第197話 毒ガスではなかった
「毒ガスの疑いがあるなら、まず防護しよう」
ワカナが真理の鏡を探り始めた。表面がいつものように波打つ。
「ガスマスクがこういう時に役立つはず」
彼女は鏡の中からしっかりとした造りのガスマスクを何個も取り出し、みんなに配っていった。
「これ、結構本格的だね」
サチが興味深そうに受け取り、もたつきながら顔に装着しようとした。
ワカナはアラユのマスクを調整しようとしたが、すぐに眉をひそめた。
「あれ、このサイズだと全然合わない」
アラユの紫がかった赤茶色の大きな鋏の上には、人間とはまるで違う形の頭があり、マスクの縁がその甲羅の独特な輪郭にまったく密着せず、あちこちに隙間ができて空気が漏れてしまう。プルートゥンシャの灰白色の甲羅に覆われた頭も同じ問題を抱えていて、ベルトをどう調整してもしっかり固定できなかった。
「これじゃ防護にならない」
ワカナが困ったように顎をさすっていたが、不意に何かを思いつき、また真理の鏡に手を伸ばした。
「ちょっと待って!」
彼女はシリコンコーキング剤のチューブを何本かと、小さなコーキングガンを取り出した。
「ホームセンターにある普通のやつ、配管の隙間を埋めるためのものだけど、これで何とかなるはず!」
「本当にこれで大丈夫なのか?」
アラユがその白っぽいペースト状のものを疑わしげに見つめた。
「信じて!」
ワカナはマスクの縁に沿ってシリコンをきれいに絞り出し、アラユの頭の輪郭に合わせて丁寧に伸ばして押さえつけ、空気が漏れていた隙間をすべて塞いでいった。
「これ、乾く前は柔らかくて、どんな形にも馴染むし、固まったら気密性の高いシールになるんだよね。お風呂とか配管の補修にも使えるやつ!」
アラユはむず痒さを我慢しながら、ワカナに頭の周りをコーキングされるままになっていた。声には渋々といった様子が滲んでいる。
「この匂い、結構きついな」
「我慢して、すぐ乾くから」
ワカナはてきぱきと次にプルートゥンシャのマスクへと移り、その甲羅の頭の凹凸に沿って丁寧にシールしていった。
しばらくすると、シリコンは乾いて固まり、しっかりとした柔軟な密閉を形成し、ようやくマスクが合わないという問題が解決した。
「フィルターのキャニスターがちゃんとした位置に来ないと機能しないから」
ワカナは密閉具合を確認しながら、マスクの装着にまだ不慣れな海民の何人かの調整を手伝った。
アラユはマスクの不快感に耐えかね、何度も紫がかった赤茶色の大きな鋏で外そうとしたが、そのたびにプルートゥンシャに腕を掴まれた。
「我慢しろ。これがお前の命を守ってるんだぞ」
「この見た目、なかなか間抜けだな」
ニャリクはみんなのマスク姿を見て思わず笑ってしまったが、それでも素直にワカナに自分のマスクを調整してもらっていた。
みんながマスクを装着し終えると、俺たちは慎重にあの石碑へと近づき、さらなる調査を始めた。
だがマスクをつけていても、あの息苦しい感覚はまったく和らがなかった。それどころか、時間が経つにつれ、ますますはっきりと感じられるようになっていった。
「変だな、なんでマスクつけてるのにまだ息苦しいんだろ」
ワカナがマスク越しにくぐもった声で、眉をひそめながら尋ねた。
「分子量がとても小さい気体かもしれない」
ユウキの声もくぐもっていたが、重々しさが滲んでいた。
「一酸化炭素やシアン化水素みたいなもの。フィルターの吸着能力にはそもそも限界があるから、完全には除去しきれないのかもしれない」
「じゃあ私たち、今本当に危険な状態にあるってこと?」
サチが不安そうに尋ねた。
俺たちはさらに石碑に近づいていったが、空気の違和感は進むほどに強まっていくばかりだった。
「なんで耳がこんなに詰まった感じがするんだろ」
ニャリクが自分の耳をさすりながら、困惑気味に言った。
「すごく深い水の中から浮上した時みたいな、耳が抜けない、あの詰まった圧迫感がある」
「俺も同じだ」
アラユが同意し、眉をひそめながら首を振った。
「それに少しめまいもする」
俺は自分の体に意識を集中させた。いつの間にか心拍数がかなり上がっていて、呼吸も速くなっていたが、どれだけ深く息を吸っても、まったく足りている気がしなかった。
「みんな気をつけろ、俺たちの状態、悪化してきてる気がする」
俺は低く落ち着いた声で警告した。
「ユウキの唇見て」
サチが不意に息を呑んだ。
