第176話 ジェリー、そろそろ帰るべき時だ
ようやくその場にうずくまったままの生き物との距離を詰めることができた。頭上では相変わらず暴風が唸りを上げていたが、距離が縮まったことで、ようやくその全貌が俺たちの前に晒された。
その体は焦げ茶色の鱗に覆われ、体長は優に二メートルはある。鱗の縁には湿った光沢があり、まるでたった今深い水の中から引き上げられたばかりのようだった。胸鰭と腹鰭があるはずの場所には、代わりに太くて短い四本の肢が生えていて、その先端はまともな爪ではなく、肉の塊のようなものになっている。今はその肢を深く土に食い込ませ、巨体を支えていた。頭部は平たく、目玉は上のほうに高く並び、ゆっくりと回転しながら俺たちの動きを一つ残らず追っていた。
「この魚……」
サチが不意に足を止め、目を見開いた。声にはこんな場面には似つかわしくない興奮の色が滲んでいる。
「これ、ジェリーじゃない?」
「誰?」
ワカナは自分の足につまずきそうになりながら振り返った。顔には困惑が広がっている。
「ネットで話題になったあの魚だよ!」
サチは息を切らしながら説明し、大げさに身振り手振りを加えた。足元が今にも崩れそうだというのに、まったく遠慮する気配がない。
「ティクターリク。最初に陸に這い上がった脊椎動物の一種。ネットで有名なネタになってて、あのまま歩き続けて振り返らなければ、子孫たちはいつか税金だの仕事だの、文明の重荷を全部背負うことになるって話!」
「今それ考えてる場合!?」
ワカナが叫んだ。足元で裂けていくひびをよけながら、笑いたいのか泣きたいのか分からない顔をしている。
「頭に浮かんできたものは仕方ないでしょ!」
サチが不満げに言い返したが、視線はしっかりとその生き物に向けたままだった。声には本気の感慨が滲んでいる。
「水の中にいればよかったのに。何でわざわざ陸に上がって税金払う羽目になるんだか……」
「本当に今まさに勤務中って感じだな。上司は誰なんだろう」
彼女のその言葉を聞いて、俺の気分もかなり軽くなった。
「油断しないで。あれ、見た目は間抜けでも、今こっちを本気で殺しにきてる!」
ユウキが歯を食いしばりながら注意を促し、勇気の剣を握り直すと、真っ先に距離を詰めた。剣先はまっすぐその生き物の横腹を狙っている。
青い輝きがより強く燃え上がり、ユウキがこの戦いにどれほど万全の準備をしてきたかがはっきりと伝わってきた。
剣が振り下ろされた瞬間、鈍くくぐもった音が響いた。まるで水を含んだ分厚い泥岩を叩いたような感触で、想定していた肉と血の柔らかさとはまるで違う。
「この防御力……」
ユウキの表情が変わり、剣を無理やり引き戻して数歩後退した。
「皮膚なのか鱗なのか分からないけど、生き物の体としてはあり得ないくらい硬い」
その生き物はユウキの一撃に反応した。頭がゆっくりとユウキのほうを向き、平たい目が一度瞬きをする。そして次の瞬間、その周囲の地面が激しく震え始め、土色のひびの輪が自分の位置から急速に外側へと広がり、ユウキの立っている場所へと迫っていった。
「反撃してくる!」
俺は叫んだ。ユウキがすんでのところで飛び退くと、彼女が立っていた場所は完全に陥没し、底の見えない空洞が現れた。
「正面からぶつかっても効かない」
俺は歯を食いしばりながら分析した。頭の中で考えが猛烈な速さで巡っていく。
「あいつは攻撃で押してくるタイプじゃない、足元の地面を引き抜いてくるんだ。別のやり方が要る」
「別のやり方って?」
ワカナが不安げに尋ねながらも、地面に裂けていくひびをよけ続けていた。
俺はその生き物を見つめ、先ほどユウキを攻撃した瞬間を頭の中で再生した。標的をロックオンした瞬間から、実際に地面が陥没するまでの間に、わずかな間があった。即座に発動するわけではない。
