第84話 真理の鏡の最初の機能
「炊事場で、わたしたち、迷子になるんだ」
サチが言った。
「迷子か」
俺は眉をひそめた。
「それくらい、たいしたことじゃない、よね?」
「だよね」
ワカナがうなずいた。
「入ってからの階層、私たちほぼ毎回、迷子状態でスタートしてるじゃん」
「でも……」
サチは首を振った。眼差しはまだ重たかった。
「どうした?」
「今回はね、わたしたち、別れちゃうの」
彼女は言った。
「五人ぜんぶ、ばらばらに分かれる」
「ばらばら、か……それなら、携帯のバッテリーをちゃんと確保しとかないとな」
俺はすぐに携帯を取り出して、確認した。
だがサチは首を振った。
「今回はね、あそこ、ネットに繋がらないんだ」
「えっ、ネット繋がんないの!」
ワカナが、いかにも残念そうに叫んだ。
「じゃあ、配信できないじゃん!」
彼女はがくっと膝をつき、Orzのポーズを作ってみせた。
「ていうか、異世界の中で携帯がネットに繋がってる、っていうのが、もう、まったく説明のつかないことなんだよな」
俺は携帯を見つめながら思った。なんで俺たちは、今までこの点に気づきもしなかったんだろう。
「それは間違いなく、私たちの手元のこれらの神器の作用ですよね。たぶん、何らかの電波転移みたいな機能も搭載してる、ということでしょう」
ユウキは、ずっと前からそのへんを考えていたみたいな顔をした。
それから彼女はサチに向き直った。
「誰かが酷い目に遭ってる場面って、見えた?」
「ううん」
サチは首を振った。
「それなら、そんなに心配しなくていいよ」
ユウキは子どもをなだめるような口調で言った。
「この予言は、私たちが遭遇する厄介事を、前もって知らせてくれてるだけだから。具体的な被害は見えてない、ってことは、事態は最悪のほうには転がらないってこと」
「そっちの捉え方のほうが、健全だよね」
ワカナがうなずいた。
「それと、これって、その状況に対する対策を、事前に立てられるってことでもあるよね」
俺も続けた。
「むしろこれは助かる。何も見えないでぶつかるより、ずっと安心できるよ」
「そっか……」
サチの眉間が、少しだけ緩んだ。
ワカナはそれを聞いて、何かいい思いつきが浮かんだみたいに、目をぱっと輝かせた。
「またろくでもないこと、考えてる?」
ユウキが、もう慣れたものだ、というふうに、疑いの眼差しを向けた。
「ろくでもない、っていうよりさ」
ワカナは笑いながら、胸元から真理の鏡を取り出した。
「機能テスト、って感じかな」
ローズゴールドのチェーンを首から外す。鏡が彼女の掌の中で、ふわっと揺れて、中庭の光を反射した。
俺はその仕草を見つめていた――
それから、無意識に、視線が彼女の胸元のあたりで止まってしまった。
昨晩あんなに触れ合ったばかりで、彼女のあの豊かな胸の輪郭を、いま俺の目が見過ごす、というのは……どうにも難しいらしかった。
彼女はその視線に気づいた。
彼女自身も、ほんのり頬を染めた――首の付け根がうっすら赤くなり、視線が横にすうっと逃げていって、下唇を軽く噛む。
これは、ワカナらしくない。昨夜の彼女は、相当強気だったというのに。
「もう!」
そう照れていたのも数秒のことで、彼女はすぐに大姐頭の様子を取り戻し、ぷにっとした人差し指で、こつんと俺の額をつついた。
「その目つき、ちょっと、悪いよ?」
「……」
「ほら、もうすぐ配信入るんだから、ちゃんと自制してね」
「了解、了解――」
俺は笑いながら、いま彼女が見せた、あの照れた表情を、心の中にそっとしまっておいた。
ユウキは横で俺たち二人を黙って眺めていた。表情ではあえて気にしていないふうを装っていたが、耳がこっそり赤くなっていた。
サチのほうは、ずいぶんと余裕のある様子だった。この程度の戯れは、彼女にとってはもう日常茶飯事なのだろう。
「この鏡だけど」
ワカナは真理の鏡を握り直し、鏡面を自分のほうに向けた。
「私が見たいって思ったもの、なんでも映してくれるの。たとえばさ……」
彼女は意味ありげな目つきで俺を見やった。
「ちょ! 変なとこ映すなって!」
俺はちょっと焦った。
「ちぇっ」
ワカナは「不発に終わった」というふうな顔をした。
「なに恥ずかしがってんの。昨日の夜、みんなとっくに見てるし、使ってるじゃん!」
「……」
「マスミ、そんな反応してたら、彼女、もっとからかいたくなっちゃうよ?」
サチが横で笑って追撃を入れてきた。
「ちょっと!」
俺は抗議した。
「ここ、子どもがいるんだぞ――」
俺は横で見物していたゴブリンたちを指差した。
「わかってるってば」
ワカナは手を振った。
「からかっただけだって」
口ではずっと俺をいじってくるが、口で言うのと裏腹に、彼女は本当に節度ある使い方をして、鏡には、ただ俺の後頭部を映しただけだった。
