第224話 危うく捕まるところ
まだ繋がったままのラットンの携帯の通話画面越しに、俺は目の前で展開していく光景を見つめていた。
この魔像の体を得てから、電子信号を通して届く映像や音には、どこか言葉にしづらい実在感がある。ただの目や耳で見聞きするのとは違う、それ以上の何かがそこにあった。
あの電話のカメラとマイクは、まるで俺自身の感覚器官がそのまま伸びていったかのようだった。地面を淡く撫でていくサーチライトの光の筋、マイクに轟々と吹き込む風の音、絶え間なく響き続ける艦艇のエンジンの低い唸り。
「少々お待ちを」
担当官が顔を上げ、手にしたフォルダをめくる手をぴたりと止めた。声が冷たく変わる。
「ラットンさん、見覚えがあります――ダリエン地峡の麻薬王ですね。指詰めのマルコの手下だ!」
画面の向こうで、ラットンの顔から一気に血の気が引いた。唇は動いたが、言葉は一つも出てこない。こめかみを汗が伝い落ち、視線は凍りついたように固定され、スピーカー越しに兵士たちの足音が一歩ずつ迫ってくるのが聞こえた。
ラットンの後ろに控えていた、エンヴェルの見張り役のエインヘリャルも前に進み出た。
「今日の引き渡しとは関係ないことです」
エンヴェルがすぐさま割って入った。声はあくまで平静で、余裕さえ滲んでいる。
「彼は今日、私に付き添ってきただけです。引き渡しを担当しているのはこの私だ。優先順位くらい、そちらも分かっているでしょう」
「身元が確認された以上、その場で拘束する義務があります」
担当官の姿勢は揺るがなかった。
「今日の引き渡しを担当していたかどうかは、また別の話です」
「では、具体的にどうするつもりですか」
エンヴェルの声は落ち着いたままだったが、目つきがわずかに鋭くなった。
「交渉の余地はありません。ただちに拘束します」
担当官はそう言いながら、すでに目配せで兵士たちに合図を送っていた。
背後でエインヘリャルたちが武器に手をかけ、体の表面にかすかな霊光が波打った。
「彼はただの小物ですよ」
エンヴェルはまるで大げさに騒ぎすぎだとでも言いたげな表情を作った。
ラットンの膝がわずかに崩れかけた。エンヴェルが素早くその腕を掴んで支え、視線は担当官に据えたまま離さなかった。
「せめて、こちらの上司に連絡を取らせてください。麻薬密売人を一人二人捕まえるのとは、わけが違う話です」
担当官は二秒ほど躊躇い、それから頷いた。
エンヴェルはすぐに携帯を取り出し、ワカナの番号にかけた。声を低く、早口に押し出す。
「何かあった。ラットンを拘束しようとしてる」
ワカナの顔が瞬時に強張り、すぐさまユウキのほうを振り向いた。
「あっちでラットンが止められてる!」
ユウキはほぼ同時に自分のスマホを掴み、一瞬の躊躇もなく外務省の番号にかけた。
「ユウキです。現場でトラブルが発生しました。すぐに調整をお願いします」
しばらく膠着状態が続き、スピーカー越しに防波堤に打ち寄せる波の音が、やけにはっきりと聞こえてきた。
ラットンはエンヴェルに寄りかかり、膝はまだ震え続けていて、歯の音が自分でも抑えられないほどカチカチと鳴っていた。
エンヴェルは片手でラットンを支え、もう片方の手で携帯を強く握りしめ、画面越しの視線は担当官から一度も逸れなかった。
ようやく担当官のイヤピースに指示が入り、その表情がいくらか緩んだ。彼が二人のほうを向く。
「上からの指示です。今回は拘束を見送ります。引き渡しは予定通り進めますが、事後の調査には協力していただきます」
そこでようやくラットンは震える息を吐き出し、体がそのまま地面に崩れ落ちそうになったところを、エンヴェルが支えて留めた。