みんなの視線がユウキに向いた。マスクの隙間から見える唇が、かすかに異常な青紫色を帯びている。
「私は大丈夫」
ユウキは手を振ったが、自分の爪の付け根もかすかに青くなっていることに気づいた。
「このチアノーゼ……」
彼女は不意に言葉を止め、深く眉をひそめた。
同時に、みんなの会話にもかすかな変化が現れ始めていた。普通の声量だったはずのものが、誰も気づかないうちにどんどん大きくなっていく。まるでみんな、お互いの声がちゃんと聞こえていないと恐れているかのようだった。
「今何て言った?」
ワカナが聞き返した。声は先ほどより明らかに大きくなっていた。
「私が言ったのは――」
サチも繰り返そうと声を張り上げたが、そこで言葉を止めた。自分でも何かおかしいと気づいたようだった。
「ちょっと待って、みんな無意識にどんどん声が大きくなってない?」
俺は不意にそのことに気づき、先ほどまでのやり取りを頭の中で振り返ってみると、確かにそうだった。一つ一つ、少しずつ大きくなっている。
「言われてみれば、確かにそうなってる気がする」
ニャリクが同意し、自分も声を張り上げていたことに気づいて、困惑の色を浮かべた。
「自分の声がちゃんと聞こえてない感じがして、気づいたら叫ぶみたいになってた」
「違う」
ユウキが不意に口を開いた。声には愕然とした気づきが滲んでいる。
「この症状、一酸化炭素中毒にもシアン中毒にも、まったく当てはまらない」
「どういうことだ?」
俺はすぐに食い下がった。
「一酸化炭素中毒なら肌は鮮やかな赤色になるはずで、青くはならない。それにシアン中毒なら、こういう耳の圧力の不均衡とか、音の伝わり方の低下は起きないはず」
ユウキは素早く分析した。声に緊張が滲んでいる。
「この症状――耳鳴り、めまい、動悸、チアノーゼ、音が伝わりにくくなる感じ……これはむしろ、気圧の急激な低下に対する反応にずっと近い」
「気圧の低下?」
ワカナが困惑して瞬きをした。
「山に登った時の高山病みたいなものだ。空気が薄くなればなるほど、音の伝わり方も悪くなる」
ユウキの声がかすかな興奮で震えた。
「ここの問題は、空気中の何かの毒素なんかじゃない。空気そのものが、この場所から抜き取られていってるんだ」
俺の体に衝撃が走った。不意にあることに思い至る。あのピクシーたちの全身の腫れのことだ。
「あの腫れ……」
俺は呟いた。すべてが一気に繋がっていく。
「あれも低気圧が原因だったってことか?」
「可能性はある」
ユウキが強く頷いた。目には霧が晴れたような明晰さが宿っている。
「気圧の急激な変化は、体液が組織の間に異常に分布する原因になる。高山病に似た腫れの反応を引き起こすんだ――それがあの腫れの本当の原因で、毒素なんかじゃなかった!」
「じゃあ私たち、ずっと考え方自体が間違ってたってこと?」
サチが目を見開いた。
俺は静かに沈黙するその石碑を見つめた。これまで考えもしなかった可能性が不意に頭に浮かび上がる。
「ここは毒ガスに満ちてるんじゃない」
俺の声には信じられない思いが滲んでいた。
「ここの空気そのものが、実際に消えていってるんだ。この場所は、真空になりつつある」
イヤピースの中の視聴者たちも俺たちの緊張を感じ取っていた。
『真空! それだ!』
『ユウキの推理……すごすぎる!』
『どうりでガスマスクが効かなかったわけだ、フィルターの問題じゃなかったんだ』
『腫れの真相、まさかの展開』
『じゃああの石碑が真空の発生源ってこと?』
真相が繋がった瞬間、あの長らく沈黙していた石碑が不意にかすかに震えた。
「う、動いてる!」
ワカナが息を呑んだ。
石碑の表面に密に刻まれた記号がすべて一斉に不気味な淡い青色の光を放ち始め、暗い灰色の石の表面にひびが次々と広がっていった。まるで硬い外殻が崩れ落ちていくかのようだった。
「みんな下がれ!」
俺は叫び、全員が一斉に後退しながら、急速に姿を変えていくその石碑を警戒しながら見守った。
ひびの下から現れたのは、砕けた石などではなく、何かの金属製の機械構造だった。歯車や伝動部品が記号の光を受けながらゆっくりと回転し、低く安定した唸り声を発している。
その巨大な石碑は、ゆっくりと、しかし紛れもなく、まったく別の何かへと姿を変え始めていた。
その形を成しつつある体から、冷たく平坦な機械の声が響き渡り、真空になりかけたこの空間にこだました。
「守護者五号、全力稼働モードに移行」




