第187話 ヒドラの軍勢
「頑張れ、フェアリーはもうすぐ戻ってくるはずだ」
俺は歯を食いしばりながらみんなを励まし、絶えず新しい触手を再生し続けるあの巨体に視線を固定していた。
そのとき、ワカナが不意に息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待って! あれ、なんで動いてるの!?」
彼女の視線を追うと、先ほど切り落とした触手の破片が、俺たちの周囲の泥や水たまりの中で激しくうねり、膨れ上がっていた。かつて細かった手足が目に見える速さで太くなっていき、その表面はあの本体と同じ淡い青色の光を放っている。
「まさか……」
俺は背筋に寒気を感じながら、信じられない思いでその破片を見つめた。
切り離された手足の一本が真っ先に変化を終えた。その根元が泥に強く突き刺さり、まるで根を張るように自らを固定すると、先端は瞬く間に裂けて開き、細く柔らかな触手の輪を芽吹かせる。その先端には、あの不気味な毛のような質感が同じように咲いていた。ものの十数秒で、俺たちのすぐそばに、元のヒドラとまったく同じ、ただ少し小さいだけの個体が忽然と現れていた。
「一本一本、全部それぞれ丸ごとになるってこと!?」
サチが恐怖のあまり叫んだ。背中の四本の機械の爪が硬直する。
俺は周囲を見渡し、心臓がずしりと沈むのを感じた。七本、八本と切り離した破片が次々と変化を完了させ、泥だらけの沼の中からヒドラの体が一体、また一体と立ち上がっていく。触手が広がり、振り回され、俺たちを四方から完全に取り囲んでいた。
「これ……これは本当にまずい……」
ワカナの声が震えていた。ナイフの柄を握る指の関節が白くなっている。
「私たちのせいだ、触手を切り続けたから……」
サチが唇を噛んだ。声に後悔が滲んでいる。
「今は責め合ってる場合じゃない!」
ユウキが鋭く遮り、勇気の剣を握り直した。それでも珍しく声に緊張の色を隠しきれていなかった。
「まずは生き延びることに集中しろ!」
俺はまだ変化を完了させつつあるその体を見つめ、頭の中で必死に活路を探した。
「ヒドラって出芽で増殖するのは知ってたけど、切り離した手足まで同じ仕組みが働くなんて思ってもみなかった!」
「だから切るんじゃなかったんだよ!」
ワカナが悔しそうに叫んだが、すぐに自分の言葉を訂正した。
「いや違う、切ってなかったら、今頃全員捕まって誰も残ってなかった。これは仕方なかった」
「今それを考えてる場合じゃない」
ユウキが鋭く遮り、まだ変化を終えつつある体々に視線を走らせた。
「たぶんあいつらは元の個体より小さいだろうけど、攻撃パターンはおそらく同じだ。早く抜け道を見つけないと」
その生まれたばかりのヒドラたちは、ほぼ同時に目覚めたかのように、触手を一斉に震わせた。そしてすぐに、あらゆる方向からいくつもの引力が一度に噴き出し、それぞれ自分自身の中心へと激しく吸い込んでいく。
「この引力、もうめちゃくちゃだ!」
俺は叫んだ。複数の方向から同時に体を引っ張られ、どちらへ逃げればいいのかも分からなくなる。
ワカナは相反する二つの引力に挟まれ、激しく体を揺らした。踵が泥の中に二本の深い溝を刻む。その場から引き裂かれそうになるのを、かろうじて堪えている。
「こ、このままだといつか真っ二つになる!」
「みんな、中心に寄せろ!」
ユウキが叫び、真っ先に反発力の一番弱い方向へと突き進んだ。残る全員も力の限りを尽くして彼女のもとへと集まっていく。
俺たちは比較的安全な小さな一画に何とか集まることができたが、それでも生まれたばかりのヒドラたちの触手が四方を取り囲み、空中を縫うように動き回っていた。刺胞のついた先端は淡い青色に光り、いつでも攻撃を仕掛けようと構えている。
「あいつら、それぞれ独立して動いてるのか、それとも本体の指示に従ってるだけなのか」
ユウキが警戒しながら周囲を見渡した。声に切迫感が滲んでいる。
「分からない、でも今それを見極めてる暇はない!」
俺は歯を食いしばりながら拳を握った。指先に稲妻が走る。
一本の触手が横から鋭く振るわれた。ワカナはかろうじてかわしたが、完全には避けきれず、先端が腕をかすめた。あの馴染み深い痺れが即座に広がっていく。
「あっ――」
彼女はくぐもった呻き声を漏らし、ナイフを取り落としそうになったが、それでも必死に体を支え続けた。
サチはすぐさま前に出て、風纏う爪の四本の腕を揃って振るい、迫る二本の触手を正面から受け止めた。同時に翠甲羅を高く掲げ、後ろから迫っていた三本目の攻撃からワカナをかばう。
「ワカナ、耐えて!」
サチが歯を食いしばりながら叫んだ。四本の爪はすでに一歩また一歩と後退させられていたが、それでもこの小さな一画を全力で守り抜いていた。
俺はその隙にワカナの反対側を支え、体重の一部を分担した。
「まだ脚、動かせるか?」
「なんとか……」
ワカナは歯を食いしばりながら頷いた。顔は恐ろしいほど青ざめている。
「今回のは前より酷い。もうほとんど立ってられない感じ」
ユウキは反対側で懸命に戦い、あまりにも近くに迫っていた触手を何本か剣で押し返した。額には汗が浮かんでいる。
「私たち、生まれたばかりのヒドラたちのちょうど真ん中に閉じ込められてる。攻撃範囲がほぼ完全に重なり合ってて、突破できる安全な隙間がない」
イヤピースの中のコメントが怒涛のように流れ込んできた。
『マジで軍勢になっちゃったのか』
『自分たちで危機を生み出したこの皮肉』
『これ本当に絶望的に見える、誰か何か考えて』
『フェアリーいつ戻ってくるんだ』
『ワカナまた喰らった、これマジで危険な状況』
『この包囲されてる画、手汗すごい』
『頑張って、絶対どこかで流れ変わるはず』
俺は周囲を見渡した。生まれたばかりのヒドラたちが次々と安定していき、始まりこそ苦戦だったこの戦いは、今や息をつく間もない包囲戦へと変わっていた。四人は背中合わせになり、かろうじて小さな防御の輪を守り続けていたが、体力が恐ろしい速さで削られていくのを感じていた。
「もうこれ以上は保たない……」
ユウキが息を切らしながら言った。剣にはあの触手が漏らし続ける淡い青色の粘液がべったりとついている。
サチの四本の機械の爪もかすかに震え始めていた。長時間の激しい防御で、動きが徐々に鈍っていく。
「風纏う爪もそろそろ限界みたい。このままだと、あとどれくらい防ぎ続けられるか分からない」
俺は来た道のほうを振り返り、歯を食いしばったが、濃い霧が相変わらず垂れ込めていて、フェアリーの姿はどこにも見当たらなかった。
「戻ってくる」
俺は無理やり声に確信を滲ませたが、それまで本当に持ちこたえられるのか、俺自身にも分からなかった。
あらゆる方向からの引力がまた強まっていく。ヒドラたちの触手が、まるで長い間待ち構えていた無数の蛇のようにじわじわと迫り、俺たちに残された最後の小さな一画を締め上げていった。




