第184話 自業自得の沼
俺たちは隊列を整え、荒野の奥へとさらに進んでいった。真新しい風纏う爪を身につけたサチが、一歩進むたびに四本の機械の腕を緩やかに揺らしながら先頭を歩く。これまで見たことのない自信と落ち着きが、彼女から滲み出ていた。
しばらく歩いていると、ワカナが不意に立ち止まり、自分の靴先を見下ろした。
「ねえ、なんでここ、まだ濡れてるの?」
彼女は眉をひそめ、地面を軽く踏みつけた。湿った音がぐちゅっと響く。
俺も足元を見下ろし、そこでようやく気づいた。俺たちの足元の地面は、以前のように乾ききってひび割れてはいなかった。代わりに、暗く湿った染みが広がっていて、しかも歩けば歩くほど、その染みは小さくなるどころか、むしろ広がっているようだった。
「これってまさか……」
胃の底がすっと冷えた。一気に思い当たる。完全なる飛行者に対抗するために、あの栓で呼び出したあの水たまりだ。
「これ、さっきお前が呼び出した水じゃないよな?」
ユウキも同じ考えに行き着いたらしく、声には諦めの色が滲んでいた。
「えっと……」
俺は気まずそうに頭をかいた。
「たぶん、まだ完全には引いてないだけじゃないか?」
「あの栓の効果範囲がどれくらいなのか、お前自身分かってなかったじゃん。もしかしたらこの荒野全体、水浸しにしちゃってるかもよ」
ワカナが笑いたいのか呆れたいのか分からない顔で言った。
「今回は本当に自分で自分の首絞めたんだね」
サチも思わず笑ってしまい、背中の四本の機械の爪もその可笑しさに合わせてかすかに揺れた。
イヤピースの中のコメントも盛り上がった。
『マジで自分の策で自爆してるやん』
『真澄、自業自得の報い受ける時が来たな』
『あの栓の後遺症、想定よりでかすぎる』
『水で戦い勝ったのに水が引かないの笑う』
『この後どうなるんだろ、ちょっとワクワクする』
そんな軽口を叩き合いながら歩き続けるうちに、いつからかは誰も気づかないまま、周囲の景色は劇的に変わっていた。かつて乾ききっていた土色の地形は、少しずつ広大な湿地へと変わっていく。地面はぬかるんで足元が危うく、一歩進むごとに粘りつくような音が響いた。暗い緑色の水生植物の群れが泥の中から顔を出し、その葉は分厚くふっくらとしていて、水滴のような光沢を帯びている。
「ここ、変わり方が急すぎる」
ユウキが周囲を見渡した。声に警戒が滲んでいる。
「さっきまでの荒野とはまったく別世界だ」
空気には湿った、かすかに土っぽい匂いが濃く漂っていて、遠くには霧が立ち込め、その向こうに暗い水面が繋がり合いながら果てしなく続いているのが、時折垣間見えた。まるで沼地がまるごと、この異空間にひっそりと侵入してきたかのようだった。
『景色の切り替え急すぎ、さっきまで砂漠だったのに』
『沼のほうが正直不気味、みんな気をつけて』
『ここ、シーン転換激しすぎない?』
『次何が出てくるんだろ、ちょっと緊張する』
俺たちはしばらくぬかるんだ地面を進み続けた。そのとき、ワカナが不意に短く息を呑み、全身をよろめかせた。
「どうした?」
俺はすぐに身構えた。
「なんか、引っ張られる感じがしたの」
ワカナの顔がわずかに青ざめていた。胸の録画機器を強く握りしめる。
「すごく変な引っ張られ方。前に引きずり込まれそうな感じ」
フェアリーが空中でホバリングしながら、羽をかすかに震わせた。
「私も感じました。風の向きがさっきまでと全然違う、内側に向かって引き込まれてます」
「内側に?」
サチが困惑して聞き返した。
