第77話 土塊のカプセル
互いを嫌悪する感情は、完全には消えていなかった。
ただ、こちらが今、敵がそういうやり方で攻撃してきているのだと自覚できているから、その負の感情を理性で抑え込めている、という状態だった。
けれど、その感情はとげのように、ずっと心の奥底に刺さっていた。心臓が一度脈打つたびに、ちくりと小さく刺さってくる感じがあった。
俺は隣の三人を見渡した。みんな表情は張りつめていて、呼吸まで普段よりやや浅い。何かを刺激しないように、慎重に息をしているみたいだった。
呪術を扱うこの神木は、状態異常を主体に身を守るタイプの相手のようだった――こちらに直接攻撃を仕掛ける必要はない。
仲間どうしで殺し合わせる、それだけで、どんな敵でも門前払いにできてしまう。
「マスミ……」
サチが口を開いた。
表情には、はっきりと尻込みの色が見えた。
「わたしたち、絶対近づかなきゃダメ?」
彼女が怯むのも、無理のない話ではあった。
俺たちは今、あの神木からまだそれなりに距離がある。
さっきの精神への影響も、最大限のものではなかったはずだ。だが、近づけば近づくほど、こちらは制御を失っていく可能性がある。
「もし、わたしたちが互いに傷つけ合っちゃったら……」
サチの声は、さらに小さくなった。
「わたしたちの中の誰かが、取り返しのつかないことを、しちゃうかもしれない」
『サチ怖がらないで!!』
『みんな気をつけて!』
『マスミ、なんか手を打って』
『遠隔攻撃じゃダメなの??』
「それでも、心配だらけでも、私たちは進まなきゃいけないんだよね」
ユウキがサチの隣に立ち、その肩を、ぽんと軽く叩いた。
「上空まで飛んで、焼夷弾みたいなのを投下するっていうのは?」
ワカナはまだ、ろくでもないアイデアをひねり出していた。
「その方法を実行するためにはさあ――」
俺は空を見上げた。
「まず反重力魔法とか、そういうのを手に入れないとですね」
「えーっ、そんな大げさなの?」
「あの樹の天辺、もう成層圏まで届いてるからね」
俺は遠くの巨樹を見据えた。
「で、こんなに離れてるところでさえ、状態異常の効果が、もう俺たちに作用してた。逆算したら、こいつの呪術の効果範囲は、空気のないところまで届いてる可能性すらあるわけ」
「うーん、空気がないと、飛べないよねえ」
ワカナはその結論を、ゆっくり噛みしめていた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
サチが訊いた。
「とにかく、状態異常の影響を避ける手段を探さないと」
俺は言った。
「ずっと一つ、はっきりさせておきたいことがあるんだけど」
ユウキが、ふと口を開いた。
「ん? どんなこと?」
「あれって、魔法なのかな?」
「ユウキさんが言ってるのは……」
「ずっと私たちにかかってるあの状態異常」
彼女はゆっくりと言った。
「あれって、魔法だと思う?」
俺は一瞬、固まった。
「アレルギーは魔法じゃないかもしれないけど……」
俺は少し考えた。
「でも、体力減少と精神への影響、これって魔法を使わずにできると思いますか?」
「薄い毒気とか、フェロモンなら、できるんじゃないかな」
ユウキは言った。
「植物が何かの物質を分泌して、空気を介して広げる。吸い込めばアレルギー、それに加えて、神経系に影響する成分も入ってる、みたいな」
「だとしたら――」
俺は彼女の話を引き取った。
「宇宙服かガスマスクみたいなの、用意するっていうのはどうでしょう?」
「街にいったん戻る?」
ワカナが言った。
「ガスマスクなら、サバイバルゲーム好きの人がよく行く軍用品店に置いてあるはず」
「もっと早い方法、あると思うんですよ」
俺は意識を集中させ、木霊軍団を呼び寄せた。
百万体の青々とした波が、四方八方から戻ってきて、俺たちの足元の高地一面を、びっしりと埋めていった。
「こいつら、山ほどの大きさのものまで作れるんだから」
俺は言った。
「車両一ぶんくらいなら、楽勝でしょ」
『土塊カプセル!!!』
『マスミ、頭の回転速い』
『この方法、ナイスすぎる』
『木霊「家を建てます」』
「でも……」
サチは忙しく動き回る木霊たちを見やった。
「空気を遮断できるくらいに作っちゃったら、わたしたち、外見えなくない?」
「それなら、けっこう簡単に解決できるよ」
俺はポケットから携帯を取り出して、いちばん近くにいた木霊の一体に手渡した。
その子はコンマ数秒、ぽかんとしてから、携帯を受け取って、自分が抱えていた土塊の上にしっかりと固定した。
外から見ると、その姿はやけに愛らしかった――こぶしほどの大きさの、まんまるとした木霊の頭のてっぺんに、携帯がぴょこんと刺さっている。何か画面を内蔵した生体メカみたいに見えた。
俺はワカナにちらっと目をやった。
彼女はすぐに察して、自分の携帯を開き、何度かタップして、両方をつなげた――
こっち側はあの木霊の頭の上のカメラ、向こう側はワカナの手元の画面。
