第85話 台所の戦国時代
俺たちはそのまま思いきって、炊事場に踏み込んだ。
正直に言うと、ここに入るのに心理的な負担はほとんどなかったし、葛藤らしい葛藤もなかった――入口から漂ってくる食べ物の匂いが、あまりに香しすぎたからだ。
その匂いは、つい先ほど朝食を済ませたばかりの俺たちにすら唾を呑ませるほどで、呑み込まないと本気で口の端からよだれが垂れてきそうだった。
「お昼ご飯食べていい?」
ワカナがそっと訊いてきた。
「朝ごはん、たった今食べ終わったところでしょ」
ユウキがたしなめた。
「そうだけどさ、この匂い――」
「ちょっと我慢して」
炊事場に踏み込んだ瞬間、俺たちは気がついた――
ここは、まんま、台所だった――巨人が使うための台所だ。
何もかもが、巨大だった。
俺たちはまるで、一軒の家の中、料理を作るための専用の場所にやって来た、というふうに感じた――ただし、その家のスケールが、俺たちの数百倍ある、というだけだ。
俺たちの足下には、ビルくらいに大きいコンロがあって、コンロ台の表面は、敷石の道みたいになめらかだった。
遠くの壁には、ありとあらゆるサイズの包丁とお玉が掛かっていた――「ありとあらゆるサイズ」と言ったが、いちばん短いものでも、バス一台ぶんの長さがあった。
空気の中には熱気に押し上げられた細かな油の粒が漂っていて、天井のどこかから差し込んでくる光のなかで、金色にちらちらと光っていた。
「ここに敵がいるって、ちょっと想像つかないなあ」
サチがあたりを見回し、気軽な調子で言った。
「ふっ、巨人じゃなかったらさ、暴走したソーセージとか?」
ワカナが笑いながら言った。
ワカナがそう言い終えた瞬間、俺たちは思い知った――こいつのフラグ立て、本当にろくでもない。
なぜなら、俺たちの目の前に現れたのは、ほかでもない、暴走した一本のソーセージだったからだ。
『暴走ソーセージ!!!!』
『ワカナの口!!』
『ほんとに出てきたwwwwww』
『この階層の設定、ぶっ飛びすぎ』
『ソーセージに目玉がある』
そのソーセージには、アニメの動物みたいなまんまるい目玉がついていて、白目と黒目がはっきり分かれていた。その太い体には、まったくもって不釣り合いだった。
そいつはシューシューと声を立てながら、蛇のように地面にとぐろを巻いていて、全身から食欲をそそる匂いを放っていた――だが、その体格は、明らかに手に持って食べられるサイズじゃない。長さだけでも俺の身長を超えていて、太さも俺の太ももより太いくらいだった。
俺たちを見るなり、そいつはぐっと身を起こした。
背丈は、俺よりまるまる頭ひとつ分高かった。
「警戒!」
そのソーセージが大声で叫んだ。
そいつはどこからか、漏斗を一つ取り出した――
口らしき部分を漏斗の出口に当てて、こう怒鳴った。
「侵入者だ!」
どうやら、漏斗を拡声器代わりに使っているらしかった。
「……」
俺はその光景を見ながら、三秒ほど黙り込んだ。
「マスミ」
サチが小さく言った。
「うん」
「これ、なに?」
「俺にもわかんない」
そいつの後ろから、たちまち大量のソーセージが姿を現した。
ドイツ風血のソーセージ、中華ハム、アメリカンドッグ、イタリアンサラミ――
ありとあらゆる種類のソーセージが、台所のあちこちから湧き出てきて、手にはナイフやフォークの食器を持ち、体には台所紙やラップを巻きつけている。各種の戦甲を着た兵士のように見えた。
『これ、なんのアニメの設定?』
『ソーセージ軍団登場!!』
『あいつらラップ着てる!!wwwwww』
『主、戦うの?』
『待って、いったん状況見よう』
「卑劣な悪党どもめ!」
シンク台の縁に立っていたウィンナーソーセージが、短い四本の脚を踏ん張って、甲高い声で叫んだ。
「あいつら、体があんなに薄っぺらいぞ。間違いなくベーコン側から送り込まれた連中だ!」
「うーん……」
全身から酒の香りを漂わせている一本のソーセージが、疑わしげに言った。
「だが、あいつらの色、白すぎないか? 俺はトースト部族からの来訪者だと思うね」
正直なところ、そいつがどの種類のソーセージなのか、俺にはわからなかった――だが、その匂いから察するに、どこか東アジアのある国の料理に属するもの、ということで間違いなさそうだった。
「あいつらがどの陣営の出だろうと関係ない」
たくましい白プリン・ソーセージが、こちらに向かってフォークを振りかざした。
「俺たちの伏兵をぶち壊したことに変わりはない!」
「ちょっと待ってくれ」
俺はつい口を挟んでしまった。
「俺たち、通りすがりで……」
「台所を通りすがる奴なんていない!」
ウィンナーが甲高く叫んだ。
「台所にいるのは、食材か料理人だけだ! お前らは料理人じゃない!」
「……ってことは、俺たちは食材って意味、なんでしょうか」
ユウキが俺の隣で、小さくつぶやいた。
「あの人たち自身も、よくわかってないんじゃないかな」
俺は言った。
そのとき、突然――
「注意!」
脂と白さがすごい台湾風モチ米腸詰めが、遠くの蛇口のほうを見て叫んだ。
「今度は本物の敵襲だ!」
というか――モチ米腸詰めって、ソーセージ軍団に分類していいのか?