「ちっ……何が事後調査だ、マスミが指詰めのマルコの巣を丸ごと潰したのを知らないのかよ!」
ワカナが自分のスマホの画面を睨みつけ、怒りに満ちた声で吐き捨てた。
「よし、もう大丈夫だ」
画面の向こうで、エンヴェルがラットンに笑いかけた。だが携帯を握る指の関節は、先ほどよりもさらに白くなっていた。
コンテナがゆっくりと開き、担当官が引き渡し書類をエンヴェルに向けて差し出し、記入を促した。二人は兵士たちが中の装置を確認していく様子を見守り、それ以上何も言わなかった。
弾頭を受け取った瞬間、ラットンは再び海程の錨を操作しようとしたが、服の中に隠れていた小さなピクシーたちのほうが待ちきれなかったらしく、勝手に瞬間移動を発動させた。
光の輪が再び展開し、二人の足元の地面が一瞬だけ重みを失った。
画面の向こうでラットンがよろめきながらも足を踏みしめ、重い装置を抱え込んでいるのが見えた。一方のエンヴェルは、まるで引き渡しの一部始終がただの散歩でもあったかのように、涼しい顔で服についた埃を払っていた。
「ラットン!」
ワカナが駆け寄って体を支え、顔を丁寧に確かめた。
「大丈夫? さっき本当に肝が冷えた」
「だ、大丈夫……ちょっと足に力が入らなくて」
ラットンの声はまだ震えていて、両腕は装置をしっかりと抱え込んだままだった。
サチの風纏う爪が伸びて、装置の反対側を支えた。
「よく頑張ったね。少し座って休んで」
そこでようやくラットンは手を離し、サチに装置を任せて地面に座り込み、荒く息をついた。
ユウキがエンヴェルに目を向けた。
「さっきの判断、助かった」
「大したことじゃない」
エンヴェルは肩をすくめたが、視線はちらりとラットンのほうへ向き、本当に無事かどうか確かめているようだった。
セバスティアンの触角がラットンのほうへ伸び、声が重くなった。まだいくらか心配が抜けきっていない様子だった。
「あと一歩遅れていたら、我々が実力行使に出る羽目になっておりました」
「もうこいつをこの手の仕事に出すのはやめとこう」
アラユが言った。巨大な鋏が落ち着かなげに開閉していて、まだ驚きの余韻から抜けきっていない様子だった。
「その話は一旦置いておこう」
俺は感覚をサチが抱えている装置に向けた。風纏う爪を通して伝わってくる、重く冷たい金属の感触。事前に確認したファイルの論理構造が頭の中に再び広がり、判断が一つひとつ順序立って並んでいく、その明瞭さに自分でも驚くほどだった。
「本物だ。状態も、以前確認したファイルの内容と完全に一致してる」
「じゃあ、使える状態ってこと?」
アラユが身を寄せ、巨大な鋏を宙に浮かせたまま、実際に触れることまではしなかった。
「たぶん」
その重みが今、俺の感覚の奥深くにずしりとのしかかっていて、思わず息を止めてしまう。
「ただし、これを起爆する段階になったら、みんなは巽の窓の中にいちゃいけない」
「分かった」
ワカナが頷き、みんなに撤収の準備を促し始めた。それ以上誰も何も尋ねなかった――こういうものが起爆すれば、近くに残っている者はただ無駄死にするだけだ。
サチの風纏う爪が伸びて、俺の体に一瞬触れた。そのまま入口のほうへ向きかけたところで足を止め、俺を振り返った。
「待って、あなたは? あなたも一緒に外に出るんだよね?」
「俺は出られない」
俺は正直に答えた。
「これは最初から最後まで俺自身が操作しなきゃいけない。俺はここに残る必要がある」
「え?」
ユウキが勢いよく振り返った。
「その感覚でファイルの中身を読み取れるんでしょ? だったら、さっきラットンのほうを見てたみたいに、映像越しに遠隔操作すればいいんじゃないの?」
