰めの口調には、謝る気配がまったくなかった。
「あちこち歩き回るのに、食われもしないし、料理人でもない。俺たちの認識じゃ、もう害虫っていう分類しか残らねえんだよ」
「……その理屈、なんか妙に筋が通ってるんだよなあ」
ユウキがゆっくり言った。
「言われると、ちょっとモヤッとしますよね」
俺は苦笑いした。
「ただ、これが、こいつらの文化、ってことなんでしょうね」
『俺たちが害虫wwwwwww』
『炊事場の理屈なら、確かにそうなる』
『普通に人なのに、害虫扱いw』
『モチ米腸詰めの論理、神すぎる……』
モチ米腸詰めはそれ以上口を開かず、フォークを大きく振りかぶり、ハエの頭めがけて、ホームランをかましてやった。
その一撃には、しっかり力が乗っていた。
「パコン!」
ハエの頭が、その瞬間、ふわっと飛んでいった――
この体格の割に、こいつの首の構造はずいぶん脆かったらしい。あんなにコミカルなモチ米腸詰めの一撃でも、頭を吹き飛ばせるくらいに。
『一発で吹っ飛んだ!!』
『モチ米腸詰めの腕力、まさかこんなにあるとは』
『次の野球大会に誘え!』
『ハエ「俺、ボールにされたんだが?」』
『首、もろすぎだろw』
頭をなくしたハエは、しばらくの間、まだあちこちを乱れ飛んでいた――
やがて、地面にぼとっと落ちた。
六本の脚を空に向け、必死にじたばたしている。翅もまだ震えていて、その勢いで体が、暴走ホバークラフトみたいにあちこちを横滑りに突き進んでいた。
その光景は、なかなかに混沌としていた――ジャーマン・シェパードよりでかいハエが、頭はないのに、本能でまだ動こうとして、食卓の上の汚れの間をぐるぐる回り、倒れたワイングラスを跳ね飛ばし、カビのパンにぶつかり、そこにあったあれこれの匂いを、まとめてかき回していった。
めちゃくちゃに気持ち悪い……
「美味しさを味わえる美食家だけが、俺たちを食う資格があるんだ!」
モチ米腸詰めが勇ましく叫んだ。
そのまま彼は前に出て――
フォークで、そのハエを食卓に縫いとめた。
六本の脚はまだ激しく痙攣していたが、もう、あちこちに突進していくことはできなくなった。
さっき震えていたのは、怯えていたんじゃなくて――
武者震いだったわけだ。
『モチ米腸詰めかっこいい!!』
『一突きで仕留めた!!!』
『今後、モチ米腸詰めをなめてはいけない』
『こいつ、ソーセージ軍団の中で間違いなく戦力ナンバーワン!』
知恵の書がふわりとハエの死骸のそばまで飛んでいき、ページが開いて、ぱたんと押しつけられた。
その光景を見て――
俺の頭の中で、何かがびくっと反応した。
もし、あなたが本や雑誌でハエを叩いた経験があるなら、あの忌まわしい記憶を、簡単には忘れられないだろう――
褐色の汁が、本の表紙の上で炸裂する。
ぐちゃっとした内臓が、キチン質の外骨格の下から噴き出してきて、本にべったり貼りつく。
そんな本は、もう絶対に取っておきたいなんて思えない。
その瞬間、俺の胃が、軽くぐらりと揺らいだ。
チャットも同時に悲鳴で爆発した――
『やめて!!やめて!!』
『知恵の書をハエ叩きにすんなぁぁぁ!』
『神器でハエを潰すなぁぁぁ』
『俺の子どものころのトラウマ……』
『マスミ、勿体ないってもんじゃないでしょ』
『本、廃棄確定じゃん!!』
画面の向こうの視聴者にも、俺と同じ精神的トラウマがある、というのが伝わってきた。
ただ――
このハエは、ぐちゃっとはならなかった。
こいつは、知恵の書の上の、精密な挿絵に変わった。