俺は本気で、ツッコミを入れたい気分だった。
だが、こいつらとあまりにも近くに立っていたせいで、俺たちも、敵襲の範囲の中にいることになっていた。
頭にちくっと痛みが走った。
明らかに、何かが俺の頭にぶつけられた――致命的じゃないし、出血もない。たぶん青あざにもならない。
俺の頭にぶつかったのは、ぐにゃぐにゃに柔らかい包装紙の一団だった。
俺はその包装紙を広げて、ちらっと見た。
『80% ダークチョコレート』
俺は、包装紙が飛んできた方向を見やった――
上半身を「裸」にしたダークチョコレートが一塊、野蛮人みたいな雄叫びを上げながら、こちらへ突撃してきていた。
そいつの背丈はだいたい百八十センチ前後、黒くて、てらりと光っている。上半身の「服」(つまり包装紙のことだ)はすでに自分で引き剥がしてしまっていて、あの深い、黒に近い褐色を、全身にあらわにしていた。
そいつの後ろは――
真っ黒一色のチョコレートで埋め尽くされていた。
ミントチョコ、ミルクチョコ、トリュフチョコ、チョコチップ……地平線いっぱいに、色も形もさまざまなチョコレートが、こちらへ押し寄せてきていた。どれも、ものすごい戦意を漲らせていた。
『チョコ軍団キター!!!』
『この戦争、なんなんだよw』
『ソーセージ vs チョコレート??』
『マスミとワカナ、完全に巻き込まれ事故じゃん』
『とりあえず観戦、観戦』
「くそっ!」
サラミが憤怒の声を上げた。
「あの巧克力どもめ、こっちの伏兵を察知しやがった!」
「やつらの好きにはさせん! コンロの高地を、絶対に死守しろ!」
中華ハムは義憤に駆られて、フォークを振りかざし、相手陣営に突撃していった。
そしてあっという間に、彼は勇ましく倒れた。
全身に蜂蜜と香辛料を浴びていた。
彼は、一品の料理に仕立て上げられていた。
「……」
「あの人、いま登場したばっかりだよね?」
ユウキが横でぽかんと呟いた。
「うん、登場して三秒」
俺も続けた。
「それで、もう料理になっちゃった」
サチが補足した。
「なんか、美味しそう……」
ワカナがよだれを垂らしていた。
「卑劣なチョコレートめ!」
ドイツ風血のソーセージが、悲憤に満ちて手にしたナイフを掲げ、敵陣に向かって突進した。
「貴様らをみんな、ホットミルクの中にぶち込んでやる!」
残るソーセージたちも、これに呼応して、命知らずに突っ込んでいった。
この戦闘は、もう、めちゃくちゃに凄惨だった。
ドイツ風血のソーセージは小さく切られ、マスタードをたっぷり塗りたくられた。
台湾風モチ米腸詰めは真ん中で開かれて、別のソーセージを詰め込まれ、おまけにガーリックチップまで振りかけられた。
アメリカンドッグはうっかり酸味のあるピクルスソースの中に転げ落ち、頭から尻尾までケチャップまみれにされていた。
「あいつらの戦い方、お互いを料理にしちゃう、って感じだな……」
俺はぽつりと呟いた。
「この階層のロジック、どうなってんの……」
ユウキも目を丸くしたまま、見入っていた。
「マスミ、見て」
ワカナが遠くを指差した。
「あっち、チョコのほうに、溶けてる人いるよ」
俺は彼女の視線を追って、そちらを見た――
案の定、ミルクチョコレートの一塊が、どこかのソーセージの熱気にあぶられて、肉眼でわかる速度で、ぐにゃりと溶けて液だまりになりかけていた。それでもなお、必死に前へと這おうとしていた。
そして、その後ろにいるソーセージは、ハート型のモールドを取り出して、ヘラで少しずつ、そいつをモールドの中へとかき入れていた。
「……」
「これ、本当に戦争って呼んでいいの?」
サチの表情は、もうあらゆる理性的な思考を諦めていた。
ところが、チョコレートたちが勝利の鬨を上げようとしたまさにその瞬間――
彼らの背後に、新しい敵が現れた。
ベーコン、塩漬けの牛タン、しゃぶしゃぶ用の肉、三枚肉、雲南風の薄切り肉――
おびただしい数の肉のスライスが、調理台の縁にびっしり立ち並んだ。平たい身体が幾重にも重なって、遠目には波打つ厚手の毛布のように見えた。
『また来たぞ!!!』
『肉スライス軍団!!』
『この階層、食材コンプリート過ぎ』
『ちょっと、このストーリーラインの行き先、わかんない』
