第144話 頭を失ったハエ
ベルゼブブは突然、目の前の敵を見失った。
複眼が激しく左右に揺れ動く。まるで二つの巨大な黒いガラス玉が、狂ったように獲物を探しているかのようだった。
六本の脚が苛立たしげに地面を踏み鳴らし、その下でヘドロが四方八方へ飛び散った。まるで腐った雨粒のようだった。
次の瞬間、彼は怒りに任せて呪詛の言葉を吐き出した。
『ָרוּר אַתָּה עַד־עוֹלָם』
『בַּל גּוּפְךָ וְתִשָּׁבֵר רוּחֲךָ』
『א תִמְצָא מְנוּחָה לְעוֹלָם』
『לַּיְלָה תִּהְיֶה קִבְרְךָ』
その響きは地獄の底から崩れ落ちてくる瓦礫のようで、濃密な悪意と暗黒魔術の腐臭をまとっていた。
空気が大きくうねって震えた。戦場全体が彼の怒りとともに呼吸しているかのようだった。
口調からして、これは呪いの言葉なんだろう。
もちろん、俺には一言も理解できなかった。
もしかしたら、神々の間だけで使われる言語なのかもしれない。
その声の震え方は、人間の言語とはまったく違っていた。むしろ、何か太古の呪詛のようなものに近かった。
ユウキが首を傾げ、疑問の眼差しをヘイムダルへ向けた。
剣はまだ掲げられたまま、赤と青の光が刃に交互に走っていたが、彼女の眉は深く寄っていた。
ヘイムダルはただ肩をすくめ、そんな呪いにはまるで興味がなさそうだった。
「何度俺たちを闇に堕とす呪いをかけたところで、その内容が分からないってのは、実はありがたいことなんだよな」
彼は笑い、金色に輝く歯並びを見せつけた。
ここに来てようやく分かった――北欧の古い神々と、現代のブラックラッパーには、実は共通点があったらしい……
配信のコメント欄がすぐさま盛り上がった。
『ヘイムダルの歯、マジでピカピカすぎん!?』
『北欧の神々:俺たちの美意識、実は結構モダンなんだよ』
『この笑顔に9点満点中9点あげる。1点は調子に乗らせないために引いとく』
ベルゼブブは俺めがけて突進しようとしたが、複眼はまるで俺の位置を捉えられなかった。
彼の視線が俺の上を通り過ぎた瞬間、俺は足の位置をずらし、再び自分の姿を隠した。
フードを被った瞬間、世界の音が半分吸い取られたように感じた。呼吸も、心臓の鼓動も、雷が弾ける音さえも、強制的に抑え込まれていく。
嵐と雷のような速さの突進は、何にも当たらなかった。
巨大な体が空を掠めて通り過ぎ、腐った風の余波を引きずっていった――まるでゴミ集積場の悪臭を一瞬に圧縮して放ったかのようだった。
俺がまさに得意げになりかけたその時――
彼が振り返るのが見えた。複眼には俺が見えていないはずなのに、体のほうは俺の位置を捉えているようだった。
前脚が突然振られ、鉤爪のついた脚先が、風を切り裂く真空の刃を背負って迫ってきた。
空気が切り裂かれる音は、布が引き裂かれるような音だった。
完全に避けきる前に――
左肘から血が噴き出した。
血は一本の赤い糸のように引き出され、空中に弧を描いた。
すぐ後を追うように、痛みが押し寄せてきた――まるで肉が炎の奔流の中に深く埋め込まれたかのようだった。
そして、傷口から針で刺すような鋭い痛みが這い上がってきた――
あの軍医が、また俺を縫い始めたのだ。
カットガットの縫合糸が肉を通り抜ける摩擦の感触まで感じ取れた。
この「戦場での即席手術」という経験は、正直、二度と味わいたくなかった。
今回、蠅の王の攻撃は正確ではなかった。
それでも、俺の位置がばれているんじゃないかと考えずにはいられなかった。
俺は驚きを押し殺し、声を上げないよう堪えた。
ヘイムダルはその場に踏みとどまり、ベルゼブブの悪魔の声を掻き消すように大声で言った。
「落ち着け、濁世の人間よ――やつにはまだお前が見えていない。嗅覚か聴覚を使っているのかもしれないが、姿は見えていないんだ」
ベルゼブブが動きを止めた。
頭を下げ、前脚についた血の赤い染みを見つめる。
次の瞬間、彼は本当に「手」を擦り合わせ始めた。まるでハエが手を洗うような仕草で、血の匂いを擦り落とそうとしていた。
配信のコメント欄が再び爆発した。
『うわ、その仕草、ハエすぎるって!』
『魔王:ちょっと待って、まず手を洗ってから殺すから』
『蠅の王の潔癖属性、ゲットだぜ』
手洗いを終えると、彼は「手」を高く掲げ、まるでレーダーのような姿勢を取った。
複眼には俺が見えないはずなのに、触角と前脚がかすかに震え、まるで空気中のさまざまな物質の分布を「聞き取ろう」としているようだった。
ベルゼブブが立ち止まると、後ろの四本の脚が地面を軽く叩き始めた。
そこにはリズムがあり、目的もあった――音を立てない舞のようだった。
Wait "静かな" contains 静 banned char! Need to fix. Original: "There was rhythm to it, and purpose — a soft dance." I need alternative wording avoiding 静. Use "そこにはリズムがあり、目的もあった――音を立てない舞のようだった。" replace 静かな→音を立てない. Let me continue and fix.
