第185話 毒?
その引力が一気に激しく高まり、周囲の水と空気がヒドラの開いた口に向かって激しく吸い込まれていった。歯の芯まで震えるような咆哮が響き渡り、ぬかるんだ地面に波紋が広がっていく。
「何かに掴まれ!」
俺は叫び、泥の中に足を精一杯踏ん張った。それでもなお、あの容赦ない引力に体を前へと引きずられていくのを感じる。
風纏う爪を身につけたサチは、四本の機械の腕を泥の中にまっすぐ突き刺し、しっかりとその場に体を固定した。顔には力の入った表情が浮かんでいる。
「よし、これでやっと安定した!」
「この引力、強すぎる!」
ワカナが泥の中に転び、サチの爪の一本に必死にしがみついて体勢を立て直した。その拍子に胸の録画機器に泥が跳ねる。
ユウキは勇気の剣を握り直し、かろうじてその引力に抗って踏みとどまった。青い輝きが湿った空気の中でかすかに震える。
「この技、範囲が広すぎる。沼全体の空気を吸い出そうとしてる感じだ」
その引力は数秒続いた後、ふいに途切れた。あの巨大なヒドラの体の周りの水が一気に静まり返り、まるであの恐ろしい吸引がそもそも存在しなかったかのようだった。
「止まった?」
サチがその動きを警戒しながら見つめた。
「たぶんあれ、全力じゃなかったんだろうな。むしろ……」
俺はその体を見つめ、たった今起きたことを頭の中で再生した。
「好き嫌いの多い子供が、食べる前にまず見た目を確認してるみたいな感じだ」
ヒドラは俺の推測を裏付けるように反応した。頂点にある十数本の細い触手がすべて一斉に震え、それまで柔らかく毛のようだった先端に、小さくきらめく粒が咲くように現れ、不気味な淡い青色の光を放ち始めた。
「あれ何?」
ワカナが目を細め、その粒を見極めようとした。
生物の教科書の何かの図が頭の中をよぎり、信じられない思いが湧き上がる。
「あれってまさか……刺胞か?」
「刺胞?」
ユウキが眉をひそめながら聞き返した。
「刺胞動物、クラゲとかイソギンチャクとかにしかない構造で、獲物に毒を注入するために使うものだ」
俺はその粒を見つめながら、信じられない思いを声に滲ませた。
「でもヒドラには本来、刺胞なんてない。触手で獲物を絡め取って捕らえるだけのはずなんだ!」
「え、じゃあこいつ、非科学的ってこと?」
ワカナが目を見開いた。
「こいつ、最初から科学的だったことなんて一度もないだろ!」
サチが思わず言い返した。背中の四本の機械の爪も、彼女の苛立ちに合わせてかすかに震える。
「サイズだけでもう普通のヒドラの何百万倍もあるのに、今さら刺胞の有無を気にしてどうするの?」
「いや、それはそうなんだけど……」
ワカナが笑いたいのか呆れたいのか分からない顔で言った。
その触手が不意に俺たちに向かって鞭のように振るわれた。刺胞のついた先端が淡い青色の残像を空中に描く。反応する間もないほどの速さだった。
「散れ!」
俺は叫び、全員が一斉に散った。
サチの背中の風纏う爪が真っ先に反応し、四本の機械の腕が軽やかに動いて、迫る二本の触手を正面から受け止めた。爪が触手にぶつかった瞬間、淡い青色に光る粘液が数滴飛び散り、泥の上に落ちる様子はただの体液にしか見えなかった。
「この毒、たいしたことなさそう!」
サチはそう言いながらすぐに引いた。だがその実際の危険性にはまだ気づいていなかった。
ワカナは一本の触手をかろうじてかわしたが、別の一本にふくらはぎをかすめられた。鋭い痺れが即座に走り、脚全体が硬直して感覚がなくなり、彼女は泥の中に崩れ落ちた。
「ワカナ!」
サチが叫び、駆け寄ろうとしたが、さらに数本の触手に絡め取られ、一時的に抜け出せなくなった。
「大丈夫……あっ!」
ワカナが言い終わる前に、別の触手がすでに彼女の腰に巻きつき、ヒドラの開いた口に向かって強く引きずり始めた。
「ワカナが捕まった!」
俺は叫び、助けに向かおうとしたが、内向きの引力がまた強まり、一歩一歩がひどく重くなる。
イヤピースの中のコメントが一気に爆発した。
『ワカナ捕まった!!! 誰か助けて』
『あの触手えげつない、普通に人引きずってる』
『麻痺と物理拘束のコンボ、えぐすぎる』
『みんな落ち着いて、ワカナならなんとかするはず』
『この戦い、緊張感すごい』
そのとき、ワカナは胸の機器越しに苦しそうに何とか言葉を絞り出した。
