第177話 あと一歩でレベルアップ
大地の盗人の姿は、その底の見えない陥没穴の中へと完全に消えていった。戦場は一瞬で静まり返り、残ったのは頭上で唸り続ける風の音だけだった。弱まる気配はまったくない。
見慣れた金色の光がゆっくりと立ち上り、一行の文字が陥没穴の中から浮かび上がってきた。目の前にくっきりと現れる。
【撃破:大地の盗人 EXP+220,000】
俺は陥没穴を見つめながら知恵の書を呼び出し、ページが応えるのを待った。
ページがゆっくりとめくれていく。
【知恵の書の力により、大地の盗人をあなたの――武装、従者、化身、どれにしますか?】
「よし、これはうまくいったな」
俺は息を吐いた。胸の重みがようやく一つ下りた気がした。
「で、どうするの、これ?」
ワカナが興味深そうに顔を寄せ、首を伸ばしてページを覗き込んだ。
「いつもの三択だ」
俺は本をみんなに向け、文字が見えるようにした。
このティクターリクらしき生き物は一体だけしかいないようで、三つに分けて使うという選択肢は明らかになさそうだった。
「みんなはどう思う?」
俺はみんなの意見を聞きたかった。
「武装、従者、化身」
ユウキが考え込みながら口を開いた。
「能力は変わってるけど、従者として連れていければ、地形を崩したり罠を仕掛けたりする場面で役に立ちそうだ」
「それにジェリーって割と無害そうだし。仲間として一緒にいてくれても悪くないと思う」
サチも笑顔で付け加えた。声には期待の色が滲んでいる。
俺は考えを巡らせた。あれを倒すまでの戦いは緊張感があったが、この生き物自体はそこまで攻撃的ではなく、ほとんどが自分の足場を守るための受動的な行動だった。従者として連れていけば、この先の特定の場面できっと役に立つだろう。
「従者にしよう」
俺は決心し、ページの「従者」の項目を指先で軽く叩いた。
陥没穴の奥から柔らかな光がゆっくりと立ち上り、四本脚の魚の姿が再び現れた。だが今度はその姿勢に先ほどまでの警戒心はまったくなく、四本の脚をしっかりと地面に据え、平たい頭を少し垂れて、その目は懐いたと言ってもいいほど落ち着いた様子で俺を見つめていた。
「よろしくな」
俺は手を伸ばし、その鱗に覆われた頭の上を軽く撫でた。感触は硬いが、冷たくはない。
「これからよろしく頼む、ジェリー」
それはこもった低い鳴き声を上げた。その名前に応えるかのように、四本の脚をその場で動かし、この新しい役割に馴染もうとしているように見えた。
「意外と素直なんだね」
ワカナがしゃがみ込み、そっとその鱗に触れてみたが、驚いてすぐに手を引っ込めた。
「この鱗、めちゃくちゃ硬い。道理でユウキの剣でも傷一つつかなかったわけだ」
「私たちに慣れたら、どこかで道を切り開くのを手伝ってもらえるかもしれないな」
ユウキがジェリーの太くて短い四本の脚を観察しながら言った。
俺は改めて知恵の書に意識を戻した。EXPの数字はまだ静かにページに表示されたままで、そこでようやく、その詳細をしっかりと確認した。
【EXP 220,000/300,000】
俺は固まった。見間違いでないか、何度も確かめる。
「この数字……」
俺は眉をひそめた。胸の中に、名状しがたい違和感ではなく、はっきりとした戸惑いが湧き上がってくる。
「これはおかしい」
「何がおかしいの?」
サチも覗き込み、俺と一緒に困惑した表情になった。
「これがレベルアップの必要EXPなんだよね? そんなに高くないみたいだけど」
「まさにそこが変なんだ」
俺はその数字を見つめながら、記憶を巻き戻した。前回、レベルアップの必要EXPに達するまでには、二億を超える累計EXPが必要だった。しかもそれはベリアルやベルゼブブ級の戦いを積み重ねた末のことだ。
今回は中堅クラスのボスを一体倒しただけで一気に二十二万のEXPを獲得し、レベルアップまでたった八千しか残っていない。
「システムがバグってるとか?」
ワカナが首を傾げながら推測した。
俺はその数字を見つめたまま、フレイヤと過ごしたあの夜のことを思い出した。あの親密なひとときの中で、彼女は神が神に語りかけるような声で俺に告げ、一言だけ残していった。
『あなたは今、一柱の神の祝福を受けた。あなたの成長とレベルアップの壁は大幅に引き下げられている』
俺は息を呑んだ。すべてが一気に繋がった。
「バグじゃない」
俺はゆっくりと言った。声には様々な感情が入り混じっている。
「フレイヤの祝福だ」
「フレイヤ?」
ユウキが眉を寄せた。明らかに同じあの夜のことを思い出している。