鏡面には、すぐに映像が浮かんだ――俺の髪の流れだ。一本一本がはっきり見えていて、毛根の生えている角度まで観察できた。
「うわあ」
サチが寄ってきて覗き込んだ。
「ほんとに映ってる」
「マスミ、髪の分け目、だんだん乱れてきてるね」
ユウキが、後ろから指摘した。
「いま、それを議論する場面じゃないよね」
俺はちょっと苦笑した。
「この機能を使えばさ、私たちがどれだけバラバラに分かれても、私からはみんなを見ることができるってこと」
ワカナは優しい目で俺を見た。
「みんなが離ればなれになっても、私はいつでも、みんなの様子を確かめてあげられる」
彼女は続けた。
「これは、本当にいい機能だね」
ユウキがうなずいた。
「少なくとも、誰か一人が全体像を把握できる、っていうのは大きいよ」
「でも、ワカナだけが俺たちの居場所を把握できる、っていうのは、こっちはどうしたらいいんですか?」
俺は訊いた。
「俺たちのほうは、お互いの姿、見えないままじゃないですか」
「鏡って、こんなこともできるんだよ!」
ワカナは、その手を鏡の中へ突っ込んだ――
鏡面が水のようにゆらりと揺れて、彼女の手はそのままするりと通り抜けていった。鏡の表面が、ひとつの入口になった、というふうに。
それから、彼女の手が俺の頭のあるところから、ぺちっと出てきた。
「いた!」
俺の頭が、ちょっとだけ痛くなった。
「何すんの?」
彼女の手は鏡の中へと引っ込んでいった――
その指先には、一本の髪の毛が挟まれていた。
俺の髪の毛だった。
「何するか、って? もちろん、これで呪術かけて、あんたが、あたしの体の魅力に永遠に溺れるようにするんだよ!」
ワカナはからからと笑いながら、その髪の毛を高々と掲げて見せた。
ユウキはそれを苦笑いしながら眺めていた。
サチのほうは、なんだか羨ましそうな顔をしていた――仲間からジュースを一口分けてもらうのを待っている子どもみたいに、あの髪の毛を見つめていて、表情には「わたしも欲しい」と書いてあった。
「携帯でやりとりできないなら、この鏡が、たぶん唯一の連絡手段、ってことになりますよね」
俺は急いで話題をすり替えた。
サチとワカナの組み合わせ、これ以上は、どんどん危険な方向に行きそうだった。
「うん、これで連絡手段の問題は解決した、ってことだね」
俺はワカナの手の中の髪の毛を見ながら、苦笑混じりに言った。
「じゃあ」
ワカナは満足げに、にっこりと顔をほころばせて、ぴょんと俺のそばに寄ってきて、頬にちゅっと軽くキスをした。
「出発しよっか!」
「……」
「公開イチャイチャ」
ユウキが小さくつぶやいた。
「夫婦新婚の甘さをご容赦いただきたく――」
ワカナが言い終わるより先に、ユウキから「殺人犯を見るような目つき」で睨まれて、「夫婦」の二文字をすっと飲み込んだ。
俺たちは漸の台へ転送した。
昨日、俺たちが自らの手で破壊した、あの大地は、今もまだ燃えていた。
二十キロの長さの神木の残骸は、いまも炎の中で広がり続け、塵は空に漂い、遠くの火山も噴火を続けていた。大地ぜんたいが、暴虐の後の死の静けさを纏っていた。
だが、もう、ゆっくり眺めている時間はなかった。
俺はダンジョンの道標灯を掲げた――その光柱が、空一面の塵と煙を貫いて、正確にある方向を指し示した。
俺たちはその光柱に従って進み、神木の残骸を回り込み、いくつものひび割れた地脈を越え、ようやく、入口にたどり着いた。
それは、岩壁に開いた一つのアーチ門で、これまでのどの階層の入口よりも、温かみがあった――アーチの縁には、台所のドア枠みたいな彫刻が施されていて、その上方には、家庭で見かけるような小さな鈴が、ちりんと吊り下げられていた。
通路が開いた瞬間――
熱の流れと、それから、たっぷりの食べ物の香りが、中から流れ出てきた。
肉の煮込み、パンの焼ける匂い、コーンスープ、目玉焼き――
重なり合った匂いが、鼻先を一つひとつかすめていった。どれにも「家」の感覚が宿っていた。
俺たち五人は、肩を並べて入口に立ち、すぐには足を踏み入れなかった。
「……これが、家人の炊事場、か」
ユウキがそっと言った。
「うん」
俺は、前方の食べ物の香りに満ちた通路を見据えた。
「ほんといい匂い……」
サチが思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「入ろっか」
ワカナが真理の鏡を、少しだけ強く握り直した。
「『よし、行くぞ』なんて決心しなくても、みんな、もう中に入っていきたい、って感じだなあ」
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