俺は周囲の気流に注意深く意識を集中させた。案の定、あの方向性のなかった混沌とした風が、いつの間にか一定の、途切れない引力へと変わっていた。まるで前方のどこかに見えない渦があって、空気も湿気も、そして俺たちの体そのものさえも、ゆっくりとそちらへ引き寄せているかのようだった。
「みんな気をつけろ、この引力、だんだん強くなってる気がする」
俺は知恵の書を強く握りしめながら注意を促した。気づけば自分の歩調も無意識に遅くなっていた。
イヤピースの中のコメントも緊張の色を帯びてきた。
『この引っ張られる感じ、めちゃくちゃ嫌な予感』
『ワカナ、吸い込まれないでね』
『三種類目の風パターンか、前の二つと全然違う』
『配信者、機材しっかり持ってて、吸い込まれないように』
慎重に前へ進み続けると、その引力は少しずつ強まっていき、霧に包まれた沼の奥深くに、巨大で霞んだ輪郭がゆっくりと形を成し始めた。漂う霧と共に見え隠れしている。
「あれ、何……」
サチが目を細め、その輪郭の正体を懸命に見極めようとした。
その巨大な姿は、より深い水域の中心に静かに立っていた。俺たちが近づくにつれ霧が薄まり、次第にその全貌が明らかになっていく。
それは円柱状の体をしていて、全体がほとんど透き通るような淡い茶色をしていた。表面には細かく繊細な模様が刻まれていて、水流に合わせてかすかに揺れている。体の根元は水中の見えない何かにしっかりと固定されていて、まるでそこに根を張っているかのように動かない。だが本当の恐ろしさは、その頂点にあった。
頂点にある口の周りには、十数本もの細く柔らかな触手が伸びていた。それぞれが数メートルもの長さがあり、先端には細かい毛のような突起が密生していて、水流に合わせてゆっくりと揺れながら広がっていく。その様子は柔らかく見えながらも、どこか不気味に規則的で、いつでもどの方向にも伸びてこられそうな不穏さを漂わせていた。
その体全体の形は、まさにヒドラを千倍に拡大したような姿だった。普段は生物の教科書や顕微鏡の中でしか見ることのない、あの微小な淡水生物が、この異空間の沼の中で、見上げる者から息を奪うほどの巨体となって立っている。
「あれって……ヒドラ?」
俺は息を呑んだ。声には信じられなさと衝撃が滲んでいる。
「ヒドラ?」
ワカナはまったくぴんと来ていない様子だった。
「それ何?」
「小さな淡水生物のことだよ。普段は数ミリから一センチくらいしかなくて、触手でプランクトンを捕まえて食べるんだ」
俺は生物の授業で習った記憶を必死に手繰りながら言った。声には信じられない思いが滲んでいる。ちなみに、ギリシャ神話に出てくる多頭の大蛇――あれも同じ「ヒドラ」という名前だけど、別物だ。あっちは伝説上の怪物で、こっちは本当に実在する生き物、それも本来はごく小さな水棲生物のことを指す。
「普通なら、こんな大きさになりようがないんだけど」
イヤピースの中のコメントが一気に爆発した。
『ヒドラ!? 小学校の理科の教科書に出てくるあれ!?』
『あんな巨大化させて誰を怖がらせたいの』
『あいつのスケール感、完全におかしい』
『あ、本物のヒドラってこんな見た目なんだ、今日一つ賢くなった』
『あのサイズのヒドラ、見てるだけで鳥肌立つ』
その巨大な体は俺たちの気配を察知したらしい。それまで動かなかった触手が急に震え始め、すでに不穏だったあの引力が一気に何倍にも強まった。周囲の水と空気がその開いた口に向かって激しく吸い込まれていき、歯の芯まで震えるような低い咆哮が響き渡る。
「始まるぞ!」
ユウキが鋭く叫び、勇気の剣を握り直した。
俺は霧の中で見え隠れするその巨体を見つめた。これまでにない緊張感が胸の中に湧き上がってくる。この戦いはおそらく、これまでの二戦とはまったく違うものになる。




