第76話 内輪もめを引き起こす木
言うまでもなく、これが漸の台のボスに違いなかった。
そこに立っているだけで放たれる威圧感が、すべてを物語っていた。
ただ……こいつには、俺たちを攻撃しようとする気配が、まったくなかった。
俺は知恵の書を開いた。
完全な情報を記録するためには倒さないといけないが、少なくとも、そいつが何者なのかは教えてくれる。
ページの上に、その名前が浮かび上がってきた。
『群樹連理の神木』
俺はその巨大な姿を、もう一度見上げた。
神木と呼ばれるのも、まったくもって相応しい――巨大な樹影、計測単位がキロメートルになる体躯。「大きい」ということそのものが、こいつの自衛の手段であり、こちらを追い詰める手段でもあった。
倒すには、必ず近づかないといけない。
ところが、俺たちが十分に接近する距離まで飛んだとき――
「呪い」が効きはじめた。
また、ひどいアレルギー反応に襲われた。
だが今度は、前回とは少し様子が違った。
アレルギーの症状だけじゃない。もっと厄介なのは、別の感覚のほうだった――全員が同時に、強いめまいと頭痛を覚えていた。頭の中を何かにぐっと押さえつけられているみたいで、思考はどんどん狭くなり、ひとつひとつの考えが、分厚いいらだちの膜にくるまれていく。
「マスミ、そんなに先に行かないでくれない?」
ユウキが突然、後ろから口を開いた。声に、これまで聞いたこともないような苛立ちが滲んでいた。
「こっちのことも、ちょっとは考えてよ!」
俺は一瞬、面食らった。
そんなに飛ばしてはいなかった。それに、その口調にこちらまで、軽くカチンとくるものがあった。
「うるさいな」
ワカナがもう一方で口を開いた。口ぶりがそうとう刺々しかった。
「あんた、現役の警官のくせに、運動不足にもほどがあるんじゃない? 普段はサボってばっかなの?」
「どういう意味?」
ユウキが振り向いた。
「ん? 日本語、聞き取れない? それとも、もう一回言ってほしい?」
ワカナはまるで挑発するように、言葉を重ねていった。
サチはずっと黙っていて、口を挟まなかった。けれど、その目つきは、誰が見ても拗ねた怒りを抱えていることがわかった。同時に、その怒りをどこに向けたらいいのか、わからない、という戸惑いも混じっていた。
俺自身の心の中も、苛立ちでいっぱいだった。
空気が変わった。
俺たちのあいだにずっとあった、互いを気遣う、あの感覚――それが、もう、ずいぶん前の思い出みたいに遠かった。
今朝はまだ、一緒に山に火をつけて回っていたはずなのに。昨夜はまだ、あの場所で互いに気持ちを伝え合ったばかりだったはずなのに――
今は、その感覚が、ずいぶん遠かった。あのとき自分がどんな気持ちでいたのか、ほとんど思い出せないくらい、遠かった。
『えっ、雰囲気おかしくない?』
『何で揉めてんの?』
『主たち落ち着いて!!!』
『この喧嘩、ポイントが意味不明』
『なんでこのタイミングで揉めるの!』
『目の前にまだ敵がいるの忘れないで!』
ユウキとワカナの口論は止まらず、声はどんどん大きく、鋭くなっていって――
ついには、ワカナが石ころを拾い上げ、ユウキに向かって投げつけた。
殴り合いになった。
味方どうしで、殴り合いになった。
サチは頭を抱えてしゃがみ込み、声を上げて泣き続けていた。
ユウキとワカナは互角に殴り合っていた。どちらも、もとからか弱いタイプじゃない。
二人がぶつかり合う様子は、もはや観戦料が取れるんじゃないかというほどの応酬だった。
「なんでよ! マスミがあんたみたいな女と付き合うなんて!」
ユウキが憎しみのこもった平手をワカナの頬に叩きつけた。その音と力に、俺自身もぞっとするほどだった。
「あんたに関係ないでしょ!」
ワカナがすぐに平手を打ち返した。動きが速すぎて、ほとんど時間差というものがなかった。
「あいつとあたしが何年知り合いか知ってんの? 福原幸さえいなかったら、あたしらとっくに付き合ってんのよ!」
「やめて! やめて! やめて!」
サチは地面にしゃがみ込み、両手で頭を抱えて、泣き混じりの声をあげた。
「わたしを巻き込まないで、お願いだから――」
サチは生まれつき、人と争うのが苦手だった。だから、いま全員が制御を失っているこの場面でも、彼女の取った行動は、とにかく自分を守ることだった。
二人は、完全に理性を失ったというふうではなかった。
だが、互いへの憎悪と嫌悪の感情は、明らかに、思いきり引きずり出されていた。
普段は礼儀、友情、信頼によって押さえつけられているものが、この瞬間、そっくり表に引きずり出されていた。
俺もどんどん苛立ってきていた。
ただ、理性の最後のひと欠片だけは、まだ残っていた。だから、手は出さずにいた。
俺は、二人が言い争うのを、殴り合うのを、サチが泣くのを眺めていた――胸の中の「何かしないと」という声が、どんどん遠ざかっていく。遠ざかって、遠ざかって、もうほとんど聞こえないところまで、引いていきそうだった。
『主、ぼーっとしてる場合じゃないだろ!!』
『お前が止めろ!!』
『マスミ!!マスミ!!』
『落ち着いて!!』
『こんなどうでもいいことで内輪揉めしないで!!』
俺たちは、誰も気づいていなかった――俺たちは、すでに敵から攻撃を受けている真っ最中だった。
