第20話 渙の泉庭
第三層に踏み込んだ瞬間、まとわりつくような濃い湿気が顔に押し寄せた。
第二層まではまだ見られた乾いた土や硬い岩が、ここでは跡形もなく消えていた。
代わりにあるのは、水が滲み出た丸石、滑りやすい苔、そして空気中に漂う細かな水霧だった。
「知恵の書」が宙で自動的に開き、淡い金色の光が霧の中でぼんやりと滲みながらも、文字だけははっきりと視界に映った。
【木の迷宮、巽の塔 第三層 ——渙の泉庭】
「渙の泉庭……?」
周りを見回したが、想像していたような噴き出す泉や趣ある庭園はどこにもなかった。
足元の石段の先には、とてつもなく広い水域が広がっていた。
対岸が見えないほど広い。
しゃがんで水をすくい、匂いを嗅いでみた——
海水の塩気はなく、淡水特有の涼やかな匂いだけがした。
水面は鏡のように静かではなく、ゆっくりと、しかし確かに一定の方向へ流れていた。
泉というより、底も見えず、湖ほどの幅を持つ大河と呼んだほうが正確だ。
「ずいぶん誤解を招く名前だな」
立ち上がって、手についた水を払った。
地面はひどく濡れていて、ブーツが踏むたびに不快な水を押し出す音がした。
ダンジョンの道標灯を起動した。
出口を示す微かな光の点が点滅しながら、幾重にも重なる水霧を貫いていた。
それはこの広大な水面の、真正面の対岸を指していた。
これは困った。
目の前に広がるのは、渡りようのない深水だ。
「マスミ、泳いで渡るの?」
サチが寄ってきて、その底の見えない墨色の水面を覗き込み、首をすくめた。
「私、一応泳げるけど……」サチの声に自信がなかった。
「考えもしないで!」俺はすぐに止めた。
「流れは遅いが水深がある。暗流がどこにあるか分からないし、泳いで渡るのは危険すぎる」と俺は眉をひそめた。
「それに水の中に何がいるか分からない。
いや、絶対に何かいる。
友好的じゃないやつが」
俺一人なら「化身」を使ってピクシーか雷霊鳥の形態に変わることもできる。
ピクシーは遠くまで高く飛べるわけじゃないが、水面すれすれに飛べばとりあえず溺れずに済む。
でもサチはそれができない。
彼女は俺の「運命型タンク」であり、このパーティの盾だ。岸に置き去りにはできない。
風呼びの杖を取り出して、身につけているピクシー女王の首飾りと合わせた。
「風魔法でお前を吹き飛ばせるか試してみる。少なくとも浮かせることができれば……」
体内の魔力を導こうとした。
しかし二つの装備から返ってくる感触は、
ひどく荒々しかった。
風の元素の旋律が頭の中で響いたが、
それはすべて鋭く、破壊的な音符だった。
「無理ですよ、主人」
後ろから優雅だが少し複雑な声が聞こえた。
フェアリーが俺の肩にそっともたれかかり、手の中の風呼びの杖を見ながら、微妙な表情を浮かべた。
「あれは戦闘用の装備です。首飾りも杖も、設計された目的はただ一つ——目の前の敵を全部引き裂くことです」
「呼び出せるのは純粋な攻撃魔法だけです。
それでサチさんを浮かせようとしたら、
対岸に届く前に乱流で細切れになってしまいます」
フェアリーはサチと張り合うのが好きだが、彼女が無残に死ぬのを見たいわけじゃない。
それに、こういう場面で黙っていて本当に事故が起きたら、俺が自分を責めて立ち直れなくなることも分かっていた。
サチが一歩後ろに飛び退いて、手の中の警棒をぎゅっと握った。
「他に方法はないのか?」俺はフェアリーを見た。
「お待ちいただけるなら、『魔術研究所』に新しい魔法結晶の開発を依頼できます」
フェアリーが両腕を組んで、少し専門的な口調になった。
まるで商談中の敏腕マネージャーのようだった。
「具体的にどんな効果が欲しいか言っていただければ、見積もりを出して奴工と風術師に開発を手配します」
「新しい魔法結晶を開発する……それはいい案だな」
環境を確認しながら、頭の中で計算した。
「飛行魔法を開発してくれ。人を短時間浮かせて移動できる補助魔法でいい」
「承りました、主人。合理的で的を射たご要望です」
