第88話 フィヨルニル
「あなた、わたしたちよりずっと大きいけどさ……」
サチが、戸惑いいっぱいの顔で、その七、八メートルもある老巨人を見上げた。
「わたしたち、どう見たって人型でしょ? なんで、害虫だなんて疑うの?」
老巨人は穏やかに微笑んだ。
「どうやら、お前さんたちと、わしとでは、『害虫』の定義が、ちと違うようじゃのう」
「あなたの定義は?」
俺は訊いた。
「食い物をくすねる、というのが、ひとつ」
老巨人が人差し指を立てた。
「家具を壊す、というのが、ふたつ」
中指を立てた。
最後に、親指を立てた。
「それから、病気をうつす」
老巨人は、俺たちの目の前に三本の指を並べてみせた。その三本は、俺たちの体まるごとよりも太くて、一本一本が、柱みたいに目の前に立っていた。
「お前さんたち、こういう悪さをするのか?」
俺はその三本の指を見上げて、真面目に考えた。
「うっかり、ということなら、あるかも」
ユウキが俺より先に口を開いた。口調はずいぶん率直だった。
「でも、わざとはしません。少なくとも、あなたの食べ物を、わざとくすねたりは、しないですよ」
「ほう、正直じゃのう」
老巨人は、中指と親指を引っ込めた。
人差し指を俺の前に差し出してきて、その指先が、俺の前およそ五十センチくらいのところで、ぴたりと止まった。
「わしは、フィヨルニルじゃ」
彼が自己紹介した。声色は、どこかの小さな町の退職した先生みたいに、たいへん穏やかだった。
「フレイとゲルズの息子」
俺は、彼の人の好さそうな表情を見つめた。
ようやく察しがついた――彼は親しみを込めて、挨拶をしたいだけなのだ。
俺も左手を伸ばし、フィヨルニルの指先を、ぽんと軽く叩いた。
その指先は、俺の手のひらより大きかったが、温かい感触だった。俺たちの体格差があまりに大きいせいで、彼の指紋の一筋一筋まで、はっきり見えた。
『マスミ、巨人とハイタッチした!!』
『指先 vs 手のひらまるごとwwwwww』
『この老巨人、なんかすごい優しそう』
『フレイとゲルズの息子……この名前、由緒ありそう』
「では、お前さんたちが害虫でないなら」
フィヨルニルは微笑みを保ったまま、言った。
「お客人か、挑戦者か、ということになるのう」
「その二つは、どうやって区別なさるんですか?」
俺は警戒した表情で訊ねた。彼は挑戦者という言葉を口にした。それはつまり、彼が暴力的な衝突の可能性を、想定しているということだ。
「客人なら、酒を酌み交わして、楽しい時を過ごし、それから帰る」
彼の眼差しが、ふっと鋭くなった。
「挑戦者は、永遠にここに留まるか、あるいは、さらに先へと進むか――そのどちらかじゃ」
俺は、ぞくりとひと震えした。
本能が告げていた――いますぐ「自分は挑戦者だ」と認めてはいけない、と。だが、フィヨルニルにはすべて見抜かれていた。
「お前さんたちは――」
彼の視線が、俺を見据えていた。
「引き返す気は、ないのう」
俺はとっさに切風翎を具現化した。
だが、俺の反応が零点一秒に満たなかったとしても、フィヨルニルにとっては、まだ遅すぎた――
彼が、こちらに向かって、ひらりと手招きをした。
それだけで、切風翎は俺の手を離れ、彼のほうへと飛んでいってしまった。
ぱしっ、と彼の指の間に収まり、そのまま、そこに止まっている。まるで、俺が小学生で、先生に宿題を提出した、というふうだった。
俺は唖然として、自分が先手を取り逃したことを目の当たりにした。
サチも、ユウキも、ワカナも、警戒した様子で武器を構えた――
ただ一人、フェアリーだけが、巡礼地を訪れた信者みたいに恭しく、ずらりと並んだ食べ物たちと一緒に、その場にひざまずいていた。
「……フェアリー?!」
俺は少し焦った様子で、彼女を見やった。
「ご主人さま、戦闘準備はお下げになって。この方は、わたくしたちに、賜物をくださるためにいらしたのですわ」
フェアリーは顔を上げもせずに、そう言った。
「やれやれ」
フィヨルニルが、笑いながら俺たちを眺めていた。
「お前さんたち、濁世の者たちは、いつまでたっても状況がよく呑み込めぬのう」
彼が、ふっと空中に指を一さし――
あとの三人の女の子たちの手の中の武器も、わけもわからず、するりと抜け落ちていった。
それらの武器はきれいに揃って、フィヨルニルのそばへと飛んでいき、空中に浮かんで止まった。
俺たちの緊張は、さらに高まった。
『俺たちの武器、全部楽々と無効化された!!』
『このボス、レベル高すぎだろ』
『どうすんの』
『勝てる気しない……』
「そう力まんでよい」
フィヨルニルの口調は、さっきまでの穏やかなものに戻っていた。
「お前さんたちが挑戦者だとして、その挑戦の相手は、わしではない」
彼ににこにこと振り返り、後ろの食器棚の中から、ぶどうの房を一つ取り出して、ぷちっと一粒摘み、口の中へ放り込んだ。
「ふむ……」
彼は咀嚼しながら、目を閉じて味わった。
「ちと、酒の匂いがしてきておる。早う食わぬと傷んでしまうのう」
そのぶどうが口に放り込まれる、ほんの直前――そこにいた全員が、目にした。あのぶどうには、にやりと笑った顔が浮かんでいた、ということを。
まるで、自分の謀が成功したと言わんばかりの、その顔を。
「あっ!」
サラミが憤怒の声を上げ、フォークでぶどうを指差した。
「卑劣な果物どもめ!」
「あいつら、本当に許せねえ!」