「み、みんな心配しないで、私は大丈夫――うぐっ!」
その声はまた途切れた。触手の締め付けに遮られたのだ。
視聴者たちは数秒沈黙した後、緊張と抑えきれないコメントが混ざりながらまた流れ始めた。
『ねえ、ここって何か、ロックマンの最終ステージ手前の雰囲気に似てない?』
『ボスラッシュってこと?』
『じゃあこれもボスの一体ってこと?』
『ここまでで三体目ってこと?』
『どうでもいいから早くワカナ助けて!』
ふっ、うちの視聴者にはやっぱり古参のオタクが結構いるらしい。でも今はそれを考えている場合じゃない。
「ユウキ、援護頼む!」
俺は歯を食いしばりながら叫び、触手の締め付けが緩んだ一瞬の隙をついて引力を押し切り、ワカナへと駆け寄った。
ユウキはすぐに察し、俺を阻もうとする他の触手に剣を振るった。剣が切り裂いた箇所からは、あの淡い青色に光る粘液がさらに漏れ出し、彼女の腕に飛び散る。鋭い痺れが即座に彼女を襲った。
「この毒、触れただけで痺れる、みんな直接触らないよう気をつけろ!」
ユウキが警告を叫びながら痺れた腕を振り、触手が体勢を立て直す前のわずかな隙をついて再び剣を振るい、また一波の攻撃を押し返した。
サチはようやく絡みついていた触手から抜け出し、風纏う爪の四本の腕がワカナを引きずっている触手の根元を強く掴んだ。全力で引っ張り、その引きずる勢いを鈍らせる。
「ワカナ、耐えて!」
俺は彼女に向かって叫んだ。
サチの四本の機械の爪が一斉に力を込め、その関節が触手のざらついた表面に深く食い込むと、淡い青色の液体が数滴噴き出した。
「この触手の毒、そこまで強くなくてよかった」
サチはそう言いながら、自分の肌に浮かんだ赤く腫れた跡をさすった。
「たぶんあの触手自体の力が強すぎるからだろう。ポルトガルカツオノエボシみたいに脆くて、引っ張っただけですぐ切れるようなもんじゃない。一瞬で相手を殺すほどの毒は必要ないんだ」
ユウキも自分の肌に浮かんだ赤い痕をさすりながら言った。
まだ触手に捕らわれたままのワカナは、歯を食いしばりながら、これ以上引きずり込まれないよう全力で抗っていた。先ほどの毒で脚はまだ痺れていたが、それでも指を泥に深く食い込ませ、少しでも抵抗の力を稼ごうとしていた。
「もう少し耐えろ、もうすぐ着く!」
俺は叫んだ。一歩ごとに内向きの引力が容赦なく体を引っ張り、まるで沼全体の空気が結託して俺が彼女にたどり着くのを阻んでいるかのように、動くたびに苦しかった。
フェアリーは空中で懸命に羽ばたきながら、その引力にかろうじて耐えていた。
「主様、あの触手の根元、少し弱そうです。そこが狙い目かもしれません!」
「分かった!」
俺は歯を食いしばりながらさらに速度を上げ、ようやくワカナのもとにたどり着いた。彼女を捕らえていた触手はサチの引っ張りですでにいくらか緩んでいて、俺はその先端を掴んで反対方向へ思い切り引っ張った。
「あぐっ――」
ワカナが痛みに呻いた。二つの相反する力に挟まれ、痛みに顔がさらに青ざめていく。
「耐えろ、絶対助けるから!」
サチが歯を食いしばりながらさらに強く引っ張った。風纏う爪の四本の腕が、触手の根元を今にも引きちぎらんばかりの勢いで締め上げる。
イヤピースの中のコメントも緊張の色を帯びていった。
『この綱引き緊迫しすぎ、頑張れワカナ』
『サチの爪、マジで頼りになる』
『真澄急いで、ワカナ本気で痛そう』
『このヒドラの攻撃パターン、引きずり込みと毒の両方とかえぐい』
『無事に助け出せますように』
その触手はついに両側からの力に耐えきれなくなった。ぐちゅりと湿った音を立てて千切れると、サチと俺は突然の反動で二人とも泥の中に倒れ込んだ。ワカナは内向きの引力から解放され、勢いよく転がって俺たちのそばに倒れ込み、荒く息をついた。
「助かった……」
ワカナは弱々しく笑ったが、すぐに顔をしかめ、触手が巻きついていた腰をさすった。すでに紫色の痣が輪のように浮かび上がっている。
「あいつの締め付ける力、ヤバすぎる」
「大丈夫? 毒、結構痛い?」
サチが心配そうに顔を寄せ、彼女の怪我を確認した。
「脚はまだ痺れてるけど、死にはしないと思う」
ワカナは弱々しく笑いながら、まだ強張った脚を動かしてみせた。