この呪術師の呪いは、こっちが思っていたよりも深く、陰険だった。
こちらの心の中に火を放ち、自分で自分を燃やし尽くさせる――そういう類のものだった。
ちょうど、そのとき――
俺の携帯から、突然、大量の投げ銭の通知音が鳴り出した。
ピロロン――
ピロロン――
ピロロン――
立て続けに、まるでこちらの注意を引こうと意図しているみたいに。
俺たちは呪術師の精神干渉を受けていた。だが、画面の向こうの視聴者たちは、そんな影響を受けていない。
俺はちらりと携帯に目をやった。
配信画面の中で、視聴者たちが必死になって心配と励ましのコメントを流していた。各種のSE音が次から次へと響き渡る――
投げ銭の音、新規フォロワーの通知、そのひとつひとつが、画面越しに俺たちの名前を大声で呼びかけてくれているみたいだった。
『主、目を覚まして!!!』
『ワカナ!! あんたユウキのこと好きでしょ!! 思い出して!!』
『マスミは、みんなの彼氏なんだぞ!!』
『サチ泣かないで!! わたしたちここにいるよ!!』
『揉めてるってことは絶対、神木が攻撃してるんだって!!』
『撤退!! とにかく撤退!!』
この視聴者たちが、なんとかして手を打って、俺たちの正気を引き戻してくれた。
着信音と通知音とで、みんなの意識が、ふっと醒めた。
ただの注意の引き戻しに過ぎなかったのだが、これが思いがけず効いた。
あの音たちは、俺をどんどん深く沈んでいく井戸の底から、引き上げてくれた――
空気がいきなりクリアになり、思考の回路が再びつながった。それでようやく、俺は気づいた。自分がいったい、何にぼうっとしていたのか、と。
ワカナが先に動きを止めた。
その手はまだ宙に上げたままで、頬にはユウキにさっき叩かれた赤い痕が残っていた。彼女は二秒ほど呆然と立ち尽くし、ゆっくりと手を下ろし、それから、自分の手の中の石ころを見おろし、ユウキの頬の赤い痕を見やった。
「やってくれるじゃん――」
ワカナは小さくつぶやいた。声音がだいぶ穏やかに戻っていた。
「あの呪術師、こんなに離れてるのに、私たちを同士討ちで全滅一歩手前まで追い込みかけたわけ……」
ワカナはユウキのもとへ歩み寄り、自分が叩いてしまったほうの頬を、そっと撫でた。割れもののように、慎重な手つきだった。
「ごめんね」
彼女は静かに言った。
ユウキは黙ってその顔を見つめていた。表情がだんだん柔らかくなっていき、目元がうっすらと赤くなった。
サチも地面から立ち上がった。目はまだ濡れていて、頬には涙のあとが残っている。
彼女は二人のところへ歩み寄り、ワカナをちらりと見て、ユウキをちらりと見てから、いきなり二人にぎゅっと大きな抱擁をして、そっと言った。
「ユウキさん……」
ユウキが顔を向けた。
「もし、わたしとワカナが二人ともマスミと付き合ってて、ユウキさんだけ、自分が外されてるみたいに感じてるのなら……」
サチの声はとても小さかったが、ひと言ひと言は、はっきりしていた。
「ユウキさんも……」
ユウキは、サチがその話を切り出すのを聞いた瞬間、顔がぱあっと赤くなった。
熱を持った紅が首の付け根から上へと這い上がっていって、耳まで赤くなった。
「あ!」
ワカナの目が、ふいに輝いた。あの大姐頭の豪快な調子が、一瞬で戻ってきた。
「ユウキも、一緒にマスミの彼女になっちゃえばいいじゃん! そしたら三対一になるしさ!」
「いや……あの……でも……」
ユウキの声には慌てた様子が滲んでいて、ちょっと可愛らしかった。
『おーい、俺の意見も聞いてくれよ』
心の中ではそうつぶやいたが、表情は微笑のままに保っていた。
『ワカナの推しwwwwwwww』
『また一人増えるw!!!』
『主「俺も発言したい」』
『ユウキの顔、真っ赤!!』
『この展開、最高すぎない?』
『つーか、さっきまで殴り合ってた』
『次の瞬間、即推し勧誘って、切り替え速すぎだろw』
俺は、シンプルにみんなに思い出してもらった――
「とりあえず、じゃれ合うのはあとでね」
俺は言った。
「敵さん、まだ平気な顔で、あそこに突っ立ってるんだから」
四人が同時に振り返り、遠くの、雲を貫いて聳えるあの巨樹を見た。
そいつは相変わらず、静かにそこに立っていた。葉が風の方向に従って揺れていて、見た目は何の動作もしていない――だが、俺たちはすでに身をもって学んでいた。こいつの攻撃には、動作なんて必要ない。ただ、そこに「在る」というだけで、十分なのだ。
近づいただけで、俺たちはこのざまだった……
俺はその巨大な神木を見つめていた。胸の奥で、呪いから抜け出したばかりの動悸が、まだ完全には引いていなかった。
「これ、どうやって倒すの?」
サチがそっと尋ねた。
俺は、すぐには答えを出せなかった。
風が、あの樹の方向から吹いてきた。重たくて、古い森に属するあの匂いを、また連れていた。
俺の手元には、百万体の木霊軍団がある。ここ数日で積み上げてきた相応の力と装備もある。それでも、なんとなく感じていた――この大物を相手にするには、これではまだ、足りないのだと……
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