「大地を奪う力、発動するまでに少し間があるみたいだ!」
俺は叫んだ。頭の中で一気に考えがまとまっていく。
「もしあいつを自分の足元の地面にロックオンさせられたら……」
「自分の足元を奪わせるってこと?」
ワカナが目を見開き、すぐに理解した。
「それって、自分で自分を埋めることにならない?」
「問題は、どうやってそれをやらせるかだ」
ユウキが眉をひそめ、声に慎重さを滲ませた。
俺はその生き物の、頭の上のほうに高く並んだ目を観察した。どうやら迫ってくる脅威を感知して、どの地面を奪うか判断しているらしい。
「俺たち全員で四方から同時に詰め寄って、あらゆる方向から迫る脅威を追うためにあいつの頭を振り回し続けさせたら、判断を誤って自分自身の足元まで奪う対象に含めてしまうんじゃないか?」
俺は急いでその考えを口にした。声には確信のなさが滲んでいたが、同時に、当たって砕けろという覚悟も込められていた。
「やってみる価値はある」
ユウキが剣の柄を握り直し、目つきを鋭くした。
「みんな散開して取り囲んで。交代で詰め寄っては下がって、あいつを圧倒するぞ!」
「任せて!」
ワカナとサチが声を揃えて答え、四人は一斉に散開し、四方向からその生き物に詰め寄った。
生き物の頭は素早く左右に振れ、平たい目が近づいては離れる一人ひとりの動きを追い続けた。頭を振るたびに、その足元の地面がかすかに震えている。まるで脅威の多さに、自分の能力そのものが混乱をきたしているかのようだった。
「詰め寄り続けろ!」
俺は叫び、素早くフェイントをかけては引く動きを繰り返した。何回かそれを続けた後、はっきりと見えた。その体の真下に、かすかなひびが現れている。
「効いてる!」
胸に湧き上がる興奮を抑えながら、俺はフェイントのペースを保ち続けた。ワカナとサチもすぐに気づき、俺のリズムに合わせてきた。四人は絶えずその周りを出入りし続け、あいつの頭にひと息つく暇すら与えなかった。
そのひびは目に見える速さで広がっていき、四本の肢の周りから少しずつ広がって、やがてその体をぐるりと完全に取り囲む輪になった。
「自分の足元を掘り崩そうとしてる!」
サチが嬉しそうに叫んだ。
生き物はようやく異変に気づいた。頭をがくんと下に向け、平たい目が自分の足元で崩れていく地面を捉える。喉の奥から低い、狼狽したような唸り声を漏らし、四本の肢で必死に踏ん張ろうとしたが、広がり続けるひびの輪を止める術は何もなかった。
「今だ!」
俺は叫び、全員が一斉に後ろへ下がった。少し離れた場所から、その生き物の足元の地面が轟音とともに崩れ落ちるのを見届ける。
生き物は甲高い悲鳴を上げた。巨体を支えるものが一切なくなり、自分自身の力で掘り抜いた、その底の見えない穴へとまっすぐ落ちていく。四本の肢が空中で虚しくもがき、何かを掴もうとしても掴めるものは何もなく、やがてその漆黒の闇の中へと完全に姿を消した。
戦場は一瞬で静まり返った。残ったのは頭上で唸り続ける風の音だけだった。五人はその場に立ち尽くし、目の前に新しくできた巨大な陥没穴を見つめたまま、しばらく誰も言葉を発さなかった。
「あれ……落ちた?」
ワカナが底の見えない穴を恐る恐る覗き込んだ。声には信じられないという響きがあった。
「これって……」
サチも身を乗り出して覗き込み、不意に噴き出した。
「これって、ジェリーがようやく水に帰ったってことになるのかな?」
「今この状況で冗談言う余裕あるんだ」
ユウキがそう言いながらも、その表情には安堵からくる可笑しさを隠しきれない様子が滲んでいた。
俺は陥没穴を見つめながら知恵の書を握りしめ、この戦いの結末を確かめようとした――