俺がワカナの携帯の画面を覗き込むと、外の景色がはっきりと映っていた。風が梢を揺らす細やかな揺れまで、ちゃんと見えていた。
「これで、外を見るっていう問題は片付いた」
俺はうなずいた。
「マスミ、その頭の使い方、私とどんどん似てきてるね」
ワカナがそう言った。
声には、ちょっとした感心と、ちょっとしたからかいが混じっていた。
「どういう意味?」
俺は一瞬きょとんとして、自分の顔がほんのり熱くなるのを感じた。
「マスミとワカナが、どんどんカップルみたいになってきてる、って意味だよ」
サチが、屈託のない調子でそう言った。
「あんたねえ、その台詞を言うとき、ちょっとも嫉妬の気配がないって、すごいよね……」
ユウキが、信じられない、という顔をした。
「これでいいの。わたし、ふたりとも好きだもん」
サチは、すぐにユウキに抱きついた。
「で、ユウキさんはさあ、いつになったら素直になって、わたしたちの仲間に入ってくれるの?」
ユウキはぱっと頬を赤らめて、俺のほうを見ないように顔を背けた。
俺はあえて、深く考えなかった。今は、それ以外のことに気を回す余裕はない。
俺たちはすぐに作業に取りかかった。
意識を集中させて、指令を伝える――
木霊の一部を使って、俺たち四人と必要な補給品が入るくらいの、中空の巨大な土塊を組み上げてもらう。
残りの木霊は、その土塊の周りに待機して、俺たちと一緒に進める態勢をとってもらう。
木霊たちの作業は、たいへん効率的だった。
それぞれが抱えていた土の塊から土を放出し、中央へと積み上げていく。
何千体もの木霊が連携して動き、土塊の輪郭が、みるみるうちに形になっていった。
内壁は彼らが根を使ってぎゅっと押し固め、外殻は要塞並みに分厚く仕上がった。てっぺんには、俺たちが入れるよう、円形の開口部を残しておいてくれた。
俺たちは順番にもぐり込んだ。
中は思っていたより広めだった――三、四人なら立てる空間で、地面はしっかり踏み固められた泥、空気はやや籠っていたが、呼吸自体に問題はない。
俺たちが入ると、土塊は閉じていった。最後に上から差し込んでいた光がきゅっと絞られて、目の前は真っ暗になった。残るのは、ワカナの携帯の画面の、その小さな光だけだった。
「点けて」
俺は言った。
ワカナが画面をオンにすると、外の景色がぱっと俺たちの前に開けた。
「すごい!」
サチが覗き込んできた。
「VR見てるみたいだね」
「ちょっと揺れるけど」
ユウキが言った。
『土塊カプセル始動!!』
『主たち、いま土塊の中』
『この映像、すげえ独特』
『潜水艦みたい』
土塊は、俺たちを乗せて、神木の方角へとゆっくり進みはじめた。
その移動の仕方は、なかなか面白かった――
周りの木霊軍団が、蟻の引っ越しみたいに、土塊を押しながら、その下に絶えず新しい土を補給していく。
土塊は地面の上を転がっているような形になるのだが、内部の俺たちには、揺れというものがほとんど感じられなかった。
安定して、まっすぐ前へと進んでいく。
俺は、いつもの不快感が襲ってくるのを身構えながら待っていた――
だが、何も来なかった。
頭はくらつかず、アレルギーの兆候もなく、HPは下がらず、あの心をささくれ立たせるような苛立ちも、現れなかった。
「やっぱり、こいつの状態異常攻撃の媒介は空気なんですね」
俺はそっと言った。
「空気さえ遮断しちゃえば、呪いは届かないんだ」
百万体の木霊が後ろにずらりと続いている。進行は驚くほど順調だった。
何の障害もなく、俺たちはいくつもの山道を抜け、いくつもの稜線を越えていった。
あの巨樹は画面の中でどんどん大きく、大きくなっていって、ついにはその幹が、画面の下半分をまるごと埋め尽くしてしまった。
「もうすぐ着くよ」
ワカナがそっと言った。
俺はうなずいて、深く息を吸った。
土塊はそのまま進み続け、最終的に、相対てに安全と思える距離で停止した。
「うわ……」
サチの声が、変わった。
遠くから見ていたときも、この神木はもう十分に異常だった。
だが、その「足元」――いわゆる根の周りに立ってみると――そのスケールから来る衝撃は、もう一段階、別のレベルだった。
幹は、城壁ぐらいの太さがあった。
見上げれば、視界はその果てしない樹皮の文様に埋め尽くされ、さらにその上に、もっと高い幹、もっと高い、もっと高いものがあって、最終的には、人間の目ではもうはっきり焦点を結べない高さで、消えていく。
樹皮の溝の一本一本が、俺たちの体まるごとよりも、ずっと幅広い。
『うわっそのスケール』
『樹の根、ちょっとした山より大きい』
『主たち戻ってきて!!』
『これ、想像と全然違うんだけど』
『樹の根一本で、お前らの体ぜんぶの千倍以上ある』
ようやく、こいつの根元まで辿り着いた。
「で、これ、どうやって対処するわけ?」
ユウキが、半信半疑、というふうに言った。
「それは……」
俺は口を開きかけた。
そして気づいた。何も、出てこなかった。
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