「あの夜、彼女と過ごしたこと……本当に俺の中の何かを変えたんだな」
「じゃあ、本当だったんだ」
俺は小さく笑った。何とも言えない感情が胸の中を流れていく。
女神が気まぐれで俺たちをからかっているだけだと思っていた。実際には、成長曲線そのものを根本から書き換えていたということらしい。
「それって良いことじゃない?」
サチが目を瞬かせた。声には純粋な喜びが滲んでいる。
「これからレベルアップしやすくなるってことでしょ、もっと早く強くなれるってことだよね!」
「本当に良いことなんだが……」
俺はその数字を見つめた。だが胸に湧く喜びは、そうあるべきほど純粋なものではなく、かすかな、うまく言葉にできない不安と入り混じっていた。
彼女がここまで大胆に俺たちの成長の壁を下げてくれるということは、その分、この先にもっと過酷な何かが待っていることを、彼女がすでに見越しているということでもあるのではないか。
「ともあれ、この戦いには勝った」
ユウキが話題を変えた。声はまた落ち着きを取り戻している。
「まずは装備と怪我の確認をしよう」
「この上の風、しばらく止みそうにないな」
俺は空を見上げた。相変わらず渦を巻き続けていて、大地の盗人を倒したにもかかわらず、風の唸りは少しも弱まっていない。
「なら、この風はあいつとは関係なかったってことか」
ユウキも空を見上げた。
「おそらく、この空間全体に組み込まれた試練の一つに過ぎないんだろう」
コメントがぽつぽつと流れてきた。
『あの四本脚の魚、デザインおかしすぎる』
『ワカナ、あの戦いガチで見応えあった、ずっとパルクールしてたね』
『何でジェリーって名前なの、笑いすぎて死ぬ』
『え、あの魚仲間にしたの? もう味方ってこと?』
『このゲームの難易度カーブおかしいって、一戦終わったばかりでもう次かよ』
「みんな結構ジェリーのこと気に入ってるみたいだね」
サチが微笑んだ。すぐそばで静かに横たわり、脚を地面に深く沈めている四本脚の魚に目をやりながら、声に温かみが滲んでいる。
「そういえば」
俺はジェリーの平たい目を見つめ、ふと思いついた。
「ずっとジェリーって呼んでたし、いっそこれを正式な名前にしようか」
「あ、それいいじゃん!」
ワカナが目を輝かせ、すぐに賛成した。
「いつまでも『あの四本脚の魚』って呼び続けるわけにもいかないもんね」
サチも笑顔で頷いた。
「ジェリーって親しみやすい響きだし。私も賛成」
俺はしゃがみ込み、その頭の上のほうに並んだ目を真剣に見つめた。
「今日から、お前の名前はジェリーだ」
フェアリーが俺のそばに飛んできて、羽ばたきがふと止まった。声に迷いが滲む。
「主様、今このタイミングで名付けてしまって本当に大丈夫ですか?」
俺は一瞬固まり、そこではっと気づいた。フェアリーとサラダの時も同じだった。従者に名前をつけるにはEXPが消費される。しかもその消費量は、その従者を倒した時に得たEXPとちょうど同じ量だ。
「あ……」
胃の底が抜けるような感覚が走った。俺は慌てて知恵の書を開いて確認する。案の定、220,000/300,000だった数字は、静かに0/300,000へとリセットされていた。
「これは、参ったな」
俺は苦笑しながらその数字を見た。胸の中で様々な感情がぐちゃぐちゃに入り混じる。
「この戦いでレベルアップまであと少しだと思ってたのに、名付けで全部リセットされた」
「え、マジで?」
ワカナが覗き込み、うめき声を上げた。
「名前つけるの、後にしておけばよかったのに!」
「いや、これでよかったんだ」
俺は首を振り、静かに休んでいる四本脚の魚に目を戻した。その目は忠犬のような、純粋で揺るぎない信頼をもって俺を見つめていた。
「ちゃんとした名前があるほうが、ずっと『あの四本脚の魚』って呼ばれ続けるよりずっといい」
ユウキはそのやり取りをずっと見ていて、呆れと温かさの混じった表情を浮かべた。
「お前、本当に変なところで甘くなるよな」
サチもしゃがみ込んで笑顔になり、ジェリーの頭をそっと撫でた。
「正式にようこそ、ジェリー」
ジェリーはこもった低い鳴き声を上げ、四本の脚をその場で動かした。まるで、自分に与えられたこの新しい名前に、自分なりのやり方で応えているかのようだった。
【命名完了 大地の盗人→ジェリー
鱗の硬度上昇
足場の安定性強化
大地侵食の範囲拡大、発動遅延短縮】
「戦闘中よりも能力が強くなってる気がする」
俺は表示されたメッセージを見た。胸の中に確かな満足感が広がっていく。
「あのEXP、無駄にはならなかったってことだな」