ベーコンが颯爽と、箸とラップで作った旗を、ぐっと掲げた。
「我ら、いつもは反目しあっている!」
彼が高らかに宣言した。
その声には、なかなかの威厳があった。
「片や円柱、片や扁平――」
ソーセージ軍団のほうから、シューッと息を呑む音が漏れた。
「――しかし、我らは皆、肉である!」
ベーコンが続けた。
「あの糖分にまみれた連中が、我らが肉の同胞を踏みにじるのを、いま、座視するわけにはいかぬ!」
「……!」
ソーセージたちの目が、その瞬間、赤く潤んだ。
おびただしい数の肉のスライスが、雄叫びを上げてチョコレート軍団に突っ込んでいった。
「行け!」
ベーコンが旗を振った。
「脂肪と蛋白質で、糖を打ち破ろう!」
「うおおおお!」
料理に仕立て上げられていたはずのソーセージたちまでもが、なんと、あの蜂蜜やマスタードやケチャップの中から、再び立ち上がってきた。
中華ハムが、蜂蜜ソースの中から這い出してきた。体じゅうから、ソースがまだぽたぽた垂れている。
ドイツ風血のソーセージは、マスタードをぶるんと振り払った。
あの強靱で大柄な戦士が、いつのまにか、四人の精悍な小兵に変わっていた。
アメリカンドッグはピクルスソースの上に踏ん張って立ち、目の中には、これまでにないほどの光を宿していた。
「ベーコン……お前ら、本当に、いい奴らだなあ!」
中華ハムは、感極まった声で言った。
「みんな!」
モチ米腸詰めは、自分の中に詰め込まれていた、よくわからないソーセージをぺっと吐き出して、その手を引いて一緒に戦場へと駆け出していった。
「前後から挟み撃ちだ! あの扁平な連中だけに、この戦争を独占させちゃならねえ!」
「うわああああ――」
チョコ軍団は、この前後挟撃を受けて、慌てて撤退をはじめた。
ほんの数分前まで破竹の勢いだった連中が、いまや、溶けかかった雪のように後退していき、地面には包装紙と、モールドに固められて動けなくなった同胞たちが、点々と残された。
ソーセージ大軍が前へ進み、ベーコン率いる肉スライス大軍とがっちりと手を握り合った――いや、こいつらは大半が手を持たないので、「がっちりと、自分の身体を相手の身体に貼り合わせた」と言ったほうが、正しいかもしれない。
「肉類、ともに、強大に!」
彼らは熱い眼差しで、互いを見つめ合った。
『肉類大同盟!!!』
『この結末、まさかの感動』
『俺、感動じゃなくて空腹で泣いてる』
『脂肪と蛋白質、糖類に勝利』
『この階層、ほんとに、ヤバすぎる』
俺と、後ろの三人の女の子、そして頭の上のフェアリー――
五人で、顔を見合わせた。
「俺たち、いったい、何を見てたんだ……」
俺はようやく、そう口にした。
「……食材の、内戦」
ユウキがゆっくり言った。
「とても感動的な、食材の内戦」
ワカナが付け加えた。
「肉類大団結」
サチがうなずいた。
「ご主人さま」
フェアリーがふわりと俺の肩に降り立ち、いつもどおり真剣な表情で言った。
「お忘れなく。わたくしたち、いまもこの戦場の真っ只中にいるんですのよ」
そこでようやく、俺は気づいた――
俺たちは、ここに入ってからずっと、ほとんど身じろぎもせず、あの二つの陣営(途中で三つになって、また二つに戻った)の戦いを、ただただ眺めていただけだった、ということに。
ソーセージと肉スライスたちは、ここでようやく俺たちに気がついた。
中華ハムが顔を向け、その黒い目玉でじっと俺たちを三秒ほど見つめた。
「……」
「お前たち」
彼が言った。口調にはさっきまでの義憤がなく、代わりに探るような色がにじんでいた。
「どの陣営の者だ?」
「ええと……」
俺は、戦闘が終わったばかりで、体じゅうに各種ソースをべったり浴びている食材たちを見渡した。
「俺たちは、通りすがりです」
俺は答えた。
「本当に、ただの通りすがりで」
台所全体が、もう一度、静まり返った。
それから、ソーセージ陣営と肉スライス陣営の連中が、ぼそぼそと耳打ちを交わしはじめた。どうやら「通りすがり」という言葉の意味について、議論しているらしかった。
俺は深く息を吸い、まずは情勢を観察してから動くことにした。
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