和牛リブアイがサラミに同調した。
「いつもいつも、自分が傷む速度をわざと早めて、節約家の美食家様に、繰り上げで食わせよう、と」
「果物派閥の策略、また成功しやがった!」
「俺たち、今日の献立、ちゃんと組んでたのによ……」
「果物どもは、いっつもこうやって、横入りしやがるんだ!」
台所中の食材たちが、集団でぼやきはじめた――
そのぼやき方が、なんとも聞き覚えのある雰囲気だった。会社のどこかの部署が、もとは別の部署の手柄だったはずのものを横取りしたときに漂う、あの空気そっくりだった。
『果物派閥??』
『食材同士に派閥争いがあるのかよwwwwww』
『腐る速度を早めるのが戦術www』
『この階層の設計、ほんと面白いな』
『ぶどうたち:ヘヘヘ』
フィヨルニルは愉快そうに、自分に食べてもらおうと寵を競っているような食べ物たちを眺めていた。
だが、彼はそれについて特に何も論評せず、そのままゆっくりとぶどうを噛みしめていた。目尻の皺が、満足げにきゅっと寄っている。
ややあって、彼の視線が俺たちのほうに戻ってきた。
フィヨルニルが、俺を指差した。
「わしは、あの書の作者と、まあ、同じ階層の存在というやつでな……」
彼はゆっくり言った。
「だから、挑戦の対象には、ならんのじゃよ」
「知恵の書、ということですか?」
俺は驚いて訊ねた。
「そうじゃ。正確には、智慧の神の書、というやつじゃな」
フィヨルニルは微笑んで、うなずいた。
俺の頭の中には、その瞬間、十いくつもの疑問が一気にわき上がってきた――知恵の書の作者は何者なのか、フィヨルニルとはどんな関係なのか、この迷宮はいったい誰が築いたのか、なぜ俺なのか、なぜこの時代なのか――
俺がもっと多くのことを彼に訊ねようと、口を開きかけたとき。
彼はこちらの意図を察したかのように、すぐに話題を、自分の望む方向へと引き寄せていった。
「お前さんたちの挑戦というのは、わしのために、害虫をちょいと駆除してもらうだけのことじゃ」
「……害虫?」
「そうじゃよ」
フィヨルニルがうなずいた。
「この台所には、食材同士の戦争とは、まったく別物の、本物の『害虫』というやつが、おる。
わし一人で片付けることもできるんじゃがな、お前さん方のような挑戦者が、どんなふうに害虫を駆除するのか、それを見るのも、なかなか一興じゃ」
「挑戦に成功したら、これらの食物の支配権を、お前さんたちに譲ろう」
「……これらの食物の、支配権?」
ワカナが、こっそり俺の耳元で繰り返した。
「この階層の迷宮の所有権、ってことだろうな」
俺はそう見当をつけた。
「それと同時に――」
フィヨルニルが、また別の場所から、巨大なクッキーの缶を一つ取り出した。
「ちょっと面白い宝物も、いくつかくれてやろう」
その仕草は、孫を使いっ走りに出すおじいちゃん、そのものだった。食器棚から物を引っ張り出す動きまで、まるっきり同じだった。
そのクッキーの缶が、彼の手で、ことんとテーブルに置かれた――俺たちにしてみれば、その缶は、缶というよりも、まるで車庫くらいの大きさのある箱だった。
だが、その箱の意匠はずいぶん凝っていて、蓋には細かな紋様が彫り込まれていた。何かの家紋らしく見えた。
「中には、何が入ってるんですか?」
サチが訊いた。
「ほっほっほ、それは教えられんのう」
フィヨルニルは手を振った。眼鏡の奥の目が、糸みたいに細くなっていた。
「年寄りも、もったいぶらせておくれ。お前さんたちに、ちょっとした励みを残してやろう、というやつじゃ」
『おじいちゃん、可愛い!!』
『ミッションが変わったぞ』
『この階層のいちばん強い人、ボスじゃなくてクエスト発注者だったw』
『害虫って、何なんだ?』
『報酬ボックス!! 中身が知りたい』
「待ってください――」
俺は、やっと口を挟むことができた。
「ひとつ、お訊ねしてもいいですか?」
「ああ、いいとも」
「先ほど、あなたは、知恵の書の作者と同じ階層の存在だと……」
俺は、できるだけ言葉を慎重に選んだ。
「その作者って、どなたなんですか?」
フィヨルニルは、ちょっとだけ笑った。
「ああ、あれかの」
彼は言った。
「あれは、なかなか面白いやつじゃよ。じゃが、その問いに、わしが代わりに答えるわけにはいかんのう――そやつ自身が、頃合いを見て、お前さんに告げるじゃろう」
「それより、もっと差し迫っているのは」
彼は話題を切り替え、視線を台所のどこか別の方向へ送った。
「お前さんたちの仕事のほうじゃ。このわしの台所、ここ最近、害虫にずいぶんと荒らされておる。お前さんたち、ひとつ、やってみる気はないかね?」
俺は隣の仲間たちを見渡した。
それぞれが視線を交わし合い、最終的に、全員の目が、俺の上に集まった。
俺は深く息を吸い、その慈愛に満ちて、なおかつ底の見えない老巨人を見上げた。
「……害虫は、どこにいるんですか?」
「ふふっ」
フィヨルニルは、たいへん朗らかに笑った。
「この台所のどこかにおる。どの世界でも、害虫というやつの習性は、似たり寄ったりじゃ。ちょっと推理してみれば、見当はつくじゃろう」
彼が、ひらりと手を振った――
さきほど取り上げられた俺たちの武器が、ぱっと、それぞれの手の中に戻ってきた。
「健闘を祈っとるよ」
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