俺は息を詰めて覗き込んだ。あらかじめ覚悟していたあの嫌悪感は、ふわっと引いていった――ページの上には、汁も、内臓も、何ひとつついていなかった。あるのは、線と淡彩で描かれた、はっきりとしたハエの図様と、その横に浮かび上がった情報だけだった。
ウルフフライ Lv 8
EXP 1800
HP 620 MP 80
反応:32
筋力:8
霊感:8
運:4
ドロップ品:
N ???? 49%
R ウルフフライの膜翅 25%
S ???? 15%
U ???? 9%
E ???? 2%
「ウルフフライ……」
俺は声に出して読んだ。
「こいつ、こんな名前だったんだな」
「この能力配分、なに?」
ワカナが覗き込んできた。
「反応速度はバカみたいに速いけど、ほかの能力、めっちゃ低いね」
「特化型の敵、ってことなんでしょうね」
俺も観察しながら言った。
「これと相互補完できる別の生物が、あとから出てくるかもしれないですね」
『ウルフフライ!! ネーミング、中二と気持ち悪さのギリギリのところ』
『俺、もう本でハエ叩けねえわ』
それと同時に、もう一つ、俺は気づいていた――
経験値が、俺たちには入っていない。
ドロップ品も、俺たちのものにはなっていない。
これはきっと、あの勇ましいモチ米腸詰めが、まだ俺の部下じゃない、ってことなんだろう。
「言わせてもらうけどさ」
俺はモチ米腸詰めを見て笑った。
「この階層の住人、なかなか武人気質だよね」
見た目はずいぶんコミカルだが、こういう部下がいるのは、悪くないと思った。
「うんうん!」
ワカナも笑った。
「上の階層のゴブリンより肝が据わってるし、アンドリアス・サピエンスより頭も回るしね」
「ふん!」
フェアリーが少しツンとした調子で言った。
「やはり、ご主人さまにお仕えするのに、わたくしたちピクシー族以上の存在は、おりませんわ」
俺は優しく、彼女の頭をぽんと撫でた。
「ああ、確かに。お前たちより可愛い従者なんて、絶対にいないよ」
フェアリーの翅が、ぱたっと一度動いた。頬がほんのり赤くなったが、彼女はなんでもないふりで、ちょいと視線をそらした。
モチ米腸詰めは、腰をかがめてウルフフライの翅を拾い上げた。
「お褒めいただいて、ありがとうごぜえやす。でも、皆さん――」
彼は同時に、横目でフルーツバスケットのほうを見た。
彼の眼差しが変わった。さっきまでのちょっとした得意げな色は消え、戦士の警戒の眼差しに戻っていた。
「害虫の大軍が、来やすぜ!」
俺は彼の視線を追って、そちらを見た――
その竹のバスケットの上、腐った果物の上方には、びっしりと群れをなして旋回する、巨大なウルフフライたちがいた。
その数は、想像をはるかに上回っていた。
あのハエたちはフルーツバスケットの上を旋回し、低く、揃った羽音を響かせていた。それらが一つに重なり合うと、まるで土石流のような威圧感があった。
腐ったバナナの上に止まっているものもあれば、黒くなったリンゴの表面にへばりついているものもいる。傷んだ桃の傷口の中を出入りしているものもいた――どれも、さっきモチ米腸詰めが叩き落としたあいつと、引けを取らない大きさだった。
『うわ、あのハエの群れ!!』
『一匹一匹、めちゃでかい』
『バスケットの中、もっとデカいやつ、いそう』
『主たち、気をつけて』
『この階層、難易度なかなか高い』
俺は深く息を吸い、ミストキャノンを構え直した。
「行きますか」
俺は遠くの、びっしりと群れて唸りを上げる集団を見つめて、そっと言った。
「ちょいと、お掃除しに行こう」
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