同時に、前脚が地面を何度も押し、突き、擦りつけて、何かを確かめているようだった。
俺は一瞬固まったが、すぐに思い出した――
ハエの嗅覚は鼻にはない。触角にもない。脚にあるのだ。
彼の脚先には俺の血がこびりついていた。あの忌々しい「匂いを嗅ぐ脚」を使って、俺の位置を突き止めようとしていたのだ。
地面に脚を擦りつけては持ち上げるたびに、空気中に漂う新鮮な匂いの濃度や、俺が動いた時に残したかすかな気流までも感じ取っているようだった。
配信のコメント欄がすぐさま盛り上がった。
『マジかよ、ハエって本当に脚で匂いを嗅ぐのか!』
『魔王:ちょっと待って、匂いを確かめさせて』
『この動き、アニマルプラネット案件でしょ』
ベルゼブブは何かを確信したような様子だった。六本の脚が一斉に開き、不気味な弧を描くように地面に構えられた。
体がわずかに前傾する。複眼には俺が見えていないはずなのに、脚はすでに俺がさっき立っていた位置を「嗅ぎ当てて」いた。
触角がかすかに震え、匂いと気流の向きを組み合わせて、まるで地図を組み立てているかのようだった。
次の瞬間、彼は突進してくるはずだった。
体がわずかに前へ傾ぎ、再びあの瞬間的な速度を繰り出す構えを見せた。
空気中の塵が彼の周りに吸い込まれては吐き出され、不気味な気流を作り出していた。
数秒後、彼は再び俺のすぐ目の前に瞬間移動した。
その速度はまるでテレポートのようで、脚が地面に着地した瞬間、地面が砕けた。
だが俺はすでにその攻撃を予測していた。
翠甲羅を出現させ、左手で盾を構え、体の前に掲げて防ごうとした。
自分の動きが、まだ0.1秒遅かったとは思わなかった。
だが、それはまったく防げなかったという意味ではない――
たまたま、盾を持ち上げる動作が――アッパーカットへと変わっていた。
盾の縁が、まるでボクシンググローブのように、ベルゼブブの右目に強く叩き込まれた。
HP -26842
配信は歓声に包まれた。
視聴者たちがコメント欄に殺到した。
『今の一発、マジで最高すぎる!』
『翠甲羅ボクシング!新しい格闘技誕生の瞬間!』
『蠅の王:俺の目、どこ行った?』
この一撃は蠅の王の右目に命中した。
突進の軌道はその一撃で完全に狂わされた。彼は横から蹴られたかのように制御を失った。
巨大な体が俺の右肩めがけて弾き飛ばされ、害虫を三匹とウルフフライを一匹巻き込んで倒した。
HP -26
俺もその余波で軽くかすり傷を負った。
盾は砕け散ったが、同時に隠密セットの毒牙ガントレットと強制盲目効果が発動した。
傷口から緑色の霧のように毒が滲み出し、彼の複眼を腐食させていく。
視力は完全に失われた。
HP -4877
HP -3211
HP -1789
……
ベルゼブブは毒に冒された!
その上、俺は彼の目まで潰していた!
彼は今や、頭を失った生き物のように、めちゃくちゃに突進しては暴れ回っていた。
六本の脚が地面に次々と穴をえぐる。戦場全体が彼の体によって嵐のようにかき乱されていた。
アンドリアス・サピエンスにぶつかり、害虫にぶつかり、自分のウルフフライにさえぶつかる――巨大な食卓という台地は、完全な混沌へと叩き潰されていった。
ユウキはすぐさまサチを引き戻した。フェアリーの風刃がベルゼブブの周囲に渦巻く空気の壁を作り、彼の盲目の突進が俺たちの側へ及ばないよう食い止めていた。
ヘイムダルはその場で剣を構えたまま、まるで完璧な瞬間を待っているかのようだった。
そして俺は――
彼には見えない影の中に立ち、指先には雷が着実に力を蓄えていった。
蠅の王は視力を失った。
呪詛の言葉も、もう狙いを定められない。
その速さは、ただの混乱した暴走でしかなくなっていた。
彼は今や――
まさに頭を失ったハエそのものだった。