「操作手順自体は問題じゃない」
俺は言葉を切り、もっとはっきり伝えようとした。
「これは第四の頭目に対処するためのものだ。だけどあいつは目に見えない、微小な漂う粒子で、影すら映らない。カメラのレンズ越しじゃ、あいつの位置を掴む方法がない」
「その位置を掴むのに、あなたが直接その場にいる必要があるってこと?」
ユウキが眉を寄せた。
「そうだ。前にあいつの存在を感知できたのも、俺自身がその範囲の中に物理的にいたからだ」
俺は言った。
「画面とマイク越しの映像や音がどれだけ鮮明でも、あのレベルのものは捉えられない。俺が直接その場にいて、位置を追跡しながら同時に装置を操作しないといけない」
「爆発範囲は広いけど、あいつの動く速さは理屈を超えてる……その間ずっと、現場でずっと追跡し続けないといけないんだ」
「つまり主様は、絶対に現場を離れられないということでございますな」
セバスティアンが言い、触角を垂れさせ、声がさらに重くなった。
「そうだ。それに、操作を先に進める前に、あいつの位置を完全に固定しておく必要がある」
俺は言葉を切った。
「その間ずっと、俺はここから一歩も動けない」
サチの風纏う爪が急にきつく締まった。声がわずかに震える。
「じゃあ核爆発が起きたら、あなたは――」
「この体の設定は全部確認した。あのレベルの衝撃には耐えられるはずだ。でもみんなの体は絶対に耐えられない」
俺は声をできるだけ落ち着かせようとした。
「だからみんな先に外に出てくれ。俺はここに残って片をつける」
ワカナは口を開きかけたが、結局それ以上何も言わず、ただ固く頷いた。
アラユの巨大な鋏が無意識のうちに何度か開閉し、低いため息をついたが、それ以上反論はしなかった。
フェアリーが俺の肩まで飛んできた。声はいつもよりずっと柔らかい。
「あの子たちに入口を見張らせておきます。中の様子はずっと見ておきますから」
地面に座り込んでいたラットンが、その一連のやり取りを聞いていて、不意に口を開いた。
「あの……弾頭はもう届けましたし、そろそろ戻って休んでいいですか」
「もちろんだ。よくやってくれた」
俺は言った。
エンヴェルがラットンの肩を叩き、地面から引き起こした。二人は一緒に一行の後方へ下がっていった。
「そろそろだな」
俺はみんなの顔を見渡した。
「みんな先に出てくれ。ここが終わったら、俺もすぐ出て合流する」
サチはまだすぐには離れようとせず、風纏う爪をしばらく俺に触れさせたままにしてから、ゆっくりと引いた。
「じゃあ、早く出てきてね」
「ああ」
俺は頷いた。
ワカナが最後にもう一度俺を見てから、みんなと一緒に瞬間移動していった。
その瞬間、一時的に収まっていた上昇気流が再び激しく吹き荒れ始めた。
だが今度は、それに吹き飛ばされる者はもう誰も残っていない。
仲間たちの携帯からの信号が、俺の機械的な意識を通して届き続け、配信のコメントが途切れることなく流れ続けていた。
『こいつ本当に肝が据わってるな』
『現地で核弾頭起爆する気なの!?』
『すごすぎる、こんな実績誰も達成したことないだろ』
『これスクショして自慢しなきゃ』
「ここまで見せたのは、本当にまだ序の口だから」
ワカナがカメラに向かって笑いかけ、わざと軽い調子で話題をそらしながら、話しつつも指は画面の上を忙しく滑っていた。
俺のセンサーが、巽の窓からみんなの気配が完全に消えたことを確認した。
「よし……やるか。この特大の花火、どこで打ち上げるか見てみよう」
俺自身は何の高揚も感じなかったが、もし今この瞬間、まだ肉の体を持っていたなら、心臓は激しく鳴り響いていたはずだと分かっていた。