フェアリーは頷いて、碧緑の瞳をくるりと動かした。
「巽の塔にはすでに風属性のエネルギーが広く存在していますので、
出力と安定性を調整するだけで済みます。
それほど時間はかかりません。
一、二時間もあれば成果が出せるかと」
「新しい魔法を開発するとなると、
研究コストもかかるよな?」
「秘醸蜜を工賃として投入していただく必要があります。実験材料として不特定のリソースも少々」
フェアリーが優雅に二本指を立てた。
「まず秘醸蜜を20単位、奴工と風術師への報酬としてお支払いください」
頭の中でそろばんを弾いた。
秘醸蜜20単位……
俺の配信での販売価格は一本六千円だが、
今や外の闇市や転売業者はすでに一本二万円以上で売っていて、
それでも供給が追いついていない。
市場価値で換算すると、この魔法を開発する原価は四十万から百万円くらいだ。
でも実際のところ、ピクシーに秘醸蜜を生産させるのに俺が投入するものは時間以外に何もなく、コストはゼロだ。
「契約成立」俺はあっさり答えた。
この「飛行魔法結晶」の量産に成功すれば、その価値は計り知れない。
将来の災害救助や軍事利用で地形を無視して移動できるこの道具は、数万円で済む話じゃないだろう。
間違いなく元が取れる投資だ。
「知恵の書」の「魔術研究所」インターフェイスが点滅し始めた。
【依頼任務:《浮空移動》開発】
【消費:秘醸蜜 ×20】
【進捗:研究中……
完了までの予想時間:1時間52分】
「まだ二時間か……」
サチが濡れた石の上にどすんと腰を下ろして、水筒を取り出した。
「ここで待ちながら配信でみんなとおしゃべりしない?どうせ今は渡れないし」
俺は頷いた。
でも実際は、研究の完了を待つ以外にも、もう一つ気になっていることがあった——祐希と勇気の剣のことだ。
彼女は今頃、第一層の「観の門」で三つの扉の選択をしているはずだ。
サチと俺の経験から言えば、知恵の書や幸運の指輪を手に入れるのにそれほど時間はかからない。
この迷宮は、ただ選べと言ってくるだけだから。
でも、もう四十分近く経っている。
祐希からは何の連絡もない。
チャット欄は相変わらず猛烈な勢いで流れていて、視聴者たちはこの謎めいた「渙の泉庭」に興味津々だった。
『これって本当にダンジョンなの?室内の大運河じゃん!』
『配信者が魔法を開発してるの!?そんな機能があるの!?』
『そういえばあの警察のお姉さんはどこ?中で何かあったんじゃ……』
『縁起でもないこと言うな、あの人は国民的ヒーローみたいなもんだぞ。根性はお前より上だ』
水霧の漂う川面を見ながら、少し胸がざわついた。
俺にはこの迷宮の支配権がある。
「迷宮の影」を通じて、いつでも第一層の状況を確認できる。
「主人、剣を取りに行った彼女のことが心配ですか?」
いつの間にかフェアリーが耳元に来ていて、その声はあからさまに嫉妬っぽかった。
「……彼女は俺たちの協力者だ」俺は冷静を保とうとした。
「ふん、『勇気の剣』を取るくらい待つまでもないはずです」フェアリーは不満そうに顔を背けて、指先で自分の髪をくるくる巻いた。
「それに、ここは完全に主人が支配している場所です。こんなに時間がかかっているということは、きっと勇者の責任が重くて怖気づいたんでしょう」
「そんな人のことは放っておいてください、主人。傍に私がいれば剣士なんて必要ありません」
この嫉妬丸出しの様子が、少し張り詰めた空気を和らげてくれた。
「マスミ、見に行く?」サチも振り返って聞いた。
「もし本当に剣を手に入れたなら、
三人とフェアリー合わせてこの大河を攻略するほうが、ずっと確実だと思う」
しばらく黙った。
「おかしい」
「巽の塔の最初の二層はすべて俺の支配下にある。それなのにこんなに時間がかかっているということは、一つしか考えられない——
俺の支配が及ばない外来者が塔の中に入り込んで、しかも祐希と鉢合わせた。」
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